百年の日のコピー28

百年の日(9)

 チャイムを鳴らして、返事がなかった。なかで待とうと庭にまわって、縁側から入ろうとした。開いていた。あとで注意をしなければならないが、助かった。暑いなか、玄関先で待ちぼうけしているのも馬鹿馬鹿しい。
「おやじ、いないの」
 と頭を入れて、一応声をかけた。
 鼻につく、こげくさい匂いがした。とっさに上がりこんだ。台所へ向かった。袖を口にあてながら、窓を開けた。電話で知らせなければならない、とどこにかければいいのか考えないまま、玄関に走った。
 そこで、帰ってきた史郎と、鉢合わせた。
「どうしたんだよ。血相かえて」
「いや、ガスが」
「ガス」
「変なにおいすんだろ」
 鼻を鳴らして、史郎はそのにおいを探したが、
「いや」
 と、なんでもないように靴を脱いだ。買いものぶくろを下げ、康平を置いてどんどん奥まで行ってしまう。康平は追いかけた。台所を通過し、史郎は居間で買ってきたものを出していた。
 康平がそこから上がった、縁側の窓は開けっぱなしである。さっきは鼻をふさいでいたから分からなかったが、変なにおいは、台所よりもかえってここのほうが濃いようである。
「おかしいかな」
 と史郎は地袋から、なにか取り出した。康平がのぞきこむと、
「最近の百円ショップはすごいね。線香まで売ってる」
「ああ」
 あくどい虹色をした線香である。色ごとに成分がちがい、七種類のにおいがたのしめるとある。
「これは、線香というか、おもちゃだろ」
「そうか」
「びっくりするだろ」
「すまん」
 史郎は言いながら、振り返った。康平も、つられた。開けはなったふすま越しに、となりの部屋が見えた。仏壇があった。虹色の線香から一本ずつ煙が立っていた。
「すまんかったね」
 誰にともなくつぶやきながら、史郎はその線香を抜き、灰皿に捨てた。
「あ」
 と康平は、思わずもらし、
「母さん」
「うん」
「いまごろだったっけ」
「うん」
「忘れてたな」
 史郎はしゃがんで、地袋のなかに顔をつっこみ、まともな線香がどこかにないか探していた。
「忘れてたのか」
 怒ったときの口調だった。康平はひやりとした。しかし、目を合わせたときの表情に、康平をとがめるものはふくまれていなかった。
「七月二十日」
 と言って、また史郎は地袋にもどった。
「海の日」
「まあ、いまはね」
「おれが、小学二年生くらいだっけ。二十年近く前か。そのころって、まだ海の日はなかったのか」
「うん」
 近所のスーパーで、足を踏みはずし、階段から落ちて死んだ。よほど打ちどころが悪かったのだろう。買いものかごをいっぱいにして、受身をとることもできなかった。
 葬式の風景を、断片的に覚えている。どの場面にもかならず優子の泣き顔があった。そのとき、優子は中学一年生だったという計算になる。優子の泣き顔だけははっきりとしているが、なんだか背景は焦点が定まらず、ぼやけている。
「すいか食うか」
 史郎は仏壇に線香をあげていた。ちゃんとした、ふつうの線香である。
「すいか切ってやるよ」
「じゃあ、もらう」
「待ってろよ」
 史郎は台所へ行った。康平の開けた窓をひとつひとつ閉めている気配である。
 やがて、半月形に切ったすいかを皿に乗せて、帰ってきた。三人ぶんあった。史郎はそのひとつを、仏壇にそなえた。
「知ってるか」
「なにを」
「すいか買ってたんだ。母さん」
「ああ」
「まるまる一個、大きいのをね」
「それで、足を踏みはずしたのか」
「おまえがほしいって言ったんだ」
「えっ、なに」
「すいか」
「そうなんだ。覚えてない」
「球のすいかじゃなきゃいやだって、だだをこねてね。今日から夏休みだから、特別だって、母さん買いに行ったよ」
 父親はもしかして、自分を責めているのかもしれないと思った。いまのいままで母親の命日を忘れていたこと。否定することができるほどのたしかな記憶はどこにもなく、史郎の言うまま、すべて、受け入れるしかなかった。なんの実感もそこにともなわず、後悔することもできない。いまここで悪かったとあやまるのも、ちがう気がした。
 種をよけながら、すいかにかじりついた。味は少しもしなかった。
 やさしい母親だった。康平が、すいかをほしいと言い、買いに行ってくれたというのは、ありそうなことだった。あまりいい顔をしない史郎に対し、今日から夏休みだから、と変な理由をつけて納得させたのだろう。
 階段から落ちていく、母親の姿が頭に浮かんだ。背中を下に、母親は、すいかを大事にかかえている。割れてしまわないように、必死に守っている。どうしても、そんな気がした。
 知らないうちに、すいかを食べ終えていた。ほとんど同時に、史郎も皮を皿に置き、
「馬鹿なやつだ」
 と吐き捨てるようにつぶやいた。
 今日が日曜。昨日の土曜から、もう今年の夏休みははじまっているな、と康平はいまさらのように思った。

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