銀匙騎士(すぷーんないと) (26)
がたがたふるえながら、安稜(あろん)は、逃げなかった。匙(すぷーん)を捨てて、化物虫の大味な突進を、意外に簡単に回避し、それでとたんに寒気がおさまり、夢の気分はいそがしい、まるで闘牛士(またどーる)、尻のでっぱりをしっかりとつかむ。
大回転投擲(じゃいあんとすいんぐ)にぶん投げようと、ぐるぐる、ぐるぐる、安稜がこまの軸になって、化物虫を振りまわす。
糸でつっていたのか、膠で空気にくっつけていたのか、星々は化物虫がひと刷けすると、棕櫚のほうきでさっと一文字したよう、さらさら、こぼれる。それがおもしろくなって、どんどん速くする。
嵐がまきおこって、安稜(あろん)は台風の目。木がなぎたおされる。輪菓子(どーなつ)型にえぐれていく、山が大根のようにひっこぬかれた。安稜(あろん)に届く前に粉々になった。
玩弄物(おもちゃ)の世界だ。めちゃくちゃにこわせ。宇宙の中心、だって夢だ。
手がすべって、化物虫がぶっとんだ。まるで隕石、断崖にななめに激突して、焦げくさい。
だめだ。ぜんぜん、きいてない。
こちらへ、顔の両端の複眼がぎょろり。安稜(あろん)を見つけて、琥珀、玳瑁、瑪瑙、鼈甲飴、灰色にあわくきらめく。
「なんだよ。来いよ。おれは、おまえをたおすぞ。そりゃそうだ。おまえは、ただの虫なんだから、遠慮しない。
火吹き竜とか、白長須鯨、巨人、雄牛だ。
おまえをたおせば、きっとおれは、なにか、なんだか知らないけど、きっと、楽になれる。もやもやして、苦しい。いつもなんかがたりなくて、ぶらぶら歩いてた。旅が終わる。
えっ、星の子供を助けたら、なにもかも終わるのか。星の子供って、じゃあ、なんだ。
おれは知らないぞ。この夢に出てくるまで、そんなやつ、考えたこともない。それは、助けられたらうれしいかもしれないけど。
なあ、誰だよ。
化物虫。こたえろよ。
うしろの海がぐつぐつ言ってるぞ。湾は大鍋、植物油(さらだおいる)が沸騰してるんだ。海老揚物(えびふらい)にして食っちまうぞ」
「知らんわ」
「なんだ、おまえか」
分かった気になったけれど、その、おまえ、は誰だ。
星が落ちてくる。
たまごの殻のように空がはがれる。
波がとがっていく。天地の距離が、せまくなる。自由なのを忘れたのだ。窮屈だ。もう夢からさめるのだろう。
べ、べ、べ、べ、べ
化物虫が飛んできた。
気持ち悪い。肉厚の羽根は蘆薈(あろえ)の葉をたばねて重い、空気をたたいて、べべべ、と鳴りみだれる。
安稜(あろん)は動けない。この匙(すぷーん)で、この匙(すぷーん)で、この匙(すぷーん)で、
「どうするんだよ」
化物虫の蝶の舌のようなうずまきが、鼻先すれすれに。見えるのはもう、うずまきだけ。気がついたら、大渦潮(めいるしゅとろーむ)で安稜(あろん)はあぶあぶして、激流の、無数の水の流れのすじになぶられていた。
「うわー」
と聞こえたのは、もう夢の敷居をまたいで、こちら、女の子がさけんでいた。
化物虫の顔。
女の子のくしゃくしゃになった顔。
安稜(あろん)の顔。
正三角形につきあわせ、はっとしたら、もう、爆発したようにすごい勢いで遠ざかる。器用にはばたく、向きはそのままに龍蝦(ざりがに)飛びに飛びしさったのだ。女の子が手をのばしたのに、その手をつかむのは間に合ったかもしれないのに、だめだった。寝ぼけていたのだ。しかたない、
「こんな顔もするのか」
と、とんでもない、心底そんな場合じゃないどうでもいい感想で女の子を危険にさらす。その瞬間はしかたないが、あとで、頭がはっきりしたらしみじみ気をくさらす。いや、
「そんな場合じゃない」
安稜(あろん)はかしこい。ちゃんと目がさめたら、つまらない、うまくもまずくもない味噌汁にふやけたような大人とはちがうのだ。
思わず手にとったのは、銀の棒、それは巨大な匙(すぷーん)だと、いま安稜(あろん)は知っている。そのつかいかたも分かる。火のついた榾木の一本を乗せて、ゆっくりあせらず背中にまわして、おがみうちにぶん投げる。
安稜(あろん)は一個の投石器(とれびゅしぇ)だ、非情の殺虫機械だ、見えない護謨でつながってでもいるように、ぽっちり赤い火の点がまっすぐ化物虫へ。
かがやきと、熱は、安稜(あろん)の魂のかけらのようで、女の子のために特別攻撃(たいあたり)して、玉とくだけ、花とちっても、なんて、そのときはそんなことは考えず、そうだとしても迷わなかっただろう。
その夜の夢を通過した安稜(あろん)は、寝る前とは少しちがっていた。いま、残っているのは漠然とした、たのしかったという心地よい、首すじににじんだ汗のにおいのような、かすかな鼓動の高鳴り、そのこだま。
自分ひとりで、誰のことばも借りないで、頭のなかに、あんな変な表象(いめーじ)たちが勝手に、手のつけられない自由奔放さで動きまわっていたのがおもしろい。ただ、たのしい。
女の子に、だらだら、おもしろいのか、おもしろくないのかよく分からない、それでもその日の考えたことを全部、完璧にぶちまけた。それが関係ありそうで、ああいう夢を見たのかもしれない。安稜(あろん)は、女の子に感謝するだろう。
なにか、どこかで解放されて、体と心のほんの一部分が軽くなった。あとで思い返したら、そんなふうに安稜(あろん)は、奇妙な残酷さ、勇敢さ、興奮、高揚、にやにやを説明しようとするだろう。
つまり、夢がつづいている。
ぱち、ぱち、
ざわ、ざわ、
かさ、こそ。
風と火と木々の葉っぱまで、安稜(あろん)に声援喝采を送り、もりあげる。
べら、べら、べら
北風が壁板のすきまからしのびこみ、ぴったりふさいでいたつもりの油紙を声帯に、べらべら、ぺちゃくちゃとめどなく、市場の辻のおばはんのように問わず語りに耳たぶをつめたくした、あんなみじめな気持ちにさせる声は、もうたくさんだ。馬の小便さえ、いま、ここでなら、絹の白糸の大いなる大河、五万騎の吶喊にもなろうけれど。
見よ、安稜(あろん)の残んの夢のゆくえ、その価値、
「よっしゃ」
あたった。けれど、しょせん、たったひとつぶの火の粉の全身全霊、ちくりとつねって、化物虫をいらっとさせただけだった。
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