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小説「天上の絵画」第二部

 高校二年生の頃、どうしても入賞したかったコンクールがあった。小さいころから大好きだった画家が、当時金賞を受賞したコンクールでその時の作品がきっかけで、彼は有名画家の仲間入りをした。
 自分もその画家と同じ賞を受賞すれば、その背中に追いつけるかもしれない。
 スランプに陥り、思う様に絵が描けずにいた当時の優愛にとって、そのコンクールは最後の希望だった。
 学校と食事以外の時間は全て絵を描くことに費やした。英司や先輩からも連日アドバイスをもらい、寝る間も惜しんでキャンバスの前に座った。
 そのかいもあって、半年間かけて描きあげた作品は、これまでとは比べ物にならないほどのクオリティで確かな手ごたえがあった。「これなら絶対に入賞できる」英司を始め、周囲の人間の声にも影響され、優愛の中に芽生えた自信は、やがて確信に変わった。だが結果は予選落ち。
 ショックだった。自分の才能の限界を突きつけられ、自信を喪失し絵を描くことが怖くなってしまった。
 美術部からも足が遠のき、筆を握っていない日が何日も続いていた頃、彼とたまたま再会した。
 「あっ、滝野さん…」
 気まずそうに顔を伏せ、そそくさと立ち去ろうとする彼を呼び止めた。
 帰り道でコンクール落選のことを話し、絵をやめようと思っていることを正直に打ち明けた。
 上級生からの嫌がらせが原因で、彼が一年以上絵から離れていることは知っていた。そんな彼ならこの悔しさや失望感を理解してくれるはずだ。
 「滝野さんの気持ちわかるよ。僕も本当に絵が嫌になった」
 優しい眼差しで振り返った彼は、穏やかな声音で言った。
 「でも僕は滝野さんの絵が好きだよ」
 英司も羨む実績と実力を持っている彼から言われるのは、例えお世辞でも嬉しかった。
 「お世辞じゃないよ。本当に滝野さんの絵が好きなんだ。あんなに柔らかい筆づかいの美しい絵は僕じゃ描けない」
 彼の表情を見れば、その言葉が本気であることは一目瞭然だった。
 「今回は上手くいかなかったけど、今度は大丈夫。絶対に入賞するよ。滝野さんの絵は唯一無二だ。誰にもまねできない。だからここで絵をやめちゃダメだよ」
 歯が浮くようなセリフに、こっちが恥ずかしくなった。
 「最近思うんだ。絵には描いた人そのものが現れるって」
 虚空を見つめた彼の瞳に、昔見たまっすぐな光が灯っていた。
 「几帳面で完璧主義な英司は、線一本一本から、構図、配置まで全て計算され尽くした絵。いい加減で気分屋な僕は、その場の雰囲気とノリで描くから感覚的な絵。大らかで優しい性格の滝野さんは、美しく滑らかな線と丁寧な色使いの絵。描いた人それぞれの個性や生き方みたいなものが絵に現れる。絵の前で自分を隠すことはできない。だから本当はコンクールなんて意味がないのかもしれない。審査員の尺度で無理矢理順位をつけているだけで、本来人の性格や人生に優劣をつけることはできないでしょ」
 言葉に熱がこもる。
 「それなのに、誰が金賞だ。特別賞だ。あいつは天才だ。恵まれてるって。恨んで嫉妬して。くだらないよ。どうしてみんな絵を楽しむことができないんだ。汚いよ。本当に汚い」 眉間に皺を寄せ、語気を強めた。
 「そうじゃなかったら、あんなこと…。あんなひどいことが起こるはずない!」
 今にも泣きだしそうな横顔を見つめていると、ちらりと顔を向け気まずそうに視線を泳がせた。
 「あっ…ごめん。滝野さんを慰めるつもりだったのに、なんか変なこと言っちゃった」
 気にしないでいいと顔を小さく横に振った。
 「とっ、とにかく滝野さんは大丈夫だってこと。だから、これからも自信持って絵を…。うん、そういうこと」
 不器用な優しさに、ささくれだった心が綻んだ。天才と持ち上げられていた裏で変人と揶揄され、理不尽な暴力に傷ついた彼を理解することは、おそらく一生かかってもできない。
 別れ際「私も渡井君の絵…好きだよ」と振り返った。西の空に輝く夕陽のせいか、彼の頬が赤く染まって見えた。
 「それじゃあ」と踵を返した瞬間「ありがとう」とかすかに聞こえた気がした。
 
 玄関のノブを掴みフラフラと立ち上がった。心臓の動悸は幾分か治まったが、額からは汗がにじみ出てきた。
 確かめないと…。
 リビングに戻り、電話をかけた。
 「お母さん、ごめん。私…まだ帰れない」

(つづく)

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