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小説「天上の絵画」第二部

 ベッドから跳ね起きた優愛が時計を見ると、深夜二時過ぎだった。身体を横にしてから一時間ほどしか経っていない。顔を洗うために洗面所へ向かうと、目の周りが腫れ、白目が充血している。頬には涙が流れた跡が残っていた。
 葬式が終わってから、それまで張り詰めていた糸が突然切れてしまい、受け入れがたい現実と胸を抉る悲しみが津波のように押し寄せてきた。英司を失った悲劇を自分の中で消化することができない。そのせいで毎夜悪夢にうなされていた。
 退職を申し出たのは優愛の方からだった。
 辞表を受け取った画廊の責任者は、目を丸くしたがすぐに憐れみの眼差しを向けた。
 「一度休職してみるのはどうかな。少しの間仕事から離れて、ゆっくり休んでみたら。退職するのは、その後でもいいと思うけど」
 休職中も国からの補償があるし、特別に給料の何割か支払っても構わないと言ってくれたが、これ以上迷惑をかけたくないと断った。
 このままこの職場で働き続けることはどうしてもできなかった。
 英司との思い出が多すぎる。
 彼のキャンバスと愛用していた筆、そろそろ補充しないと言っていた絵の具、機械が苦手でいつも頭を抱えていたパソコン。疲れてうとうとしていたビジネスチェア。
 眼を閉じれば、頭の中で英司の声が聞こえた。その度に誰もいないところでむせび泣いた。
 「元はと言えば、僕が英司を誘ったのが良くなかったのかもしれない。彼の才能だったら個人でも十分やっていけた。それを無理矢理僕が誘ったからこんなことに」
 そんなことはない。英司は感謝していたはずだと伝えると、物憂げな表情を浮かべた。
 大学の先輩である彼は、在学中から起業し卒業と同時に今の画廊をオープンさせた。入学当時から英司の絵に惚れ込んでいた彼は「卒業したら一緒にやろう」と事あるごとに声をかけていた。
 初めは興味がなくめんどくさい先輩だと思っていた英司だったが、やがて彼の熱意に負け共にやっていくことを決めた。彼の人脈と手腕によって、英司は在学中に二度も個展を開き、二十三歳の若さで、海外進出の足掛かりを作ることができた。
 「本当にあの人について行くと決めてよかった」
 生前の英司はよくそう言っていた。彼のおかげで間違いなく英司の人生は変わった。恨んでいるはずがない。
 「これからどうするの?」
 今のアパートを引き払い、来月の頭に実家に戻ることを告げた。
  「少し実家で静養するのもいいかもしれない。後のことは大丈夫だから、ゆっくりしてくるといい。もし何か困ったことがあれば、いつでも連絡してきていいから。出来る限り力になるよ」
 優しい心遣いに目頭が熱くなった。
 簡単な引き継ぎと挨拶を済ませ画廊を出ようとした時、スタッフ全員が見送りに来てくれた。何名かのスタッフは涙を浮かべていた。なぜか後ろ髪を引かれる想いがした。
 どうしてこんなことになったのか。自分は何か悪いことをしたのか。
 対象物のない憤りが英司を失った絶望を加速させた。


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