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小説「天上の絵画」第二部

 引っ越しを一週間後に控え「いい加減荷物をまとめなければいけない」という気持ちはあるが、身体が鉛のように重くどうしても動かない。
 「とりあえず段ボールだけでも」と組み立てているとチャイムが鳴った。
 のぞき穴から覗くと、見覚えのある男性が二名立っていた。事件後すぐに聴取にやってきた刑事だった。確か名前は権藤と長谷部。
 玄関を開けると若い長谷部が「突然お邪魔して申し訳ありません」と警察手帳を見せた。
 「少しお伺いしたいことがありまして、今お時間よろしいですか」
 ちらりと視線を向けると、白髪交じりの権藤が頭を下げた。
 「…なんですか」
 「事件のあったマンションのことなんですが―」
 長谷部が質問している間、権藤はせわしなく視線を動かしていた。
 一通り答えると「わかりました。ありがとうございました」と長谷部が礼を言った。
 「引っ越し、されるんですか?」と権藤が一歩前に出た。
 声音は穏やかだったが、視線は鋭かった。
 優愛が振り返ると、リビングとキッチンを隔てる扉の隅に段ボールが積み上がっていた。
 「実家に帰ることにしました」
 「お仕事も辞められたそうですね」
 怪訝な表情を浮かべると長谷部が申し訳なさそうに言った。
 「実は午前中に画廊の方へ行ってきたんです。それでスタッフの方から、滝野さんが辞められたと伺って」
 「…母が心配してすぐに帰ってこいと。私もその方が落ち着きますし」
 長谷部が同情した顔で首を縦に振った。
 「念のためご実家の住所を教えてもらってもいいですか?」
 「いいですよ」
 「ご両親も心配でしょうね」権藤がわざとらしく目を細めた。
 優愛がため息をついた。
 「母は父と早くに離婚してしまって。今は妹が母の面倒をみてくれています」
 「それはそれは。ご苦労されたんですね」
 大仰な態度で同情する権藤に違和感を覚えた。
 用事は済んだはずなのに、二人から帰る気配が伝わってこない。まだ何かあるのだろうか。
 「あの…まだ何か?」
 優愛がそう訊くと、権藤と長谷部が素早く視線を交わした。
 「一点、滝野さんに確認してもらいたいことがありまして。ここでは何ですから、場所を変えませんか」
 「…ここでいいですよ」
 「しかしー」
 長谷部は当惑しながら廊下に視線を向けた。
 「どうせすぐに引っ越しますし、隣の部屋の人の顔も名前も知りません」
 「そうですか」
 長谷部がちらりと見ると、権藤が首を軽く振った。
 「わかりました。ではこちらで失礼します。実はー」
 肩にかけたカバンの中から、透明なビニール袋を取り出した。
 「現場にあった一本の筆から犯人のものと思われる指紋が見つかりました。それがこちらです。見覚えはありませんか?」
 優愛はビニール袋に入った細筆を見た。どこにでもある普通の筆で、英司が何百本と持っていた筆の中の一本だ。
 「同じ筆が何本もあったので…すみません」蚊が泣いているような小さな声でつぶやいた。
 「まあ、どれも似たようなもんですからな」
 権藤が歯を見せて笑った。
 「ただ、どうしても気になりましてね。犯人は部屋中の指紋を拭き取っているんですよ。でもこの筆には指紋が残っていた。おそらく拭き忘れたんでしょうが、問題は指紋が残っていたことではなく、犯人が何のためにこの筆に触ったのか」
 「・・・」
 「今は固まってますが、この部分に黒の絵の具がついてます」権藤の指の先を見ると、毛先がわずかに黒くなっている。
 「鑑識が調べた結果、被害者のアトリエにあった絵の具と成分が一致しました。犯人がこの筆を使って、何を書いたのか、もしくは塗ったのか。そこまではわかっていませんが、被害者を殺害し丹念に指紋を拭き取り、一刻も早く現場を立ち去りたい犯人がわざわざこの筆を手に取った。そこには重大な意味が隠されているのような気がしてならんのですわ」
 冗談っぽい口調の中に真剣さがにじみ出ていた。
 「私には…よくわかりません」
犯人が何をしたのか、そんなことは知りたくないし、考えたくもない。
 「もちろんもちろん。それを調べるのは我々警察の仕事ですよ」
 「滝野さんにお聞きしたいのは、事件当日、岩谷さんが誰かと会う約束をしていなかったかということです」
 「えっ…」
 「現場の状況から考えて、顔見知りの犯行である可能性が高いんです。しかも筆を使っていることから推測すると、同じ画家ではないかと」
 背筋に冷たいものが走った。学生服姿の彼が遠い目をして立っている。
 「…わかりません」
 喉の奥から絞り出すように言った。
 「岩谷さんの周りに何か変化はありませんでしたか?例えば昔の友人と再会したとか」
 心臓が物凄い速さで脈打っている。
 「そんな話は…聞いてません」焦っているせいか、少し早口になった。
 「退職された方と今でも親しくしているとかはありませんでしたか?」
 「…いいえ」
 「そうですか。不躾な質問ばかりですみません」
 謝罪を口にする長谷部の後ろで、権藤が笑顔を作った。
 「ご実家でゆっくりできるといいですな。何かあればまた連絡します」
 二人の刑事は疑う様子も見せず帰って行った。
 
 玄関にもたれかかると、力なくへたりこんだ。手足の先が冷たくなっていくのがわかった。
 「そんなはずはない」と自分を説得するが、一度息をした“疑い”は、そう簡単に消えてはくれなかった。

(つづく)

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