見出し画像

小説「天上の絵画」第二部 vol.7

こんにちは。2026年直木賞を受賞する小説家の川井利彦です。

今回は小説「天上の絵画」第二部 vol.7をお送りします。

今回のお話は『天上の絵画』の展覧会が美術館で行われ、そこに招待された主人公の渡井蓮とヒロイン滝野優愛との再会が描かれています。

前回のお話をまだ読んでいない方はこちらからどうぞ。

「そもそも天上の絵画ってなんですか?」という方は、こちらをどうぞ。

さらにメンバーシップ内にて「小説家川井利彦のここだけの話」をお伝えしています。

月額2500円(初月無料)

ぜひこちらも物語と併せてお楽しみください。

それでは本編どうぞ!!


7

 春の気配が街の中を少しずつ歩き始め、ほのかな暖かさを感じる三月。蓮と上杉弥栄子を乗せたタクシーは、林に囲まれた美術館の敷地の中に入っていった。
 大通りから一本外れた小高い丘の上に建つ煉瓦色の建物は、劣化が進み寂れた印象を受ける。壁面には緑色の蔦がからまっていた。
 緩やかなカーブを描くロータリーに入ったタクシーはゆっくりと減速し『従業員専用』と書かれた扉の前でください。
 「懐かしいんじゃないですか?」
 蓮は昔の記憶をたどってみたが、十三年も前のことなのでほとんど覚えていなかった。唯一覚えていたのは、自分が描いた絵の前で家族で記念写真を撮ったことだ。誇らしげな母親と緊張し引きつった笑顔の父親の姿だけは、今でもはっきりと脳裏に浮かぶ。
 「あんまり覚えてない」
 「…そうですか」
 膝の上に乗せたタブレットに視線を落としたまま、上杉弥栄子がそっけなく言った。
 二人がタクシーを降りると、白髪まじりの初老男性が通用口を開けて駆け寄ってきた。
 「本日はお忙しい中ありがとうございます。私、館長の坪井と申します。突然のお願いだったにも関わらず、快くお引き受けいただき感謝しています」
 慇懃に礼を述べた坪井館長は額の汗を拭った。
 「開館して以来の大反響で、今日も問い合わせの電話が鳴りっぱなしです。県外からも大勢の人が来られてるみたいですよ。昨日の夜から並ばれてる人もいて、慌てて警備員を増員しました」
 寝不足と疲労のせいで顔色が少し青白く見えたが、口調は充足感に満ちていた。
 「この美術館も来年で創立百周年を迎えますが、歴史に刻まれる記念すべきセレモニーに関われて光栄の極みです。渡井画伯が小学生の頃は、私の前任者が館長を勤めておりましたので、お会いするのは初めてですが、ご活躍は常に耳にしていました」
 言葉の端々から尊敬の念が伝わってきて、悪い気はしなかった。
 「まずは控室の方へご案内しますので、どうぞ」
 坪井館長に促され『従業員専用口』をくぐった。
 美術館の方から『天上の絵画』の展示会を開きたいとオファーがあったのは、二ヶ月前のことだ。あまりに急な話だったため、上杉弥栄子は断ると言ったが、この美術館が『全国小学生絵画コンクール』で金賞を受賞した際、両親と共に訪れた美術館であることを伝えると目の色を変えた。
 「思い出の場所なら、それだけで話題になりますね」
 
 『10歳の天才少年が13年ぶりに世界一の称号とともに凱旋』
 大々的にメディアに取り上げてもらえれば、それだけで話題にもなる上に、今後の活動に拍車がかかる。そう意気込んだ上杉弥栄子は、美術館に連絡を取り、すぐに話をまとめた。
 展示会と併せてトークショーも開催され『天上の絵画』に込めた想いや苦労話なんかを来場者の前で話してほしいと頼まれていた。さらに、恩師である湯澤徹も登壇し、二人で当時の思い出話を語ることになっている。どちらかというと、このトークショーの方がメインだ。
 湯澤との再会を喜ばしく思う反面、妙に胸の中がざわつくのはなぜだろうか。久しぶりの再会に緊張しているのかもしれない。

 坪井館長は「館長室」と札のかかった部屋の扉を開けた。
 「少し狭いんですが、ご自由にお使いください」そういって、部屋の中を示した。
 八畳ほどの一室にデスクや腰の高さほどのキャビネット、資料や使い込まれた図鑑がしまわれている本棚が置かれており、右奥にソファセットがあった。
 「こちらへ」
 坪井館長に促され、ソファセットに腰掛けたが、薄暗いせいか上杉弥栄子が反対側に来ただけで圧迫感があった。すぐ隣は事務所になっているのか、話し声や電話の音、せわしない足音がひっきりなしに聞こえてくる。
 「トークショーは予定通り十一時から開始します。まずは渡井画伯お一人で壇上に上がっていただき、司会者の質問に答えていただきます。質問内容は事前にお伝えした通りです。その後、恩師である湯澤先生も登壇されますので、お二人で当時の思い話なんかをしていただいて、十二時半に記念撮影をして終了となります」
 「湯澤先生ももうここに?」
 「いえ、向かっている途中で渋滞に巻き込まれてしまったようで、到着がギリギリになると先ほどご連絡がありました」
 「では打ち合わせをする時間はなさそうですね」
 「湯澤先生は『教え子と話すだけだから問題ない』と笑っておられましたよ」
 「頼もしいですね」
 上杉弥栄子と坪井館長が談笑している横で蓮は苛立っていた。
 「あの、別の場所はないんですか?ここじゃ狭いし暗いし落ち着かない」
 「あいにくこの部屋以外に控室に使えそうな所が…。普段は来客もほとんどありませんので、このソファも館員との打ち合わせで使われることが多く、手入れが行き届かず…。窮屈な場所で申し訳ありません」
 坪井館長が申し訳なさそうに頭を下げた。
 「もしあれでしたら、すぐそばに落ち着いた雰囲気の喫茶店があります。渡井画伯はそちらに行かれても―」
 「その画伯ってやめてもらえませんか?古臭いっていうか、僕のイメージには合わないと思うんですよね」蓮はソファの背にもたれかかり、足を組んだ。
 「大変失礼しました」
 当惑しているのか坪井館長は、声を上擦らせた。
 埒が明かないとさらに苛立った蓮は「トイレはどこですか?」と辟易した声で訊いた。
 「この部屋を出て、左の奥にございます」
 坪井館長の横を通り抜ける際、肩が軽くぶつかったが気がついていないふりをして、そのまま館長室を出た。
 蓮がトイレから戻ると、上杉弥栄子が一人きりでソファに浅く座っていた。相変わらず難しい顔でタブレットを操作している。
 テーブルにはお茶と差し入れの饅頭が置かれていた。あんこが苦手な蓮は眉をひそめた。
 「さっきの態度はなんですか?」
 咎めるような鋭い口調で上杉弥栄子が目線を上げた。
 「なんのこと?」
 蓮の態度が癇に障ったのか、上杉弥栄子はタブレットをわざと音を立てて閉じた。
 「館長に対する態度です。お忙しい中、ここまで準備してくださったんです。もっと敬意を払うべきでは」
 「だって事実だろ。狭いし暗いし、隣りからの音をうるさいし落ち着かないよ」
 右手で饅頭を鷲掴みにした蓮は、周りの皮の部分だけをちぎって口にほおりこんだ。
 「それはそうかもしれませんが、言い方というものがあります。私にはまるで子供が駄々をこねているようにしか見えませんでた」
 「展示会を開きたいって言ってきたのは向こうだ。僕らは客だろう。迎えられる側だ。少しぐらいのわがままは許されてもいいと思うけど」
 「何か勘違いされているみたいですが、私達はお客じゃありません。渡井蓮というブランドを人々に知ってもらうために、協力していただいているんです。何度もお伝えしていますが、世間はすぐに渡井蓮を忘れます。あなたの絵が世界一を取ったことも、すぐに風化してしまいます。だから今のうちに少しでも、人々に認知してもらい、今後の活動の土台を作っておく必要があるんです」
 「その話は何回も聞いてるよ」蓮はこれ見よがしに大きなため息をついた。
 「でもさ、本当にそうかな?」そう言ってソファに深く沈み込んだ。上杉弥栄子がわずかに首を動かした。
 「さっき聞いただろ?開館以来の反響だって。夜中から並んでいる人がいるって。それだけ大勢の人があの絵を見たいんだよ。ここだけじゃない。他の美術館からもオファーが来てるって言ってたじゃん。取材だって三ヶ月先まで埋まってる。まだまだたくさんの人があの絵を、そして僕を必要としているんだ。そんなに焦らなくても大丈夫だと思うけどな」
 「ですから、それはー」
 「僕がそれでいいって言ってるんだから、もういいじゃん。その話は終わり!あんたマネージャーだろ。これからトークショーがあるのに、主役の気分を下げてどうすんの」
 上杉弥栄子は下唇を噛むと、絞り出すように言った。 
 「…わかりました。この件は後日ちゃんと話しましょう。ところで―」小さく咳ばらいをした。
 「次回作の進捗状況はどうですか?題材は決まったとおっしゃっていましたが、もう下書きはある程度描けましたか?」
 「…まだ何も」蓮の目が泳いだ。
 「は?」
 「いろいろ考えたんだけど、題材を変えようと思って。構想がイマイチ浮かんでこなくて、筆が進まないんだよね。だから一から考え直すことにした」
 「別にそれでも構いませんが、なるべく急いでください。『天上の絵画』の“次の作品”はとても大切です。“次”である程度の評価を集めておかないと、一発屋のレッテルを張られてしまいます。悩んでいるようなら、相談にのりますよ」
 「いや、大丈夫。来月には下書き描くよ」
 茶色を帯びた瞳が鈍く光った気がして、蓮は思わず視線をそらした。自分の本心が見透かされているようで、腹の底が冷たくなった。
 数日前から描こうとはしているのだが、全く筆が進まなかった。以前はキャンバスの前に座っただけで、頭の中にイメージが浮かび、筆が勝手に動いた。
 その時の感覚が一向に蘇ってこない。
 真っ白なキャンバスは、ただやみくもに焦燥感を募らせる。黒くて冷たいものが胸の奥に広がり、失望で頭が重くなった。
 「大丈夫ですか?もし―」
 扉をノックする音が聞こえ、坪井館長が顔を覗かせた。
 「お話中のところ申し訳ありません。渡井さんにどうしてもお会いしたいと言う方が見えているんですが―」
 「誰ですか?」
 どうせ熱心な絵画ファンかもしくは母親だろう。今日の美術館のイベントのことを近所の人から教えてもらったと、昨日メールが来ていた。
 「どうせ母ですよね。断ってください。あとで連絡しておくので」蓮はめんどくさそうに片手を振った。
 「いえ、渡井さんの高校の同級生で…滝野さん?と、おっしゃっていましたが」
 「えっ」ソファの背もたれから身体を離した。
 「滝野って、まさか…滝野優愛さん?」
 「はい。どうしましょうか。本番までそんなに時間もありませんし―」
 「会います!どこですか?」
 勢いよく立ち上がったせいで、テーブルの角に膝をぶつけた。
 「事務所で待ってもらっています。ですがあまり時間が…。もうすぐ湯澤先生もご到着されますし」
 坪井館長が言い終わる前に上半身が前に出ていた。
 「ちょっと、行ってくる」
 目を見開いた上杉弥栄子の姿を視界の隅でとらえたが、なりふり構わず廊下に飛び出した。
 すれ違ったスタッフに事務所の場所を聞いて、足早に廊下を進む。気持ちが高ぶっているのか呼吸が浅い。
 『関係者以外立ち入り禁止』と書かれた扉の前で、大きく深呼吸した。
 扉を開けると、滝野優愛が顔を上げた。
 「渡井君―」 
 軽くウェーブのかかった黒髪がふんわりと揺れる。花柄のロングスカートにベージュ色のニット、手にはチェック柄のジャケットを持っていた。英司の葬式の時とはメイクが違うのか、どこか大人びて見えた。目鼻立ちのはっきりした顔立ちは高校時代から変わらず、その華憐さに蓮は一瞬で心を奪われた。
 「こんな時にごめんなさい」
 姿勢を正しゆっくりとした動作で頭を下げた。その動作一つ一つが美しくまばたきするのも忘れていた。
 「その…どうしても、おめでとうが言いたくて」はにかんだ笑顔がまぶしくて、顔面がカァと熱くなる。
 「あっうん」照れくさくなった蓮は鼻の頭を指先でなでた。
 ふと見ると、美術館のスタッフがちらちらと好奇の視線を向けてくる。
 「あっちで話そうか」声がほんの少し裏返ってしまった。
 「うん」
 廊下に出てみたのはいいが、二人で話せるような場所に心当たりがなかった。美術部の中はイベント参加者が大勢集まっているし、蓮が行けば嫌でも目立ってしまう。しながら歩いていると、偶然中庭のような場所を見つけた。周囲を建物に囲まれた長方形の小さな開けたスペースには、ベンチや花壇、人の背丈ほどの木々が植えられていた。
 春の緩やかな陽光に包まれ、空気が輝いて見える。
 「入っていいのかな―」恐る恐るノブを回すと軽々と扉が開いた。
 「ここって?」
 「わかんないけど、少しくらいなら大丈夫じゃないかな」
 苦笑いを浮かべて中庭に足を踏み入れた。戸惑いながら滝野優愛もそれにつづいた。
 「あそこなら」近くにあったベンチを示すと、左端に腰掛けた。滝野優愛がその隣に座ると、自然と背筋が伸びた。
 「ステキなところだね」
 そよ風に拭かれた優しい香水の香りが、蓮の鼻腔まで届いた。
 「改めて、受賞おめでとう。この前話してくれたよね。良い所までいった作品があるって」
 「うん。でもまさかこんなことになるとは思ってなかった」
 頬が上気しているのが自分でもわかった。
 「テレビのインタビューも見たよ。すごく堂々としてて見違えた」
 「あんなの大したことないよ。聞かれたことに答えただけだから。どの記者も聞いてくることは似てるし」
 「それでもすごいよ。同級生として鼻が高い」
 滝野優愛は目元を綻ばせた。
 「渡井君のおかげで、私も頑張ろうって思えた。実はね…仕事辞めたんだ」
 「えっ」
 「英司君があんなことになって、仕事のことを考える余裕がなくて。それにあそこには思い出が多すぎるよ。同僚も代表も休職したらどうかって勧めてくれたけど」
 なんと声をかけたらいいのかわからなかった。
 「でも渡井君のニュースを見て、勇気をもらった。渡井君も頑張ってるんだから、私も頑張れるって」
 長方形に切り取られた青空から降り注ぐ陽光が、滝野優愛の澄んだ瞳の中に光の球を作った。その一つ一つには希望や岩谷英司という存在がつまっている。渡井蓮という存在もその光の球の中に加わることができたのだろうか。
 「僕は何もしてないよ」
 恥かしさと幸福感が爆発し、飛び上がりたくなるのを、一握りの理性で抑えた。
 不幸のどん底にいた滝野優愛を助けあげることができたことが単純に嬉しかった。
 他者からの容赦ない暴力と理不尽な嫉妬によって、自暴自棄となり人生に落胆していた。「どうせ自分には」と投げやりになっていたが、そんな自分でも滝野優愛の心の助けとなることができる。彼女だけではない。今日美術館に集まった大勢の観客の心を動かすことができた。
 
 ようやく自分の人生を取り戻せる。

 そんな気がした。
 
 「私もまた絵を描いてみようかな」
 晴れ晴れした笑顔で滝野優愛が言った。
 「僕も次を描こうと思ってて、構想はね―」
 二人でこれから描きたい絵のことやその魅力について語り合った。
 いつまでもこの瞬間が続けばいい。
 蓮は心の中で本気でそう願った。
 「こんなところにいた!」
 血相を変えた上杉弥栄子が中庭に駆け込んで来た。
 「そろそろ本番だから、早く会場にー」
 滝野優愛に視線を向けた上杉弥栄子が目を瞬かせた。
 「あなたは?」
 
 「あっ彼女が滝野さん。高校の同級生で、今日はわざわざ来てくれたんだ」
 蓮がそう紹介すると滝野優愛は立ち上がり恭しく頭を下げた。
 「滝野優愛です。こんな時にお邪魔してしまってすみませんでした」
 「初めまして。マネージャーの上杉です」と名刺を差し出した。
 「マネージャーさん?」滝野優愛は受け取った名刺をしげしげと眺めている。
 「渡井さんの同級生ならあなたも絵を?」
 「はい。あっでも、今はちょっと―」
 「彼女の絵も素敵だよ。弥栄子さんもきっと気に入ると思う」
 「へえー。ぜひ今度見せてください」
 「いえ、最近は描いていないので。それにとても見せられるようなものじゃ」
 滝野優愛が苦笑いを浮かべて、首を横に振った。
 「滝野さんならすぐに入賞できるよ!僕が保証する」
 「そんなことは―」
 「もしマネージャーが必要でしたら、ご連絡ください。私以外にも優秀な人材が控えておりますので、きっとお役に立てると思います」
 事務的な口調で上杉弥栄子が言った。遠回しに自分は優秀であるとアピールしているのが鼻についた。
 「そんなことより平気なんですか?すごく慌ててましたけど」
 「あっ!」
 上杉弥栄子が蓮の二の腕を掴んだ。
 「早く会場に!湯澤先生も到着されています」
 時間が経っていることに全く気がつかなかった。
 「急いでください!」
 上杉弥栄子に急かされて中庭の出口へ足早に向かう。 
 「じゃあ滝野さん。また後で」
 「うん。頑張って」
 滝野優愛が小さく片手を振っている。思わず口元が緩んだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?