誕生日と若返りと吸血鬼
7月11日の今日、一年ぶりに歳を取った。「セブンイレブン」という誕生日は覚えやすい。小さい頃から誕生日を口にすると「セブンイレブンなんだ!覚えやすくていいなあ」とよく言われた。が、実際に覚えていてくれるかどうかは話が別。関心のある相手だったら誕生日が何月何日でも覚えられるものだし、そうでなければすぐに忘れる。時間は人為的な区切りに過ぎないので、誕生日を迎えたからと言って昨日と今日で自分自身に明確な違いが生じるわけではない。それでも「また一つ年を取った」ことは否応なく意識させられる。書類に年齢を記入する時など特にそうである。
大学に勤めていて時々感じるのは、教員には実年齢よりも若く見える人たちが多いのではないかということ。自分の職場だけではなく、研究会などで顔を合わせる同業者たちもそうである。必ずしも見た目が若いとか童顔だというわけではなくて、雰囲気が若い。子どもっぽいと感じる人さえいる。普段の仕事で気苦労を感じていないからだ、という理由はまったくの的外れとも言えないけれど、それよりも日常的に二十歳前後の若者と接していることが大きいだろう。30歳を過ぎてから大学に着任した私でも、最初の頃はスクールバスの運転手や職員に学生と間違えられることがしばしばあった。間違えられて嬉しくなってしまうのだから始末に負えない。あれから10年が経過してさすがにもうそんなことはなくなった。学生に間違われるのが嫌になったという意味ではなく、もう学生には見えなくなったということである。
ところで大学は自分の年齢をより強く意識するようになる場所でもある。少なくとも私にとってはそうでだ。一年ごと年齢が一つ増えるのは誰にとっても同じで、年齢を示す数字が増える都度、そのことを意識する人は多いだろう。書類に記入する年齢が42から43に変わったのを目で確認して、ああ、また歳を取ったなあ、と思うわけである。去年の自分と比べて「絶対的」に歳を取る。他方で大学には学生という、「まったく歳を取らない」人たちが存在している。もちろん言うまでもなく個々の学生はやはり一歳ずつ年を取るのだが、自分が授業やゼミで顔を合わせる学生は常に同じ年齢である。そのため学生と私の年齢差が毎年一つずつ広がっていく。私は「相対的」にも歳を取っていくのである。長く勤めていると学生と接するのが段々億劫になってくるという話をたまに耳にするが、教員自身が絶対的に歳を取ったせいだけでなく、相対的な学生との年齢差が大きな理由なんじゃないかと思う。その点、同僚と接するのに問題は生じない。同僚も同じように毎年、年齢が上がっていくからである。
先日読んだ記事の中で、若いマウスの血液を注入したところ老いたマウスが「若返った」という研究が紹介されていた(「老いを止める「秘薬」を求めて」『ニューズウィーク日本版』2021年5月25日号)。若返ったマウスは課題の成績が向上したり、脳内で作られるニューロンが増えたりしたのだという。この記事を読んですぐにバートリー伯爵夫人が頭に思い浮かんだ。17世紀のハンガリーに生きたエルジェベト・バートリーは、自分の若さと美貌を保つために若い女性たちの血を飲んだり、血液で満たした浴槽で入浴していたそうで、ブラム・ストーカーの『吸血鬼』のモデルの一人とも言われる。今から300年以上も前に「若返り」の鍵は血液にありと見抜いたことを思うと、人間の感覚は執念で鋭くなるのかもしれないなどと妙な感心の仕方をした。
バートリー伯爵夫人の話を最初に知ったのは確か、大学生の頃に『吸血鬼伝説』という本を読んだ時だったと思う。この本は創元社が刊行している「知の再発見双書」シリーズの1冊で、久しぶりに本書を読み返してみると、そこでの記述は記憶と少し違っていた。バートリー伯爵夫人が多くの若い女性を拷問にかけていたのは事実だが、哀れな被害者たちの血を本当に飲んでいたのかどうかは分からないようだ。事件のあと、かの地には様々なうわさが飛び交い、伝説が生まれたので、「飲血」もそうしたうわさや伝説の1つに過ぎないのかもしれない。
先に挙げた記事は将来的に不老長寿を可能にするかもしれないという研究に触れたあと、ある研究者の「金持ちの老人だけが若い血を買えるとなると、誰しも不快感を覚えるだろう」という言葉を最後に紹介している。不快感を覚える理由は、彼らが現代版の吸血鬼と重なるからなのかもしれない。
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