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PDCAはなぜ必要なのか

国語算数理科社会に並ぶ「基本」のようなレベルで世に浸透している言葉「PDCA」について。

それは言い過ぎにしても、基本的に会社に入社した初期に習う知識であったり、「伝わって当たり前」という前提でこの単語が用いられていることには異論はないと思う。

そもそもPDCAってなんのか?そして、なぜ必要なのだろうか?ということについて。


私はPDCAを推す

はじめに明らかにしておきたいのは、私自身はPDCAを推奨している。賛成派だ。

この考え方&行動の仕方はぜひ身につけた方がいいものだ、という主張で、実際に人に勧めている。オススメの1冊をあげるなら「鬼速PDCA」になる。

これは「誰にとっても重要で、扱えると人生を助けるもの」という認識を持っているけれど、私の解釈は一般の人より抽象的で独自かもしれない。

人によっては「お前が言っているのはPDCAじゃない。独自の目標達成アプローチだ」と言われそうな気もする。


たとえば私は、PDCAを「常に固定された(きまった)手順を踏むもの」という捉え方はしていない。(それは「使えない」だろう)

そのため、その仕方を仮に「PDCA」と呼んでも「OODA」と呼んでもどっちもでいい。それらは「本質的に一緒」だし、逆に本質的に一緒なら呼び名はなんだっていい。

しかし、このアプローチを表せる端的な言葉としては「PDCA」がもっとも近いと思っているので採用している。それは「『仕事』を達成するためのものだ」という共通認識のある単語であり、PDCAの内実はそういったニーズに応えられるものだからだ。

ちなみにOODA(ウーダ)とは、PDCAよりも現代に合った目標達成アプローチとして、変化の速い状況で強みを発揮するアメリカ空軍の用いる手法。Observe(観察)、Orient(方向づけ)、Decide(意思決定)、Act(行動)の頭文字をとったもの。

人によって意見は様々ある。「PDCAはもはや不要。現代では無意味」「この時代に対応できるのはOODA」「そもそも人はPDCA(改善)などできない」など。

それでも私が「誰でも使えるようになる方がいいもの」と言うのは、PDCAをよーするに「仮説検証プロセス」という抽象度で捉えているためだ。


なので、どのようにPDCAを実行するかは状況に依る。

OODA的にやる方がいいならそうすればいいし、かっちりプランを立てて目標を確定させることが有効な時も、そんなことは不要な時もある。

目標を持たず現状から一歩一歩進む仕方(順算式)の時だって、その内部の思考回路としては仮説検証は回っている。


仮説検証的な仕方ができる人とできない人では、モノゴトへの取り組みの自由さや柔軟性、持続力や達成率が圧倒的に違う。どのような人生を生きたいかは人によるけれど、他人や運任せの生き方でなく、自分が求めるものを自分で手にしたい場合や、応えたいモノゴトに応えるためには必ず役に立つ。


PDCAとは何か(持論)

「PDCA」とは、ゴールを達成(あるいは取り組みを終了)するまで続く仮説検証プロセスのことであり、「PDCAを回す」というのは仮説検証しながら目標に向かうこと、そのようにして「事に当たる」ということだ。

そのため、当たる「事」によっては、そのやり方自体は柔軟に変えれば良い。

これはマッキンゼーの赤羽雄二さんも同じ意味のことをおっしゃっている。呼び方なんてどうでもいいからとにかくさっさと仮説出して行動していけ、みたいな感じ。私も同意だ。


この「仮説検証プロセス」と表しているものを細かくいうなら、それは「現状を目標にとって必要そうなレベルの正確さで把握して」→「それに基づいて、現状から目標を達成するための仮説案を出して(必要に応じて複数出して)」→「実際に実行する次の手を1つ決めて」→「それを実際に実行して」→「実行した内容とその結果を把握する」→「目標を達成するまで続けていく」ということだ。

PDCAという言葉を使わなくても、やっている自覚がなくても、何かの目標を達成していく人、ある程度自分に裁量がある仕事をしている人であれば、絶対に誰でもやっている流れだ。

そのため私の感覚では、「PDCAがいらない」という言葉は「仮説検証プロセスがいらない」と聞こえる。それはちょっと極端にいえば「妄想の中で生きていればいい」というように聞こえる。

なので、それはちょっとおかしくないかい?と感じる。


PDCAの回し方

重要なことは「①現状を事実ベースで把握→②望みに適いそうな仮説を決める→③実際に実行した結果を残す」このサイクルを続けて、目標と現実を同期させていくことだ。

PDCAは4サイクルで表されているけど、本質は3サイクルと感じる。

どんなことをする時も
①現実をきちんと理解する
②どうやったら目的が達成できるか現実ベースで仮説を決める
③実際に実行してその結果を残す(そして①へ)
ことは、その達成に対して有効だ。

ただ、実行する時のやり方がまずいと悪影響になるので、扱い方に注意は要る。

目標が非現実的な高さだったり、仮説が実行不能だったり、実行しっぱなしで2手目を打てなかったり、失敗で心を痛めたりするのはよくない。

「現実的な仕方で」行うことが必須だが、途方もない夢や目標をぶち上げ、今ここを無視したプランを立てると失敗してしまう。それではPDCAサイクルは回らない。


PDCAがなかったころの私

①そもそも「現実をちゃんと把握する」ことができなかった頃は、モノゴトをなんとなく思い込みで判断していた。例えば「めっちゃ筋トレしてるのに筋肉つかない。そういう体質なのだ」と思っていたが、実際の筋トレ時間を記録してみると週20分くらいしかしていなかったり、食事をみれば全然カロリーが足りていなかったり。

②「仮説を出す」ことができなかった頃は、とにかく思い浮かんだことを実行していた。しかし、それはよく考えれば無駄なことだったり、遠回りなことも多かった。それよりも、そもそも「仮説」という発想がなかったので、絶対に目標を達成できそうな方法はなんだろう?といった「正解」を求めて、それがわかるまで永遠に動けないこともあった。また、1度の失敗で精神的に大ダメージを負ったりもした。仮説、文字とおりこれは「仮」であり「実験」である、といった意識がない時は、行動の1つ1つが重くなる。

③の「実行して、出た結果を残す」ということができなかった頃、そもそも理想的な達成計画を立てただけで実行すらしなかったり(実行しないと何も変わらないということが頭から抜けている)、仮説を曖昧に実行しただけで「やった気」になっていた。それは例えるなら、カレーを作るのに「ルーはまあ、入れないでもカレーくらいできるっしょ。だってたまねぎ刻んでんだから」みたいな、レシピを無視しためちゃくちゃな勝手さで実行するような感じだ。当然カレーはできない。が、それで「行動したけどできなかった」などと判断する。


↑こんなヤツ、馬鹿にしか見えないかもしれないが、わりと人ってこんなものだ。そして、まじめに努力しているつもりなのだ。ただ、そのまじめな気持ちや労力に見合わないという悲惨さがある。

そんな私は「PDCA」という考えが頭に入った時に、モノの見え方がガラッと変わった。そして、実際に人生が変わった。だから私はPDCAを人に勧めている。


PDCAはなぜ必要なのか

学生時代に勉強や受験をしっかりがんばった人や、運動系の部活などで真剣に優勝を狙って取り組んだ経験のある人は、自然に身についていたりする。

仕事ができる人なども、わざわざ「PDCAだ」なんて考えることもなくできている。

ただ、自覚はどうあっても、「その形式でモノゴトを進めている」のは間違いないように見える。

結果の出るPDCAを回すには、「今ここ」を重視する必要がある。今を無視した妄想の逆算計画を立ててもうまく行かない。


PDCAを実行できること、それを学ぶことはなぜ必要なのか?

それは、自分の人生を自分で変化させていくために有効なアプローチだからで、しかしきちんと学ばなければうまく機能しない可能性があるためだ。

私としては、PDCAを知って、そして使えるようになったことで人生が確実によくなったし、今もよくなっているという実感があるため、「現実的に使えるPDCA」というものを伝えていきたい気持ちを持って紹介している。

余談だが、私がタスクシュートクラウドを知っていきなり効果的に使えたのも、前提にPDCAの知識・発想を持っていたから、という面がある。


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