見出し画像

私の「東大」受験物語

東大のよくある笑い話として、カラオケで学生証を提示する瞬間につい得意気になってしまう、というものがあります。

確かに学生証を提示している時、人は個人を超えた「東京大学の学生の一人」として認識されます。「自分」として責任を負いながら生きている人間が、所属によって「自分」が覆い隠された時に荷物を代わりに持ってもらった時のような解放感を得られるのは間違いないでしょう。

推しとか恋愛とか、心を強く揺さぶるものに触れてきた人は人間としての深みが桁違いですが、生憎私には「私」として語れるような物語はありませんでした。一種の責任逃れのようで恐縮ですが、「東京大学の学生の一人」としての東大受験物語を伝えられたらと思います。

私もかつて、「東大受験生」としての自己認識を意識的に行ったことがあります。一度に最大150分間だけ。

大学入学後、中高を通じて何に力を入れていたのかと聞かれたとき、勉強と答えてしまいました。これは大学生活で様々な活動を存分に楽しませてもらっている証ですが、青春の日々を上書きしてしまったようで少し寂しくもあります。
しかし、実は高3の夏まで東京大学に強いこだわりを持ったことはありませんでした。結果的に自分が進む道が自分にとって最善だという考えを常に軸にして行動していたので、もし成績が急落してもその時はその時だとある意味で気楽に構えていました。もちろん勉強は続けていたけれど。

そんな私が「東大受験生」としての自分を意識していたのは、「東大模試」の試験時間中です。東大模試に本気で向き合って自分のすべてを傾けることができるのは、「東大受験生」の特権だと考えていました。そして、模試は上手くいってもいかなくても、「自分」からいったん離れて「一人の東大受験生」になれる時間で、特別なものでした。

マークシートを塗りつぶして当てたいと願う、これって某現代文の先生もお好きなあのスポーツと一緒ですね

答えを予想して賭けているだけですから。

というのは冗談ですが、実際、共通テスト受験時はまるでひたすら高い点数を目指すゲームかのように思って挑みました。全教科を通して一問も間違えたくないという熱が生まれていたので、答え合わせの類は一切せずに常に次の教科だけのことを考えて二日間を過ごしました。他の受験物語にもありましたが、私も休み時間に音楽を聴くのはおすすめです。音楽が確実に認知機能の一部を占有して、余計な憂いを追い出してくれる気がしますし。

そして、「東大受験生」の無限の努力は「東大合格」という目標に収束するはずです

「努力を無限に飛ばすと目標に収束する」という名言を引用させていただきました。

東大二次試験、これまでの自分を信じていて迷いはありませんでした。といえば聞こえはいいですが、サボった日は次の日のやる気に繋がった、忘れた構造式の分の記憶容量は他のいくつもの構造式の分にリサイクルされた、のようなメンタリティでいたということです。もしこの文を読んでくださる方がいたなら、こんな考え方も提案させてください。

もっとも、合格発表のときはもう「東大受験生」としての自分は跡形もなくなっていました。受験番号は思い出せないし、受験票を探し出すのも億劫で………


以上、とある東大生の東大受験物語でした。

やはり「東京大学の学生の一人」としてだと、いつもより語りすぎてしまいますね。しかし、東大の場合それだけではない、と考える人が多いからこそ冒頭の笑い話は成立します。

果たして「東大」という固有名詞にそれほどまでの意味があるのか。

もしここまで読んでくださったあなたが東大を目指しておられるなら、ぜひ「東大生」になって、自ら確かめてみてください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?