クレヨン

西園寺命記 番外編~ 二人の「しょうた」 【前】

 玲香が学部時代、東京でバイトをしていたサイオン・イマジカで親しくしていた3人が、清流旅館を訪れて来たのは、清流の庭が紅葉に染まる秋の頃だった。

 玲香が来年春には修士課程を終え、それに伴い京都にあるシンクタンクの多治見総研名古屋支社への内定が決まったこともあり、イマジカのアートディレクター、高橋進と、総務部勤務の遠山加奈子、制作部でアルバイト中の塩谷春樹の3人が、玲香を祝おうということで、清流旅館に訪れていたのだった。

「美ね。まさしく、美だわ…」

 うっとりと庭を眺める高橋の様子を見ながら、3人は小さく溜め息をついた。

「進子ちゃん、入っちゃってるよ、自分の世界に」塩谷が眉間にシワを寄せる。

「まあ、きれいなものを見ると、いつもああだし」加奈子が淡々と答える。

「でも、ちょっとうれしいわ。進子ちゃんに認められた庭って、自慢できると思わない?」玲香が微笑む。

「まあなあ…。おかまなのは別にしても、クリエイターとしては、才能ありありだもんな」

「審美眼という意味でもね」加奈子が言う。

「玲ちゃん。ここのお庭を手入れしている方に会って、お話お聞きしたいわ」高橋がおもむろに振り返り、玲香に言う。

「えーと、庭を手入れしてるのは父さんなの。旅館の亭主と庭師を兼任」

「えーっ。おじ様がやってるの!? すごいわねえ…」驚く加奈子。

「何がどうすごいのか、よくわかんないけど、すごいんだ、ふーん」

「塩ちゃんみたいな芸術オンチは黙っててちょうだい! じゃあ、帰るまでに機会があったら、お父様にお話聞かせてもらえるよう、お時間作ってね。お願い!」

「そーんなこと言いながら、飛呂之さん狙ってるだけなんじゃないのー? 独身二枚目だし」にやりと笑う塩谷。

「ちょっと、塩ちゃん。確かに、ご亭主はステキよ。でもねっ、あたしの心も体も賢児さまのものなの。間違えないでちょうだいっ!」高い声で言う高橋。

「賢児さまが認めたわけじゃないでしょ、それ」うっとおしそうに言う塩谷。

「ええとね、最近の賢児さまよ、これ」

 塩谷の指摘など気にも留めない高橋が、自分のバッグから定期入れを取り出すと、そこには賢児と称される人間の後姿の写真があった。

「…あのさ、後姿の写真て何なの。顔、わかんないじゃん」塩谷が呆れたように言う。

「もうっ。おバカなんだから、塩ちゃんはっ」

 高橋が塩谷をキッと睨む。

「いーい? あたしが不慮の事故に遭ったとき、あたしの定期入れに賢児さまの写真が入っていたら、賢児さまに…迷惑がかかるかもしれないじゃない。…しょうがないのよ、あたしみたいな人種には…」

「進子ちゃん…」玲香が高橋の手をぎゅっと握りしめる。「私、進子ちゃんの味方だから。賢児さまって、私は会ったことないけど、でも、進子ちゃんがそんなに好きなら、応援するからね」

「玲ちゃーん」玲香を手を逆に握りしめる高橋。

「まったくねえ…。顔が写っている人たち、立場ないわよねえ。ところで誰なの、この人たち」

「さあ。賢児さまのお父様のパーティーでこっそり撮った写真だから、詳しくはわからないわ。確かこっちは四辻先生の秘書だったような…」

「進子ちゃん、それ、やばいんでないの? 社長のお父さんて、暗殺の噂がある四辻奏人の後釜だよね。やたらなことすると公安から目を付けられるぞ」塩谷が心配そうに言う。

「あら。あたしは賢児さまのこと、ずーっと、ちゃんと見てたのよ。賢児さまの安全を確保してたのに、何でそんなこと言われなくちゃいけないの」塩谷を睨む高橋。

「結果的にそうだとしてもさ、週刊誌の記事とか読むと、けっこう世間がぴりぴりしてるんだから、進子ちゃんも、やたらなことするなよ。何かあったら、どうするんだよ」

「あら。塩ちゃんてば、やっぱり、あたしのこと好きなのね。今の目、愛する人を心配する目だわ。ふふ」

「ないない。それはないから安心して。…でもさあ、この写真、後姿だけでも格好いいのがシャクだよなあ。見事に8頭身超えてるし、足ながーいよ。肩幅あるからスーツ似合うこと。普通にモデルでOKじゃん」塩谷が面白くなさそうに言う。

「そうねえ。確かに格好いいとは思うけど、ちょっと無愛想だったりもするわよね。社長に就任されてから、笑った顔見たことないもの。専務時代に、たまーに帰国されてたときは、もっと明るい感じじゃなかった?」

「仕方ないわよ、それは。いきなり躍太郎さまが退かれて、その後を担わなくちゃいけなくなったのよ。役員で辞めちゃった人間もいたし、負担がどれだけのものなのか、あたしたちの想像に及ばないと思うわ」むきになる高橋。

「まあ、それはそうだよな。大変なんだろうなあ、専務に昇格した大垣さんと二人でさ」塩谷が同意する。

「役員は補充されてないんでしょう。大変でしょうね…」玲香も頷いた。

「大丈夫よ。あたしがちゃーんと、賢児さまのために、イマジカに事なきようフォローするから」

「…悔しいけど、それは8割ぐらいそうだよな。進子ちゃんの作るソフトの売れ行きの行方が、今後のイマジカの行方だったりするわけだもんなあ。ああ、悔しい」

「何よ、ツンデレな言い方しちゃって」加奈子が笑う。「いつも進子ちゃんのこと、あの感性はすごい、独立すればもっと名前が売れるだろうにもったいないって言ってるくせに」

「なーんだ、塩ちゃん。やっぱり、あたしのこと認めてるんじゃない」鼻で笑う高橋。

「そりゃあ、そうよ。進子ちゃんの才能は社内外の皆が認めてると思うわ。私がいた頃からそうだったもの」玲香が大きく頷く。

「ん、もう。何よお。皆でそんなこと言ってえ。…うれしいから、お酒おごっちゃうわ。玲ちゃん、光彦さまにお酒とおつまみ、持ってきていただて」しなっとした手つきで言う高橋。

「はーい。承知いたしました。…でも、お義兄さんに妙なことしないでね。鈴ちゃんを敵に回すのだけは、おすすめしないわ」

 玲香は、真面目な顔でそう答えると、床の間の電話から板場に連絡をした。

  *  *  *

「お酒、お持ちしました」

 翔太が板前ルックで静々と入ってくる。その後ろには父親の光彦が、つまみの皿を配膳すべく控えている。

「いやぁん、翔ちゃん、すてきぃ…」

 高橋が翔太ににじり寄り、その手から日本酒の瓶を受け取った。

「翔ちゃん、かわいい! すごく似合ってるわ、それ」加奈子が叫ぶ。

「そおかあ。加奈ちゃんに会うから、気張ったんやでぇ」でれでれとした顔で言う翔太。

「お義兄さん、ありがとうございます」

 塩谷は光彦に頭を下げると、つまみの皿を配膳するのを手伝った。

「恐れ入ります」丁寧に頭を下げる光彦。

「さっきのお料理もそうですけど、きれいですねえ…」並べられていく皿を、うっとりと見つめる加奈子。

「義兄さん、ありがとう。あとは私がやるから」玲香が翔太から皿を受け取りながら言う。

「ええん…光彦さんに、お料理のこと、おうかがいしたいわあ」光彦に熱い視線を送る高橋。

「進子ちゃん、本当に料理の説明聞きたいの?」疑い顔になる玲香。

「玲ちゃん。料理のことをお客様に説明するのは、板長の仕事だよ。…高橋さん、何かおありでしたら、どうぞ」光彦が言う。

「わたし、けっこう、いろんな旅館に行ってるんですけど、この盛り付けの色彩、ちょっと独特な感じがします。個性的で美しいというか。これは、どういったコンセプトでいらっしゃるんですか?」

「そうですね…。あまり大声では言えないんですが、最近は翔太の意見を取り入れていることが多かったりします」

「翔太の?」驚く玲香。

「うん、いや、あのね…新作の試食会の時に翔太がいろいろと意見を言って、それがけっこう仲居さんたちに受けがよくてね。義父さんも気に入ったもんだから…今日の皿や盛り付けもそうなんだ。全体をこの辺の景色に見立てて、それに合わせて料理を配置したんだよ」

「なるほどねえ…。翔ちゃんの色彩感覚や配置のセンス、光るものがあると思ったんですの。以前、玲ちゃんから彼の描いた絵を見せていただいて、ピンときたんです。翔太くんには絵の才能がありますわ」きっぱりと断言する高橋。

「ありがとうございます。でも、36色クレヨンなんて、子どもにはもったいないものを頂戴しまして、恐れ入ります」光彦が深々と頭を下げる。「翔太のやつ、もうクレヨンに夢中で、今日一日いろんなものを描いて回って、うれしそうに過ごしていました。本当にありがとうございました」

 光彦が、今日高橋からもらったクレヨンのお礼を改めて言う。

「いいえ、そんな。来年は小学校でしょう。ちょっと早めのお祝いですわ」光彦をじっと見つめながら微笑む高橋。

「あんなあ、進子ちゃんこと、かいたんやで」翔太がスケッチブックを高橋に差し出す。

「あら、うれしい。どれどれ…」スケッチブックをめくる高橋。「翔ちゃん、すごいわ。お上手ねえ」

「そっくりだわ、進子ちゃんに…」驚く加奈子。

「本当だ。よく描けてるなあ」

 塩谷が翔太の頭をくしゃくしゃとなでると、翔太は嬉しそうに笑った。

「ねえ、翔ちゃん。この胸の真ん中に描いてあるお花みたいなのは何?」加奈子が尋ねる。

「ぴかぴか」にぃーっと笑う翔太。

「ぴかぴか?」

「うん。ぴかぴか」

「何だか、よくわからないけど、“ぴかぴか”なのね。紫と銀色でシックだわ。私にぴったりね」

「シックねえ。まあ、クリエイター系のおかまにしたら地味なほうだとは思うけどさ」

「でも、進子ちゃんに似合ってるわよね、この色」玲香が言う。

「みんなの分もあるのねえ。お家の人たちの絵、よく描けてるわ。お庭のお花や、お人形さんの絵も、いいわねえ」

 高橋がスケッチブックをめくる度に、皆で「ほお」「へえ」と感嘆の声を上げ、その様子を翔太が顔をくしゃくしゃにして見上げている。傍らでその様子を見つめる光彦も嬉しそうだ。

 翔太がその場で加奈子の絵を描き始めると、皆は大はしゃぎで、おいしい料理もあいまって、玲香たち一同の夜は楽しく更けて行った。

  *  *  *

「ねえ、玲ちゃんは多治見に行ったら何がしたいの?」高橋が玲香に尋ねる。

「え?」

「行くからには、目的というか、ビジョンみたいなものがあるわけでしょう?」

「う、うん…」

「何よ、晴れない顔しちゃって。天下の多治見総研よ。もっと嬉しそうな顔しなさいよ」

「そうよね…そうなんだけど…何でだろう、ぼんやりとした感じなの。研究内容とか、もちろん就職の前提になってるものはあるのよ」

「ぼんやりっていうのは?」

「イマジカでバイトをし始めた時のような、クリアな感じがないの。ここでこんな仕事をしているっていうビジョンが浮かばなくて。何か、あそこじゃないような気がして仕方がないの、この頃」うつむく玲香。

「ふうん、そうなの。今までの研究内容を生かせる職場なのにねえ」

「そう。そうなのよ。変でしょ、私。どうかしちゃったのかしら?…」唇をかむ玲香。

「マリッジブルーみたいなもんで、就職前の軽―い、うつ状態なのかもよ。続くようなら、何とかしたほうがいいかもね」

「うん。…そうだよね。こんな状態、多治見にも失礼だよね…」

「玲ちゃーん。大きい花火が上がるよー! ほら、丘の上!」加奈子が庭で叫ぶ。

「今、行くからー」

 玲香は答えると、庭に走り出した。

  *  *  *

「これでよかったのかしら…前田部長にもご迷惑おかけしてしまったし…先山課長さんにも…」

 玲香は、多治見総研の前の広場の噴水のへりに腰掛けると、深く溜め息をついた。

 日本有数のシンクタンク、多治見総研から内定をもらい、ゼミの人間たちからも羨ましがられていた玲香だったが、この数ヶ月間、何かが違うような気がして、いつも心のどこかに引っ掛かりを覚えていた。

 昨日から代休を利用して静岡まで遊びに来ていた加奈子に、玲香は今日、初めて自分の気持ちをすべて打ち明けた。そして、内定を辞退しようか迷っていることまで、正直に自分の気持ちを告げた。

 もちろん加奈子は、この次期に何を言ってるんだと、玲香の言葉を否定したが、ちょうどその話を二人が美術館の庭でしていたとき、見知らぬ婦人が、「お断りになったほうが、よろしいわ」と玲香に告げ、通り過ぎて行ったのだ。

 いぶかしがる二人ではあったが、玲香はまるで、その言葉に背中を押されるかのように、内定辞退を決意し、加奈子を置き去りにして家に戻り、スーツ姿に着替えて多治見総研の人事部長のもとを訪れた。

 平謝りの玲香に、先方もわけがわからぬと言った様子だったが、玲香は咄嗟に、東京で結婚することになったと嘘をついたのだ。

 多治見総研には東京支社もあったので、そちらで勤務してはどうかとも言われたが、結婚相手の仕事を手伝わねばならなくなったと答えたため、結局先方も内定辞退を認めるところとなった。

“はあ。嘘ついちゃった。ちゃんとした理由もなしに、こんなのって最低だよね、先方に迷惑かけて…。それに、父さんや鈴ちゃんに何て言おう…”

 自分が決めて行動したこととはいえ、帰宅後、激怒するであろう父と姉に、どう説明したらいいのか、玲香は考えあぐねていた。

「ほら! 行っておき! 後悔残らんように、最後のあがきやで!」

 溜め息交じりの玲香の前を、カップルが通り過ぎた。男性は就職スーツに身を包んでいて、女性のほうは身重でお腹を抱えながら歩いている。

「はあ。あかんわ。ちょっと一休みするわ」

 女性は玲香から2メートルほど離れた場所に腰掛けた。体は苦しそうだが、口のほうは開きっぱなしで、男性に向かってマシンガンのように話し続けている。

「ええか? そんなイヤイヤおとんの店来てもろてもな、うちかて、うれしゅうないわ。僕にはやりたいことがありますて、何でおとんにハッキリ言わんかったん。うちのスーパーやりたいわけやないんやろ?」

「でも、子どもも生まれて来るし、今の時期に内定ないんだから…」男性がポツリとつぶやく。

「“でも”やないやろ! あんたの人生なんやで。この子を言い訳に使うな、どアホ!」

 怒る女性に対して、黙り込む男性。

「ちゃんと、やりたいことに挑戦してや。この多治見さんとこで働くんが夢やったんやろ? 他の会社の内定断ったのも、ここに来たかったからなんやろ。なのに、何で履歴書も出さんかったん」

「それは…」

「落ちるのが、怖かったんやろ。あんたは、いつもそうや。いざとなれば、逃げれば何とかなる思うてる」

「そんなことないよ。だって、現実問題として、俺が働かなかったら、この子だって困るじゃないか」

 男性が言い返すと、女性は男性の胸倉を掴んだ。

「まだ言うか、ボケ! だったら何で最初に内定もろたところに行かんのや。やりたいこと、挑戦する前から諦めて、しまいにこの子のせいにされたらたまらんわ」

「でも、もう多治見は就職試験終わってるから…」

「あかん、あかん。それやから、あかんのや。待っとらんと、自分から動けや。欠員なんていつ出るか、わからへんのやで。

 入って一年目の兄さんが、転職してしもたかもしれんし、内定出た学生さんがポックリ行ってもうたかもしれんやろ。とにかく、その履歴書と企画書、渡してきい!」

「そうです。彼女の言うとおりですよ」

 玲香が立ち上がり二人の前に立った。

「…ねえさん、どなたはん?」女性がいぶかしがる。

「あ、あの、突然すみません。多治見総研に就職をご希望なんですよね?」

「…そうですけど、なにか?」

「私、来年度の内定いただいてたんですが、一身上の都合で、たった今、ご辞退してきたところなんです。今なら、多治見の新卒枠、空きがあります」

「え?…」びっくりして玲香を凝視する二人。

「ほんまに?」女性が立ち上がる。

「ええ。つい10分くらい前の話です」

 玲香がそう言うと、今度は男性が立ち上がった。

「貴重な情報、ありがとうございます」

 男性は玲香に深く頭を下げると、多治見総研のビルに向かってスタスタと歩き出した。

「ちょ、ちょっと、健ちゃん、どこ行くん」

「人事に履歴書受け取ってもらってくる。おまえはここで待ってて」

「待ってや、健ちゃん。うちも行く」

 女性は、お腹を抱えながら、彼の後を慌てて後を追いかけたが、しばらくすると、玲香のほうを振り返り、にっこり笑って会釈をした。

「ねえさん、おおきに! ほんまに、ありがとな。…お名前、教えてや?」

 手を振る女性に向かって、玲香は「それは秘密です」と言って人差し指を唇に当てると、小さく手を振って、その場を小走りに走り去った。

  *  *  *

 玲香が内定を辞退した翌日、東京に戻って出社した加奈子は、社内のカフェで、高橋進と塩谷に経緯を説明していた。

「玲ちゃん、やっぱり断っちゃったのねえ…」

 進子がアイスコーヒーをストローでくるくるかき混ぜながら、溜め息をついた。

「やっぱりって、進子ちゃん、高橋から何か聞いてたの?」塩谷が聞く。

「ほら、秋に清流に行った時よ。多治見の話してたら、なーんか暗くて。マリッジブルーみたいなものかしらって思ってたんだけど、もっと重症だったようねえ」

「そうみたい。あんなに張り切って試験受けた会社なのに、どうしちゃったのかしら、玲ちゃん。それにね、あのおじ様が怒鳴りっぱなしだったんですって。

 逆に、怒ると思ったお姉さんは好きにしなさいとしか言わないんだけど、とにかくその後、家の中が暗いんだって、翔ちゃんが泣きそうな声で電話してきたのよ。玲ちゃん、すごく落ち込んでるようだから、加奈ちゃんは怒らんといてねって」

「翔ちゃん、やさしいわあ。いい子ねえ。幼稚園児にそんな心配させちゃうなんて、もう…」

「でもさ、あの温厚なおじさんが怒鳴るって、よっぽどだぜ。大丈夫なのかな。家にいられるの?」

「どうなんだろう。電話したんだけど、つながらなくて、詳しくはまだ聞けてないのよ。でもね、もし清流を追い出されちゃうようなことになったら、私のマンションに呼ぶつもり。こっちのほうが仕事探しやすいだろうし」

「そうよね。こういう時こそ、友達のあたしたちが彼女の力にならないとね」

 進子がテーブルをドンと叩くと、通りかかった大垣が声をかけた。

「どうしたの、高橋さん」

「あら、大垣専務。聞いてくださる? 玲ちゃんが大変なんです」

「玲ちゃんて、高橋玲香さん?」

「ええ、そう。…あ、いいこと思いついたわ。ねえ、玲ちゃん、うちの会社に来ればいいと思わない?」加奈子と塩谷に同意を求める高橋。

「彼女、多治見総研に内定してたよね」椅子に座る大垣。

「それが、断っちゃったんです、彼女」加奈子が言う。

「どこか別の会社に行くことにしたの?」

「いいえ。全然そういうことじゃなくて、理由が漠然としていて、私にもよくわからないんです…」困った顔の加奈子。

「へえ…。あの慎重で論理的な彼女がねえ」大垣も不思議そうだ。「でも、うちの会社にはラッキーなことかもしれないな…」

「どういうことですか?」尋ねる塩谷。

「今さっき、凍結していたプロジェクトの再開に伴って、人員を補充するように社長から指示があったんだよ。もし彼女が他に行き先を決めてないなら、声をかけてみるよ。ありがとう」

 大垣はそれだけ言うと、3人のテーブルにあった伝票を持ち、足早に立ち去った。

「あら、専務さん。ごちそうさまですぅ」高橋が自分の胸の前で小刻みに手を振る。

「ごちそうさまです」声を揃える加奈子と塩谷。

「もしかしたら、玲ちゃん帰って来るかもねえ」うきうき声の高橋。

「うーん。玲ちゃんがどう考えているのか、よくわからないし、社長の求める人材がどういうものなのかにもよるけど」

「凍結していたプロジェクトで、今の社長が推していたものっていうと、“D”じゃないかしら。玲ちゃん以前、そのコンセプト作りの企画室に入る予定だったんじゃなくて?」

「ああ。そうか。もし進子ちゃんの推測どおりなら、けっこういいカップリングになるよな。だって彼女、プロジェクトが凍結されてから、それならもうちょっと研究を大学のほうで続けるって言って、静岡戻ったんだよな」塩谷が身を乗り出す。

「そうよぉ。賢児さまだって帰国予定だったのが延期になっちゃって、あの時は躍太郎さまなんてキライって本気で思ったもの」

「そうか…もしかしたら、進子ちゃんの勘、大当たりかしら」真剣なまなざしで高橋を見る加奈子。

「オンナの勘は見くびれなくてよ」

「うん。ここは、おかまの勘にかけるしかないな」

 腕組みをする塩谷をぎろりと睨む高橋。

「あんたと玲ちゃん、バーターでもいいのよ」

「そ、それは困ります、高橋部長。せっかく、卒業したら正社員なのに…」泣きそうな顔になる塩谷。

「やあね、冗談よ。よーし、塩ちゃんと玲ちゃんが無事新入社員になれるように、今夜はお清めのお酒でご祈祷するわよ!」

「進子ちゃん、それ、ただの飲み会…」

 加奈子が言うと、塩谷が高橋の肩を持つ。

「いや。日本人たるもの、お清めのお神酒で八百万の神々に、高橋のイマジカ就職を祈るのが筋ってもんだ」

「ビール派じゃなかったっけ?」

「神様が、そんなちっちゃいことにこだわると思うか?」

「はいはい、わかりました。お店、予約しておくわ」

 加奈子は呆れたように言うと、さっきより朗らかな表情で紅茶をすすった。

  *  *  *

 久しぶりに大垣の声を聞いた玲香は、その内容に驚きを隠せなかった。

「それって、私にイマジカの採用試験をということですか?」

「ああ、そうだよ。君のお友達たちが心配しているところに、タイミングよく出くわしてね。

 それがちょうど、“D”プロジェクトの再開に当たって、社長が見合った社員を早急に補充するようにと指示した直後だったんだ。これは、君しかいないと思ってさ。どうだろう?」

 大垣から話を聞いた玲香は、自分の中でのもやもやが一気に消え去り、体の内側から何かが湧き上がってくるのを感じた。

「ぜひ、お願いします!」

「…はあ、よかった。じゃあ、明後日の午後3時にイマジカに来てもらえないかな。社長に会ってもらうよ」

「いきなり社長ですか?」

「とりあえず、専務面接は通過したってことだよ」大垣が笑う。

「ありがとうございます!」電話の向こうで頭を深々と下げる玲香。

「じゃあ、待ってるよ」

 電話を切った玲香は、すぐさまパソコンを立ち上げ、Dプロジェクト企画室に入ることが決まったときに作っていた企画書を再点検した。

 このプロジェクトは、玲香の研究内容にもかかわりの深いもので、会社もそれを踏まえたうえで、まだ学生バイトだったにもかかわらず、玲香を企画室に異動させることが内定していたのだ。

 だがプロジェクトは、当時アメリカにいた今の社長が推進したがっていたにも拘わらず、前社長の突然の命令で凍結された。

 玲香はその後、大学院に進み、静岡に帰り、興味のあったその内容を自分の手で実現できそうな場所として、多治見総研を選んだのだ。

 もちろん、ぴったりと自分の企画内容とマッチングをみるのは難しい。そういった点でも、玲香は内定が決まってから、何か不安めいたものを感じていたのかもしれない。

 日を追うごとにいろんなプランが浮かんでくる玲香にとっては、内定状態にも拘わらず、入社後の詳しい仕事内容まで指示されていたことで、多治見との方向性の違いが明確になってきて、逆に不安要素になったのかもしれない。

“霧が晴れていくみたいだ…”

 玲香は一度目を閉じ、ゆっくりとまた開けた。

「よし! あさってまでに、もっと企画書充実させるぞ!」

 玲香は自分を鼓舞するように大声で叫ぶと、企画書のチェックを始めた。

  *  *  *

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