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いちめんのなのはな

風 景


いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな   
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
かすかなるむぎぶえ

 

いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな
ひばりのおしゃべり 
 

いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな  
いちめんのなのはな 
やめるはひるのつき  
いちめんのなのはな。


白い雲の浮かぶ空色、
さくらのピンクとなのはなの黄色、
こどもの頃から好きな色です。

そして
山室暮鳥の「いちめんのなのはな」
私の大好きな詩です。

高校時代にお世話になった
大好きだった国語の先生が
お好きな詩でした。

朗読されるあの優しい声が
蘇ります。

春になって一面の菜の花が
咲いています。
幸せいっぱいなイメージです。

「いちめんのなのはな」が一節の8回
三節で24回できます。

節の終わりの
「かすかなるむぎぶえ」
「ひばりのおしゃべり」
という言葉が
なんとものどかに感じます。

でも最後の「やめるはひるのつき は
なんとなく寂しい感じがします。

さて、山村暮鳥さんは
どのような方だったのでしょうか?



山室暮鳥

Wikipediaより

作者の山室暮鳥 本名 土田八九十は
1884年群馬県西群馬郡総社村の農家に生まれました。

父・久七が祖父・庄平との確執に耐えきれず
千葉県佐原町に出奔、
母もその後を追って志村家を出たので、
八九十は叔父・木暮作衛に預けられます。

後に父母が元総社村に戻り住むに及び、
引き取られ、
5月1日、父・久七の養子として入籍。
貧困の中で少年期を過ごしました。

家庭的に恵まれず、
苦学して小学校の代用教員になりました。

同時に前橋聖マッテア教会の英語夜学校に通い始めます。

暮鳥はこの教会でイエス・キリストに出会い、
人間的自我に目ざめます。

 

1902年受洗し、
聖マッテア教会の婦人宣教師ウオールの通訳兼秘書として
青森に転任しました。



そして翌年1903年、
立教大学の前身東京築地にある
東京三位神学校に入学します。

在学中に文学に傾倒し、
卒業後、伝道師となり、
日本聖公会の伝道師として
秋田、仙台、水戸、平で宣教活動をしました。

1909年に人見東明から
「静かな山村の夕暮れの空に飛んでいく鳥」
という意味を込めて

山村暮鳥」の筆名がつけられました。

1913年7月、萩原朔太郎、室生犀星と、詩、宗教、音楽の研究を目的とする
「にんぎょ詩社」を設立し、
1914年3月、同社の機関誌「卓上噴水」創刊。

1913年12月、教会の信者や知人達を中心に
「新詩研究会」を結成しました。

機関誌「風景」には
萩原朔太郎、室生犀星の他、
三木露風らが参加しました。

この「風景」の中に
「いちめんのなのはな」が収められています。

もう一度味わってみると
暮鳥のひそかなる反抗心、
あるいは忍び寄る寂しさの表現なのかもと思います。

当時は日露戦争に勝利した直後で
社会も、教会の内部でも、
信徒たちは菜の花のように明るく迷うことなく、
あるいは脳天気に雲雀のように
おしゃべりをしていたのではと思います。
そう、まさに一面の菜の花です。

しかし、その中で、自分は悶々として生きている。。。
キリスト教に入信し、伝道者として生きていはずなのに
時に疑問や迷いもあったのではないかと思うのです。


 

詩集「雲」


1919年結核のため、伝道師を休職しますが、
その頃に詩集『雲』が刊行されています。


おうい雲よ  
ゆうゆうと  
馬鹿にのんきそうじゃないか

どこまでゆくんだ  
ずっと磐城平(いわきたいら)の方まで
ゆくんか



私が高校生のあのころ諳んじた
「雲」は病の中で苦しみながら、
空を眺め、流れる雲を見ながら、
思い出ある遙か遠い磐城平にいる弟子を
想った詩だったのです。

おもな詩集にシュールな詩風で知られる『聖三稜玻璃(せいさんりょうはり)』(1915)、「人間」キリストを主題とした『風は草木にささやいた』(1918)、『梢(こずえ)の巣にて』(1921)のほか、『雲』(1925)、遺稿詩集『月夜の牡丹(ぼたん)』(1926)などがある。

 

1924年12月8日、
茨城県大洗町で40歳の若さで亡くなりました。

彼は生き物、自然の詩をたくさん書いています。

自然のあらゆるものに神を見出す
彼独特の神学だったのでしょうが、

当時は宗教界から異端視され、
ボロボロになっていったとも言われています

 

そらのとりをみるがよい


萩原朔太郎は
「彼自身の見たる如き、
ちがつた意味での基督教を信じて
ゐたにちがひない」と、
追悼文『山村暮鳥のこと』で述べています。

教会はともすると組織を維持するために労力を使い、純粋に信じる心を持つ人を追いつめてしまうこともあります。

暮鳥は「空の鳥をみるがよい」とやさしい目で語るイエスを信じ、イエスのように生き、そしてイエスのように死んだのだと

思います。

とても身近に感じます。




水戸に暮鳥のお墓があります。
行ってみようと思います。

#山村暮鳥
#いちめんのなのはな

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