一遍上人と聖フランチェスコ【一遍上人⑦】
いろいろ調べているうちに
一遍上人ってアッシジの聖フランチェスコに
似てるなあと思いました。
そこで、調べてみますと、本がありました!
《『捨てる』という霊性ー
聖フランチェスコと一遍上人》
家田足穂先生が書かれた本です。
さっそく、Amazonで手に入れました。
家田足穂先生は一遍上人の他にも
良寛禅師と、明恵上人との類似性についても
論じていらっしゃいますが、
ここでは一遍上人との似ている点を
あげていきたいと思います。
一遍上人と聖フランチェスコについて書く前に
昨日、映画『ブラザーサン シスタームーン』について
書きました。
太陽月を兄弟姉妹と呼ぶアッシジの聖フランチェスコは
どこか東洋的だなあと思いましたが、
一遍上人との類似点があることで、
興味が深くなっていきました。
聖フランチェスコは謙虚に
民が使う言葉で説教をしました。
身振り、手振りを交え、踊りや歌、
音楽を用いて福音を伝えました。
都市、農村を問わず社会的に
虐げられた人たちの中に出かけて、
「主の平和があなたと共にありますように!」
と呼びかけました。
既存の教会制度の中では、
これまでになかった福音宣教の新しいあり方でした。
彼の愛と慈しみは世間の常識を超えた
「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、
あなたがたも人にしなさい。
これこそ律法預言者である」(マタイによる福音書7章12節)
-新共同訳聖書-
というキリストの愛の教えの忠実な実行でした。
聖フランチェスコと一遍上人の
この世における願いは、
すべての被造物全体、森羅万象が神や仏を称え、
差別なく救われる幸福を伝えることです。
一遍上人は「南無阿弥陀仏」の念仏勧進によって救われた
歓びを確実にしようとしたのです。
聖フランチェスコも一遍上人も、
一切を「捨てること」で、
新しい世界を見出していきました。
余分なものを捨て去って、大いなるものを信頼し、
信じ任せる境地こそ、究極の幸福・喜び、
「永遠の命」と「無量寿」の道なのです。
ここで家田足穂先生の文章を引用します。
「真の平和を実現するために」
「真の平和を実現するために」
フランチェスコとその兄弟たちが、出会うすべての人々に「神の平和があなたたちの上にありますように」と伝えた挨拶の「平和」は、現代の世界で最も広く強く求められている。平和を実現するためには、人間の諸権利が認められる正義が必須の条件であるが、正義だけでは現実の諸問題は解決されない。いつの時代でもそうであるが、必ず存在する「政治的・社会的弱者」に対する配慮がないところに「平和」は実現されない。
正義と平和が深くかかわるように、「平和」と「命」は深い結びつきを持っている。
生命の本来の在り方は幸福に生きることである。
欠けたところのない状態の「平和」は、人間に与えられている諸権利が保障され、支配による不自由や抑圧、貧困や欠乏からの解放によって幸福に生きることである。そのためには、必要とされるものが最低限において満たされなければならない。
完全に満たされている状態が「平和」である。フランチェスコや一遍たちは、まずこのようなことに心を注いでいた。
さらに「平和の挨拶」の深い意味は、この欠けたところのない状態をいう「完全に満たされた命」ー「神の平和」を人々に知らせることであった。すなわち、神の国おける「永遠の命」を完全な善である父なる神のうちに見いだすことであった。
「神と一つになる」神の愛の充満における至福こそ、「平和の挨拶」の究極の目標であった。「神の平和」とはこのような世界をいうのである。
また、一遍たちが諸国遊行の旅で勧めた念仏「南無阿弥陀仏」は、欠けたところなき「完全円満」の阿弥陀仏と融合一体、つまり、極楽浄土での往生・成仏を確信させるものであった。念仏によって救われた「無量寿」の魂は、大いなる生命のうちにある「絶対のやすらぎ」(涅槃・寂静)の世界にあるのであった。
フランチェスコにおいても一遍においても、一切のものを捨てた「回心」の中で究極に求めたものは、すべてのものに勝る価値のあるもの、神の国における「永遠の命」であり、極楽浄土における成仏、「無量寿」であった。
フランチェスコの「平和の挨拶」を受けた人々は、彼が語り勧める福音の言葉を信じ、喜びにあふれながら「永遠の命」にあこがれを抱いた。また、一遍ら時衆の踊り念仏の中で救われた者の歓喜を体現し、念仏を唱えた人々は、阿弥陀仏と一つになる成仏を信じ、安心のうちに生きる歓びを実感した。生きることのさまざまな選択肢に恵まれず、欲求や欲望の選択肢の乏しかった時代の人々は、幸いにも最高の価値を求め易かったかもしれない。
二人が生きた時代
一遍上人 1239年〜1289年
フランチェスコ 1182 年〜1226年
フランチェスコの方が50年ほど先に生まれています。
一遍上人は捨て聖、
聖フランチェスコは清貧の聖と呼ばれています。
二人とも托鉢をし、
ハンセン氏病患者や貧困者の救済をしました。
道場や、教会組織を持たず、山河草木、
小鳥や野生動物、太陽月、波にも
阿弥陀仏の声、神の声を聞きました。
一遍の行動は聖戒、円伊によって描かれた絵巻物、
フランチェスコはジオットーで描かれた壁画で行動を知ることができます。
この二人がイタリアと日本という遠く離れた場所で
ほとんど同じようなことを考え、実践したことは不思議で、
すごいことだと思います。
左が聖フランチェスコ、右は一遍上人。
襤褸もどことなく似てますね。
聖フランチェスコの賛歌
《兄弟太陽の賛歌 》(被造物の賛歌)
高くましまし、いつくしみ深い全能の主よ。
あなたの賛美と栄光と名誉、そしてすべての祝福があります。
あなたはそれにふさわしいからです。
あなたのみ名を呼ぶにふさわしいものは、
この世にひとりもおりません。
賛美を受けてください、私の主よ。
あなたがお造りになったすべてのものの
賛美を受けてください。
とくに私の兄弟、太陽の賛美を受けてください。
太陽は昼を来させ、その昼の間、
あなたは私たちのために光を注いでくださいます。
太陽は美しい、大きな輝き。
高くましますあなたのお姿は、
太陽の中にうかがうことができます。
賛美を受けてください、私の主よ。
私の姉妹、月と星の賛美を。
あなたは空の中に、月と星を
明るく美しくお造りになりました。
賛美を受けてください、私の主よ。
私の兄弟、風の賛美を。
大気と雲と晴れた空の賛美を。
これらの兄弟もとに、
あなたはすべての生者を養ってくださいます。
賛美を受けてください、私の主よ。
私の姉妹、水の賛美を。
水は役立ち、つつましく清らかです。
賛美を受けてください、私の主よ。
私の兄弟、火の賛美を。
火を使ってあなたは夜を照らしてくださいます。
火は美しく楽しく、勢いよく力強いものです。
賛美を受けてください、私の主よ。
私の姉妹、母親だ大地の賛美を。
大地は私たちを育て、支え、
たくさんのだものを実らせ、
きれいな花と草を萌え出させます。
賛美を受けてください、私の主よ。
あなたへの愛ゆえにゆるし、
病と苦しみに耐え忍ぶ者のために。
しずかに平和をまもる者はしあわせです。
いと高くまします主よ、そのひとたちは、
あなたから、栄冠を受けるからです。
賛美を受けてください、私の主よ。
私たちの姉妹、肉体の死 の賛美を。
生きるものはすべてこの姉妹の手から逃れられない。
大罪を背負って死ぬものは不幸ですが、
あなたの聖なる御旨を行ないながら死ぬものは幸いです。
第二の死 にそこなわれることはもうありません。
賛美しよう、歌をささげよう。
感謝の歌をささげ、深くへりくだって、
主に仕えよう。
[小川国夫訳 ] ゆるしと平和の節
「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」
もう一つ、つけ加えたいお話です。
フランツ・リスト の作品に
「巡礼の年第2年 イタリア 『二つの伝説』」
第1曲 「小鳥と語るアッシジの聖フランシス」があります。
ピアニストの久元祐子さんからお聞きしたのですが、
聖フランシスが語りかけていたのは、
愛らしい小鳥ではなく、
墓地で死体をついばむカラスやカササギ、
ハゲタカの類だったようです。
人間たちはちっとも耳を傾けてくれない中で
嫌われものの鳥に語りかけていたのです。
想像すると、ちょっと怖い絵が浮かびます。
しかし、それが、福音宣教の本質、
弱者の救済になるのだと思います。
話終わった聖フランチェスコが十字を切った後、
鳥たちが東西南北四方八方に飛び去る姿は
弟子たちの福音宣教に姿に重なります。
最後に、
僧籍に入ったリストの曲を聴いてください♫
南無阿弥陀仏!
主の平和があなたにありますように!
#一遍上人
#アッシジの聖フランチェスコ
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