見出し画像

vol.12 出来の悪い娘の在宅介護 【ALS(筋萎縮性側索硬化症)】

さよなら、お母さん

①幼少期の私

写真は幼少期の私です。昭和を感じさせる写真ですよね。超ミニなスカート??を着た(ちょうど皆さんに見えなくて安心)私が父から何やらもらっている写真です。

何をもらっているのか、後に母に尋ねたところ、何とスルメだそう。食いしん坊の私が父にせがみもらっている写真です。

すぐに車酔いする私が、小さい体でそんな消化しにくいものを食べて、この後どうなったかは皆さんのご想像通りです。

そして、この超ミニスカートの服は、母が編んでくれたものです。小さい頃のタンスの中は母が編んだ毛糸の服や、ミシンを走らせ作った服が並んでいました。感謝どころか、「あ〜お店にある服が着たいわ。特に色とりどりの毛糸のパンツ(下着のパンツの上に履いてた)ほんと履きたくないわー」と思っておりました。

この毛糸のパンツ、かなり暖かいのにね。
裁縫が大の苦手で娘に一枚も手作りしたことがない私が今振り返ると、なんて良いお母さんで、なんて親不孝な私なんだと思います。

何時間も費やし、3人の子どもの服を編んで、縫ってくれました。

お母さん、小さい頃いっぱい服を作ってくれてありがとう。一枚でも取っておいたらよかったよ。

②2018年3月

痰の量が少しずつ増えて吸引する頻度も増えてきました。肩や胸が呼吸のときに動き、頑張らないと酸素が取り込めないようになり、モルヒネの量も少しずつ増えました。

文字盤で会話するときも、なかなか目線を合わせにくくなってきていて、3月に入った頃は、「ちゃんと言って!目が動きにくくなったらお母さんがしてほしいことがわからなくなるんだから、今のうちに、ちゃんと教えてよ」と必死の形相で私の顔からも笑顔が減ってきていました。

母はもう何もないというように目を閉じてしまうことも増えていました。

③3月14日

仕事から帰ると弟が夕食の栄養の注入を開始してくれていました。「今日は痰が多かったんよ。さっきもけっこうたくさん吸引したわ」と教えてくれました。

しばらくすると、また母の口にたくさんの痰が上がってきて、急いで注入を止め、吸引しました。取っても取っても湧いてくるように痰が上がり、多量の痰です。

明日、朝一番にケアマネさんに連絡して、午前に看護師さんの訪問がない曜日の調整をしてもらおう。午前、午後と看護師さんに入ってもらい、痰吸引できるようにしよう。こんなに痰が多いと心配だわと弟と話し合う。

仕事以外では気づけないものです。
その時が確実に近づいているのに、気づかないように脳で操作され、心を防御しているのか、ALSとまだまだ戦闘態勢でいました。

仕事では多くの死と向き合い、その時が近づいていることを予測して、残された少ない時間の過ごし方を、ご家族と考えてきたのに、この時私は、明日する調整のことを必死で考えていました。

一方でいつもとは違うことに私は気づいていたようです。寝る前、いつもの母と私の眉と目を2、3回動かし微笑み行う「おやすみ」の合図は交わさず、「本当に呼吸器をしなくていいの?私、10年でも20年でもみるよ」と溢れそうな涙をこらえて聞きました。母は動かしにくい首を横に少し振り、電気を消すよう目で合図を送りました。

その夜、もうALSを相手に私が闘えることがないような気がして、毎日してきた母の体に手を入れて行う徐圧は一度もせず、母から呼ばれることもなく朝を迎えました。

④3月15日

この日は訪問診療の日で私は休みをとっていました。朝起きると文字盤で母は「きのうはあんたのでんきがまぶしくて、ねむれなかった」と訴え、「いやいや、寝てたわ!」と言いながら、いつもの母に安堵し、「今日、電話してもう少し看護師さんに入ってもらうからね、いい?」と聞くと、良いの合図。

頑張っても頑張っても消えてくれないALS。やってもやってもどうにもならず、もがくように搾り出した声で、「何とかならんかな」と母の目を見て言うと、母も眉をひそめ目にいっぱいの涙を溜めて、真っ直ぐ私を見ました。

母の涙を見たその時、刻々とその時が近づいていることをALSに叩きつけられながら、泣いている場合じゃないと思い直して、ケアマネさん、看護師さんに電話をかけ始めました。気づいたら、朝の支援のヘルパーさんも来てくれていました。

⑤お母さんが急変する

突然、母の口の中に痰が多量に上がり、血中酸素飽和度が下がり始めました。慌てて吸引し取り除いたものの、酸素飽和度はどんどん下降。訪問医師に電話して状態の報告。酸素の機械を手配して往診の順を変更し、こちらに向かってくれることになる。酸素飽和度は95%以上が通常だが、70%、50%と下降。仕事で何度も急変対応をしてきた私ですが、待っている間、どうすればいいかわからず、「先生!できることありますか?!」と問うと、その時、ハッキリした口調で「ない」と答えてくださる。

⑥見事な着地

訪問医師のこの言葉で、私のするべきことがハッキリしました。見送る時だ、お母さんの人生がちゃんと着地できるように。

仕事に行った弟を電話で呼び、弟の嫁に、電話に出ないたぶん寝ているであろう私の次女を叩き起こしに行ってもらい、母の妹にも電話してもらいました。ケアマネさん、朝、電話していた看護師さんも駆けつけてくれました。

意識がなくなり、声をかけても反応しなくなり、どんどん酸素飽和度が下がっていく中、弟が戻って来る。

「お母さん!茂が帰ってきたよ!わかるじゃろ!」と叫ぶと左の目から涙が落ちる。弟と私は確かめ合うように目を合わせ、「お母さん!ありがとな!もうええよ!もうがんばらんでええよ。よう頑張った」と声を掛ける。

そして・・・

母の妹も孫(私の次女)も駆けつけ、みんなに見守られ、みんなの声がする中で、静かに息を引き取る。

大好きなお母さんが本当に静かで見事な着地をしました。最後の最後までお母さんらしく、そして、お父さんとお母さんが建てた、みんなの家で。

2018年3月15日 午前10時7分、

発病から2年、

母、皆んなに見守られながら旅立つ。

お母さんに愛され認められたいと願って生きてきた、出来の悪い娘と母の、色濃く愛おしい2年にピリオドです。


vol.13  最終章 エピローグ

#ALS  #介護 #さよならお母さん
#見事な着地 #お母さんの旅立ち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?