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『豪傑人形』(1940年5月15日・東宝映画京都・岡田敬)

アノネのオッサン研究。
長年、観たかったシミキンこと清水金一主演『豪傑人形』(1940年5月15日・東宝映画京都・岡田敬)をスクリーン投影。

キネマ旬報昭和15年5月11日号・715号 広告(堀田秀雄さん提供)

清水金一こと清水雄三は1912年、山梨県生まれ。16歳になった昭和3(1928年)に上京。浅草オペラの清水金太郎に弟子入り。清水金一と名乗る。清水金太郎はエノケンととプペ・ダンサント Poupée dansante」を結成するも、1934(昭和9)年4月に死去してしまうが、シミキンはその前に、エノケンの師匠・柳田貞一門下となっていた。その後、森川信が大阪で立ち上げたレヴュー劇団「ピエル・ボーイズ」に参加。その頃、エノケン一座は、PCLと契約、映画に進出。続いて、古川緑波も1935(昭和10)年5月「笑の王国」を脱退。東宝の招きで「古川緑波一座」を立上げ、丸の内へ。

エノケン、ロッパが不在となった浅草に戻ってきたシミキンは、昭和10年5月、浅草金龍館の「笑の王国」に参加。頭角をあらわす。やがて浅草オペラ館で堺駿二とコンビを組んで、これが大当たり。一躍、浅草の人気者となる。そうしたなか、東宝はシミキンと契約。エノケン、ロッパ、エンタツ、アチャコ、川田義雄、柳家金語楼などの喜劇スター映画のラインナップに加えるべく、この「豪傑人形」を企画した。

このとき、もしも東宝が堺駿二とのコンビで、ユニット契約していたら、とつくづく思う。シミキンは堺駿二とのコンビを解消して東宝入りしたことは、かえすがえすも残念。

シミキン

さて、「豪傑人形」である。シミキンが演じているのは「日本一のお殿様」こと小笠原章二郎の家臣・清水瓢介。剣の腕の覚えはないが、音曲には長けていて、笛を吹いたり、作らせたら天下一。お殿様の命で、三千両の笛を手にれての帰途、山賊一味に襲われて、笛を取られてしまう。

山賊の頭領は、アノネのオッサンこと高勢實乗^_^ 手下の太郎助(深見泰三)と次郎作(大崎時一郎)たちは、豪商・紀伊國屋(鳥羽陽之助)の息子・花丸(中村メイコ)を拐かしてきたものの、花丸を閉じ込めた葛篭ごと逃げられてしまう。

で、瓢介と花丸、同じ境遇でコンビとなり、江戸に笛を売りに行ったオッサン一味を追うことに。

という前段は、エノケン映画同様のパターンで、浅草の坊ちゃん、人気コメディアンのシミキン映画のプレゼンとしてはなかなか楽しい。岡田敬監督の演出は、いつも通りの可もなく不可もなくだけど、アノネのオッサンは出てくるだけで画面が弾ける。メイコちゃんの幼いのに大人びた芝居が、観客の笑いを誘う。

アノネのオッサン!
メイコちゃん!

江戸に着いた瓢介と花丸。瓢介の豪傑イメージの髭面が、用心棒にピッタリと呉服屋・成駒屋(三國周三)にスカウトされ、成駒屋の長屋へ。隣には、仕立物を請け負っている可愛いおはる(若原春江)が住んでいて、瓢介は一目惚れ。

さらに、成駒屋の向かいには、骨董屋・喜撰屋(小島洋々)が店を構えていて、主人同士が犬猿の仲。喜撰屋には、巨漢の用心棒・岸田権六(岸井明)がいて、睨みをきかせている。

中盤からは、岸井明とシミキン、タイプの違うコメディアンのライバル喜劇となっていく。ややこしいのは、成駒屋の娘・おすみ(堤眞佐子)が喜撰屋の用心棒・権六と恋仲で、親に背いてのロミオとジュリエット。バルコニーでの愛の交換ショットもあり。

歌唱シーンもふんだんで、トップシーンでシミキンが「スタインソング」を歌い、中盤、おはるちゃんへの恋慕をのせて、淡谷のり子の「雨のブルース」の替え歌「ヒゲのブルース」を朗々と。シミキンの歌は、エノケン、ロッパにくらべて、小手先で歌ってる感が強く、あまり魅力的ではない。ゆえに、岸井明と堤眞佐子がデュエットする、ミュージカル「ニュームーン」のヒット「恋人よ帰れ」の良さが際立つ。

岸井明!

で、江戸にやってきたアノネのオッサン一味は、喜撰屋に、三千両の笛を売りに来る。二千五百両に値引きするとプライスダウンも申し出るも、喜撰屋に相手にされない。このあたりは、捨て台詞、呟きも含めて、オッサンの独壇場。申し訳ないが、シミキンよりオッサンの方が面白い。

後半は、懸賞金のかかった花丸を狙ったオッサンから逃げて堀割りに飛び込んだ花丸が、それがもとで、病の床に。どうしても治療費が必要な瓢介は、断り続けてきた、成駒屋の用心棒となる決意をする。しかし、おはるちやんから髭が怖いと言われて、髭を剃ってしまった瓢介、見た目の迫力が激減。成駒屋に断られて、八方塞がりとなるが…

というわけで、時代劇コメディとしては、なかなか面白い構成なのだが、あまり弾けない。主役のシミキンに、エノケンやロッパのような華がないのである。伝説のアクロバティックなアクションも、ふんだんなのに、あまりパッとしない。歌唱シーン同様、小手先感が否めない。

とはいえ、クライマックス、オッサン一味、岸井明を交えての大捕物アクションは、追っかけも派手で、メチャクチャな展開も含めて楽しい。江戸の街並み、屋根の上でスラップスティックなドタバタは、ここまでやるか!のスペクタクル。いちいちオッサンのリアクション、捨て台詞、呟きがあって、それがおかしい。

二人で、アノネ、オッサン!

シミキンは続いて「だんだら絵巻」(1940年・東宝京都・岡田敬)、「電撃息子」 (同・中川信夫)、「さつまいも太平記」(同・岡田敬) と三本の作品に主演。いずれも京都作品であること、他の喜劇人のように一座や吉本興業などのバックボーンがなかったこともあり、戦前の映画におけるシミキンはブレイクに至らなかった。

むしろ助演した岡譲二の「蔦」(1940年・東宝京都・萩原遼)や、長谷川一夫の「阿波の踊り子」(1941年・同・マキノ正博)での脇役に、味わいがある。

その後、1942(昭和17)年、吉本興業と契約。堺駿二を呼び戻して、田中実(後の田崎潤)が加わり、浅草常盤座で「新生喜劇座」を旗揚げ。金龍館、新宿の第一劇場にも出演。戦時下であるが、ナンセンスな笑いにこだわり、圧倒的な人気を得る。相手を罵倒するように言う「ハッタースゾ!」「ミッタァナクテショーガネェ」のフレーズは、アノネのオッサンの「わしゃ、かなわんよ」同様、東京の子どもたちに流行。それゆえ当局に睨まれることに。当時の人気は、残念ながら映画では反映することができず、想像するより他はない。


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