『この広い空のどこかに』(1954年11月23日・松竹大船・小林正樹)
木下恵介監督の実妹・楠田芳子のオリジナル脚本を松山善三が脚色した小林正樹監督『この広い空のどこかに』(1954年11月23日・松竹大船)は、いつ見ても素晴らしい。清々しい映画である。
川崎駅にほど近い商店街の酒屋を舞台に、嫁・久我美子、姑・浦辺粂子、小姑・高峰秀子の微妙なパワーバランス。父の跡を継いで酒屋を切り盛りする佐田啓二は、新妻と母の間で何かと苦労している。弟・石濱朗は甘えん坊だが、貧困についていつも考えている青年。
松竹大船伝統のホームドラマで、身近なゆえに厄介でもある家族の確執、ちょっとした行き違い、そしてお互いを思いやる優しさ。さまざまなエピソードを重ねながら、誰もが「幸せ」になっていく。眺めているだけで多幸感に包まれる。
成瀬巳喜男作品のように、人間のエゴや運命の急転回があるわけでもなく、些細なことで喧嘩をしたり、傷ついたり、仲直りをしたりの繰り返しの日々。昭和29年の川崎の活気、誰もが抱えている戦争の傷、大人たちは「今どきの嫁は…」「今どきの若者は…」「恋愛なんて…」みたいな身勝手だけど、誰もが陥ってしまう感覚で、嫁とぶつかる。
新妻・久我美子がチャーミング。佐田啓二は、妻にも母にも、空襲で脚が不自由になってしまった妹・高峰秀子にも優しいフェミニストである。だけど高峰秀子は、コンプレックスに苛まれ、脚のせいで婚期を逸してしまい、義姉が嫁いできてからは心を閉ざしている。
それでも、何か楽しいことはないかと競輪や野球見物に一人で出かけたりしている。誰もが「物足りなさ」「貧しさ」を感じているのだけど、石濱朗は、苦学生の親友・田浦正巳の窮状をなんとかしてあげたいと考えている。そんな弟に、自分たちだって「貧しさ」は変わらないんだと、それは弟のエゴだと決めつける。
酒屋の商売は薄利で、日銭が入ってくるからなんとかやっていけると母・浦辺粂子。あ、これも「ふぞろいの林檎たち」の仲手川酒店と同じだと、山田太一がこの世界を受け継いでいることを実感。脚が悪い娘という設定は、向田邦子の「寺内貫太郎一家」の梶芽衣子でもある。これぞホームドラマの系譜。
高峰秀子の女学校時代の友人・中北千枝子は、夫が満州で現地召集されたまま消息がつかめずに、ヨイトマケをして子供を育てているシングルマザー。ある日、子供が急性盲腸炎になりどうしても5千円貸して欲しいと、高峰に電話してくる。
兄・佐田啓二は、前半の「誰もが貧しいんだ」というやりとりがあるので、絶対に貸してくれないと思っていたら、「お見舞いといって渡してやれ」と出してくれる。いいねぇ。
戦前から戦時中にかけて奉公していた大木実の「俊どん」が、ずっと高峰のことが好きで、久しぶりに手紙が届いて訪ねてくるが、高峰は脚を気にして、彼には会わずに多摩川へ。そこで弟とボートに乗るシーンがいい。
で俊どんは、脚が悪くたって人間の価値が変わらない、気にすることはないと、母や佐田啓二に言い残して静岡へ帰る。出番は少ないけど、大木実のチカラ、存在感で、俊どんのキャラクターが、この一家の屈託の救いとなることは一目瞭然。
ラスト近く、物干し台で久我美子と佐田啓二が、誰もが幸せになれるように「魔法のボール」を街ゆく人に投げる仕草をする。そのボールが当たった人は幸せになれる、という夫婦の「ごっこ遊び」である。そこからラストに向けての多幸感は、この映画の味わい。
急転回のラストシーンには納得だし、素直に感動してしまう。これは観ていて「心が晴れる」映画でもある。何度も何度も観たくなる。僕が好きなのは、久我美子の故郷・長野から、かつて久我を好きだった内田良平が訪ねてくる一連のシークエンス。佐田啓二が少し嫉妬したり、浦辺粂子や高峰秀子は「浮気じゃないか」と下衆の勘繰りをする。
だけど内田良平も久我美子もそうではなくて・・・ 内田良平が故郷に帰る晩、川崎駅まで追いかけてきた佐田啓二が、久我美子の父に「渡して欲しい」とウィスキーを託す。そして「もう一本は、あなたのお土産」と箱入りのウィスキーを渡す。こういうのに弱いんですよ。ワタシは(笑)