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渡哲也の映画史 1965~2005年

 渡哲也は、昭和16(1941)年12月28日、島根県安木町に生まれた。石原裕次郎と同じ誕生日、7歳年下である。父が日立の島根県安来工場に勤務していた頃、母と結婚。長男・渡瀬道彦が生まれた。弟・恒彦が生まれたのは昭和19(1944)年だった。敗戦を機に父が故郷・兵庫県津名郡淡路町(現在の淡路市)に戻って洋品店を開業した。小学一年の途中から道彦は淡路島で育った。小学生の頃、嵐寛寿郎の「鞍馬天狗」、片岡千恵蔵、市川右太衛門などの剣劇スターの時代劇全盛時代。母親のお金をくすねて、近所の子供たちと映画館に通った。中学生になってからは『新諸国物語 笛吹童子』(1954年・萩原遼)の中村錦之助、東千代之介に夢中になった。

 教育熱心で厳格な父親に連れられて観たディズニーの『ファンタジア』(1940年)『青い大陸』(1955年)などの文部省指定映画が多かったが「それでも楽しかった気がします」とインタビューで回想している。

 父の「男は団体生活をしなければいけない」という方針で、中学・高校は兵庫県三田市の三田学園で寮生活を過ごす。中学3年の頃『狂った果実』(1956年)の裕次郎に心酔。憧れのスターとなり、高校時代は裕次郎や小林旭の日活アクション一辺倒だった。やはり三田学園に入学した3歳年下の弟・恒彦は成績優秀の優等生だったが、道彦はやんちゃな日々を過ごし、学校に母が呼び出されることもしばしばあった。

 一浪後、青山学院大学に入学。高3のときに始めた空手に専念すべく、大学時代は空手部で活躍したバンカラ学生だった。

 昭和39(1964)年、日活のトップスター・浅丘ルリ子の映画出演100本記念作品『執炎』(蔵原惟繕)の相手役が一般公募された。その「ミスターXコンテスト」に、早稲田大学に進学した弟・恒彦と、青学の空手部の仲間が本人に内緒で応募。ちょうど就職試験が不採用となったばかりで、撮影所に行けば「裕次郎に逢えるかもしれない」と軽い気持ちで日活撮影所を訪ねた。

 同行した友人と食堂で食事をしていたところ、関係者にそのルックスを買われて昭和39年、入社することになった。裕次郎が兄・慎太郎の付き添いで日活のプロデューサーに会ったのがきっかけだったが、渡哲也は弟・渡瀬恒彦たちの好奇心での応募がきっかけというのも、スター誕生の不思議を感じる。

 渡と面接をした『執炎』の蔵原監督は、渡に「屈折のないストレートな存在感」を感じ、文芸作よりアクション映画が似合うと判断。浅丘ルリ子の相手役は、蔵原監督の希望、スケジュールもあって伊丹十三が演じることになった。

 その頃の日活は、裕次郎、小林旭、高橋英樹に続く、若手のアクションスターを探していた。他の新人とともに劇団民藝で研修を受けるが、4ヶ月の研修期間のうち、実際に行ったのは3回ぐらいだった。タイツを履かされてバレエを踊らされ、大真面目に発声練習をさせられることが「バカバカしい」と感じたからだった。芸名は「渡哲也」と命名された。

 日活に入ったばかりの頃、渡は俳優担当の社員と一緒に、挨拶回りをしていた。日活撮影所の食堂の入り口近くのテーブルで、いつものようにカレーライスとビールで食事をしていた裕次郎に挨拶をした。裕次郎は立ち上がり、背広を直して「君が新人の渡君ですか。石原裕次郎です。頑張ってください」と手を差し出した。中学生の頃、憧れていた裕次郎。その折り目正しさに感激した渡は「この人について行こう」と思ったという。

 ようやくデビューが決まったのは、昭和40(1965)年に入ってからだった。デビュー会見では「映画界待望久し!日活に驚異の新星!渡哲也‼︎」と紹介され、空手部出身ということで瓦割りのデモンストレーションも披露した。

 期待の大型新人・渡哲也のデビュー作は、昭和40年3月公開、宍戸錠主演の『あばれ騎士道』(1965年・小杉勇)だった。世界的オートレーサーの兄・“香港ジョー”(宍戸錠)とともに、不審死を遂げた警察官の父の真相を暴く正義感を演じた。恋人役は松原智恵子。日活宣伝部は得意の空手を活かしたアクションを前面に押し出して新人の魅力をアピールした。

 続く『青春の裁き』(1965年)も小杉勇監督が、渡の空手二段の特技を強調。城南大学空手部・古賀菊男(渡)が「縄張り争いで窮地に陥った父を得意の空手で豪快に救う」(日活宣伝部のコピー)青春アクション。相手役は山本陽子。こうして高橋英樹とともに、渡は日活男性アクションのローテーションに組み込まれた。

 裕次郎が「狂った果実」でレコード・デビューして以来、日活の伝統「歌う映画スター」のセオリー通り、渡哲也は、小林旭と同じクラウンから7月公開の『真紅な海が呼んでるぜ』の主題歌「純愛のブルース」(作詞・叶弦大 作曲・星野哲郎)で歌手デビューを果たした。

 昭和40(1965)年9月18日、憧れの裕次郎と海洋アクション『泣かせるぜ』(1965年・松尾昭典)で初共演した。日活は期待の新人を「第二の裕次郎」として売り出すべく企画したのだ。裕次郎の船長と生真面目な二等航海士の渡が、反目しながらも悪党一味の陰謀を打ち砕く。暴風雨の甲板での裕次郎と渡の殴り合いは、『鷲と鷹』(1957年・井上梅次)と裕次郎と三國連太郎の再現で、日活アクションの新人の通過儀礼でもある。裕次郎を前に緊張していた渡に、裕次郎自らがアクションの動きを指導、気持ちを解してくれたと、渡が筆者に話してくれた。

 続いて、裕次郎映画のメイン監督、剛腕・舛田利雄による裕次郎主演の正月大作『赤い谷間の決斗』(1965年)にも抜擢された。渡の役は、自分の出生の秘密を探るべく、北海道の石切場を訪れた大学生。もちろん空手部という設定。裕次郎は「男の世界」で生きる石切場のリーダー的存在。二人がボス・小沢栄太郎一家を倒す。理屈抜きの「和製西部劇」。裕次郎の胸を借りて、渡の主人公の成長が描かれた。

異才・鈴木清順監督の『東京流れ者』(1966年)は、「月光仮面」の生みの親で小林旭の「銀座旋風児シリーズ」でもおなじみの川内康範の原作・脚本。渡の歌を売り物にした無国籍活劇として企画されたが、清順監督の手にかかるとキッチュでポップな不思議な作品となった。主題歌を歌いながら、渡が雪国をさまよい歩くシーンの人工的な雰囲気は、カルト映画として欧米で高い評価を受けている。生真面目にヒーローを演じる渡を、清順監督はまるでオブジェのように扱って、日活無国籍映画のパロディ的怪作となった。

 この頃、日活アクションは低迷期にあり、これまでの様々な「成功例」を、渡主演作で試していた。川内康範脚本で、城卓也のヒット曲をフィーチャーした歌謡アクション『骨まで愛して』(1966年・斎藤武市)は、小林旭の「渡り鳥シリーズ」を渡が演じたら?と企画。好敵手・宍戸錠と流れ者・渡の対峙などが、往年の雰囲気を再現。浅丘ルリ子の美しさも際立つ一本となった。

 アクション映画が続くなか、渡にとって生涯の代表作となる『愛と死の記録』(1966年・蔵原惟繕)で、吉永小百合と初共演を果たす。大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」を映画化した原爆と平和をテーマにした青春映画。当初、浜田光夫が出演する予定だったが、ケガをして休養を余儀なくされたために、急遽、渡が代役をつとめることになった。最初、渡にとっては重荷で、クランクインが近くにつれて「逃げ出したくなった」と考えたこともあった。

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