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鴨下信一さん インタビュー・第4回「大瀧詠一さんとクレージーキャッツ・デラックス」

聞き手・構成:佐藤利明(娯楽映画研究家)

鴨下信一さん インタビュー・第4回「大瀧詠一さんとクレージーキャッツ・デラックス」

このインタビューは2010年秋に上梓した「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社)のためにまとめたものです。同書はすでに絶版になっており、版元もなくなってしまったので、読んで頂く機会がなくなってしまいました。今回、追悼の意味もこめて、ここにアップさせて頂きます。鴨下信一さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。

「クレージーキャッツ・デラックス」(1986年・東宝ビデオ)

ークレイジー結成30周年の機運のなか、大瀧詠一監修・牧野敦構成で1986年「クレージーキャッツ・デラックス」がリリースされます。

鴨下 これは渡辺プロの依頼でした。「植木等ショー」をやっていたことと、月曜ロードショーの「東宝映画の50年」をやっていたこともあって、鴨下はアンソロジーを作るのが好きらしいと(笑)。こっちも安易な引き受け方で「いいよ」。植木さんの映画はほとんど観ているしね。それにアンソロジーは「東宝映画の50年」で、味をしめてましたし。あの時『エノケンの法界坊』(38年・東宝・斎藤寅次郎)など、観たかった映画を全部観ることができたんです。クレージー映画も「見逃してるやつがある筈だから、全部フィルムで見せてくれ」と過大な要求をしたわけです。それで、東宝の試写室で回したのをビデオ録りしたのを持ってきてくれた。ところが、これが見事につまらない(笑)。でも、全部観ました。カミさんが、あの年(1986年)の正月休みは、全部それを観たと記憶してますから。

—画面撮りはキツイですよね。

鴨下 画面が歪んでる。ときどき音声もおかしくなって、手ぶれしたり、酷いのよ。要するに、最終的に選んだもの以外は、ダメだってことがハッキリしました。その選別はすごく良かったと思いました。

—鴨下さんのクレージー映画に対する批評、答えがそこにあったんでしょうね。

鴨下 そうそう。もしかしたら、答えから逆算して、映画を見直したこともあるかもしれません。観ていくと、やっぱりここだけは面白いという箇所があるんです。(『日本一のゴリガン男』の)「シビレ節」とか、そこだけ面白いっていうのがあるんです。人見明って、僕らにしたら大スターだからね。人気もあったし、喜劇人として結構いい扱いをされていました。テレビでも映画でもいいポジションでね。でも、あれは最高だね。

—大瀧詠一さんが監修ということで、いろいろお話はされたんですか?

鴨下 あんまり話はしなかったけど、大瀧さんとはすぐに意気投合しちゃう。同じようなタチだから「じゃぁ、まぁ、よろしく!」(笑)。あとは「ここと、ここは入れようよ」という話を一回だけ。それで出来ちゃった。大瀧さんとは食事して、打合せしただけ。もちろん編集のときは、全部来てくれて、一緒でした。

—しかしオフラインなしで15時間で終ったというのはスゴいです。

鴨下 あんなの簡単に終るって(笑)。細かく繋ぐとか、そういうのじゃないんだから。でも、古澤(憲吾)さんとか、坪島(孝)さんの演出は、一応踏まえました。申し訳ないですから。『クレージーの怪盗ジバコ』(67年・東宝・坪島孝)も、一応筋がわかるようにしないと悪いじゃない。そこだけ、ちょっと難しかった。でも、アンソロジー、ダイジェストはそこが面白いんだけど。

—ちゃんと古澤監督と、坪島さんのテンポの違いが、ダイジェストに残っています。

鴨下 どう考えたってパレンバン(古澤監督のあだ名)の方が上手い。シュールだよねパレさんは、とにかく異常。歌にイントロはないし、植木さんが出て来ていきなりズームアウト。有り得ない(笑)。僕が一番大好きな(『日本一のホラ吹き男』64年・古澤憲吾の)「東京五輪音頭」を唄うシーン、あれが植木さんのパフォーマンスのなかで一番良いね。あれを入れるところをちょっと悩みましたね。ストーリーのあるパートを見せて、すぐ直後にワイプ切って、キャメラが横移動しながら、植木さんが踊る。その繋ぎは苦労しました。

—時代劇篇では「だまって俺について来い」が印象的です。

鴨下 『ホラ吹き太閤記』(64年・古澤憲吾)がクセものなんだ。どうしても「だまって俺について来い」が繋がらない。で、頭とケツに1コーラスずつくっつけた。大手術(笑)。でも、そういうところはちゃんとやったんです。

—クライマックスは『香港クレージー作戦』(63年・杉江敏男)から、『クレージー大作戦』(66年・坪島孝)のラストでラスベガス行を示唆するカットと、『クレージー黄金作戦』(67年・坪島孝)の「ハロー・ラスベガス」を繋いでます。

鴨下 そこは苦労しました。『クレージーの怪盗ジバコ』の最後で、飛行機がUターンしないとダメなところがあるんです。Uターンしないで、香港からラスベガスを繋いでるとかね。

—驚いたのは『クレージーの大爆発』(69年・古澤憲吾)の「キンキラキン」をクレイジーが唄った後に、植木さんが空中浮遊しているカット。あれ『日本一のゴリガン男』(66年)で、植木さんが脳しんとうを起こした場面のイメージカット。

鴨下 あのカットを入れたのは、すごいでしょう(笑)。全然違う映画を繋げちゃった。あれは結構楽しんで作ったんだよね。パッケージも明治チョコレートのイメージでね、あれは大瀧さんのアイデア。楽しかったね。

「植木等スーダラ90分」の「平成名物無責任社長」(1991年8月9日)

—それから四年後の1990年に「スーダラ伝説」が大ヒットして、TBSで1991年に「植木等スーダラ90分」で、鴨下さんはクレイジー最後のコント「平成名物無責任社長」を演出されます。

鴨下 (斎藤薫プロデューサーが)いきなり人のところに来て、「クレイジーで何かやってください」って言うのよ。その時、すごい忙しかったんです。長時間ドラマに引っかかって「手が空かねえよ!」って言った覚えがあります。ホント、植木さんの時はいつでも話が急なんだよね。

—でもそれは断らない。

鴨下 断れない(笑)。植木さんには義理があるし。「植木等ショー」の後、ドラマは一本もやったことがないけど、パーティとかで、植木さんはすごく早く来るんです。そうすると自ずとパーティでのお相手役は、僕になる(笑)。いつもおしゃべりをして、昔話しながら、結局ドラマはやらなかったから。尚更、お引き受けしないと。

—「平成名物無責任社長」のホンは、既に出来ていたんですか?

鴨下 高平哲郎さんのホンは出来ていたと思います。演出を頼まれて、高平さんだからいいやって、引き受けた(笑)。植木さんが馬に乗って出社するところをちゃんとやればいいだろうって。実にいい加減だよね。つまり、一回も植木さんとは真面目にやっていない。

—でもこのコントは、「クレージーキャッツ・デラックス」の冒頭の“無責任男”パートで、鴨下さんが再構築されたクレージー映画の世界を、受け継いで、後日譚ともとれる構成になっています。

鴨下 繋がっちゃうんだよね。多分、高平さんもそうだったと思うけど、自分たちの気に入った映画とか、テレビの記憶を頭の中で再構築して、もっとコンパクトな形にして記憶している筈なんです。だから「デラックス」も「スーダラ90分」も、僕らが記憶している植木さんを、そのままお目にかけたようなものです。僕のなかでは『ニッポン無責任時代』と『ニッポン無責任野郎』を明らかに混同していたから、簡単に構成できた。もし、今、新しく構成して作れと言われたら、多分できない。

—印象とその再構築。それが鴨下さんの原点ですね。

鴨下 そう。その印象だけで、当日スタジオに行って「あそことあそこ繋げて」と、スタジオの15時間だけで作っちゃった。疾風怒濤です。ほとんど口から出任せみたいに言って、それで繋いじゃった。何のコンテも、何のラフスケッチもない。頭の中にはぼんやりとあるんですね。あれは面白かったなぁ。熱病のようにやりました。

—アンソロジーは、本来ならば周到である筈のものが、一番ライブ的だったという。

鴨下 そうそう。今観ても、あんなに生き生きとしているビデオクリップって、ない。ビデオクリップって普通、生き生きしないからね。あのビデオクリップは、まことにライブ感があります。

—植木等さんを知ってもらうために、若い人には是非観て、って言えますね。

鴨下 言えます。今観ると『クレージーの怪盗ジバコ』も、そんなにつまらなくないんだよ(笑)。あの時は嫌でしょうがなかったけど、あれが坪島さんの味でしょう。パレさんに比べて、つまらないんだろうって思ってました。でもテンポの違いなんだよね。坪島さんはスローテンポ。今で言うと、ちょっと癒し系で、ユルくていい。でも坪島さんは谷啓と相性がいい。谷啓ってそうなんだよね。ちょっとユルい、ゆるキャラ。それがいいんだよ。でも今なら、ホンワカしたところがあって、あのユルさがちょうど良いのかも。植木さんじゃ激しすぎるっていう感じもあるね。トンガリ過ぎてるよね。非常に押されて、気圧されるようなことがある。

—植木さんは問答無用。

鴨下 “寄らば斬るぞ!”みたいな感じありますけど。「クレージーキャッツ・デラックス」の中盤で、谷啓がボロボロの車で国会議事堂に前に行くところ(『クレージーだよ奇想天外』66年・坪島孝)、当時は“つまんねえなー”って思ったんだけど、今観ると面白い。

—凸凹コンビ、アボット&コステロのような面白さがあるんです。

鴨下 キャラなんだよね。それがいい。これだけ時間が経ってみると良いし、下らないと思いながら、ラスベガスのあれはいいよ。下らないけどいい。色んなものが下手なんだけど良い。ラスベガスの大通りで、踊ってね。いくら映画だって、今は交通遮断して出来ないよ。あそこでワンちゃん(犬塚弘)が出て来てインディアンの格好して、そういう古臭いギャグがいい。アメリカまで行ってやることじゃない。国辱的な〜!と思うんだけど、それが良いんです。

—坪島さんと谷さん、古澤さんと植木さん。今こそ、古いものじゃないくて、観て欲しいですね。

鴨下 歌でいうと「キンキラキン」(『クレージーの大爆発』69年・古澤憲吾)なんて、今観る方がいいよね。あの、下らない空中遊泳みたいなのが、いいんだ。こういうものを、みんな経てきたんだな、っていう感じだしね。

—「〜デラックス」の最後が『クレージー黄金作戦』のラスベガスだったことで、クレージー映画を正しく伝えてくれている、と思いました。

鴨下 なんでか知らないけど、ラスベガスを最後にしようっていうのは、最初に浮かんだ案でした。でもあの撮影は大変だったって聞きました。あれを観ると、戦後そのものって感じがするよね。そういう意味では、今クレージーを見直すってことは、戦後史を見直すことにもなるね。

—その『クレージー黄金作戦』が終ってスタートしたのが「植木等ショー」です。

鴨下 少し高級にやろうと、でも日生劇場で高級にやったけど、どうもうまくいかないから、じゃぁ、あいつが良いだろうって、それもひどい話だけど(笑)。そこでボードビル、下町の笑いですから。でも植木さんには、そうした浅草的なものな全くない。谷啓はアメリカ映画好きだしね。だから、僕は異質だったらしいんだけど、図々しく演出できたのは、ドラマの演出家というお墨付きが、「水戸黄門」の印籠みたいにあった。

—1986年の「クレージーキャッツ・デラックス」があって、1990年の植木さんの復活がありました。僕は1997年に「無責任グラフィティ クレージー映画大全」(フィルムアート社)を出して、CDを出したり、今ではクレージー映画がDVDで観られるようになりました。

鴨下 そういう意味では、不思議な縁ですよね。僕は「植木等ショー」で植木さんの番組を出来たというのは、本当に幸せだと思います。東芝日曜劇場をやりながら、バラエティができるっていうのは、軽業師みたいな話。「植木等ショー」の十年後に「岸辺のアルバム」(TBS・77年6月24日〜9月30日)をやって、またコースが変わっていくんですけど、やっぱり僕にも歌とボードビルの時代があったんですね。江利チエミちゃんとかチータとか、そういうのを経て、今がある。考えてみたら「ザ・ベストテン」の前身の「TBS歌謡ベストテン」(65年10月〜67年3月・火曜20:00〜20:56)って、第一回は僕なんです。二回目が青柳脩というメンバーでした。その頃、僕は“音楽ものの鴨下”だったんです。

—その後TBSでは、渡辺正文プロデューサーが「サウンドインS」(74年〜81年)で、大人の音楽エンタテインメントを成功させます。渡辺晋さんが「植木等ショー」で目指したのは、こういう世界だったのかもしれません。

鴨下 ただ、日本では土壌がないから、やっぱりムリなんだよね。どの辺まで(レベルを)下げるか、どのへんを注入するか、ほとんどノウハウはなかったんだと思います。それを一生懸命アメリカのレベルに近づけようとしたのは(中原)弓彦さんでした。弓彦さんはアメリカにも詳しいけど、テイストは下町だったから(笑)。谷啓みたいにテイストがアメリカという人ではなかった。弓彦さんは、コスモポリタン。どちらかというと浅草六区の人です。彼のモダニズムは、浅草六区のモダニズムです。古川緑波さんのことが好きで、とても詳しい。だけどもモダニズムはあるけど、モダンな人ではない。だからロッパさんでなく、エノケンさんなんだよね、弓彦さんは。でも、僕や中原さんは、ロッパの演劇を生で観ているから強い。でもエノケンさんのライブだけ観ていない。これは時代が違うから仕方ない。昭和7〜8年で終って、東宝映画に来ちゃってますからね。

—クレージー映画はエノケン映画に作られ方が似てますね。東宝の伝統ですね。

鴨下 東宝のミュージカル映画って、今観ても圧倒的に面白い。素晴らしいんですね。

よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。