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エノケン=榎本健一とトリロー=三木鶏郎。天才の幸福なコラボレーション

2003年webのために書き下ろした原稿に加筆訂正しました。

 2003年10月11日に満年齢99歳、数えで100歳を迎える昭和を代表する喜劇王エノケンこと榎本健一。昭和モダニズムの時代に、浅草水族館二階のカジノフォーリーを皮切りに、玉木座のプペダンサント、そして浅草最大の劇場・松竹座のピエルブリアントと、たった数年のうちに興行界のトップに立った、文字どおり日本を代表するコメディアンである。昭和9年には発足間もない映画会社、P.C.L.で音楽レビュー映画『青春酔虎伝』(山本嘉次郎)に主演、劇団まるごとのユニット出演を果たし、そのモダンな感覚は、エノケンの名前を広く世にしらしめた。

  昭和11(1936)年にはポリドールと専属吹き込み契約を結び、「エノケンのダイナ」「月光値千金」などのジャズスタンダードを、独特のテナーでユーモラスに唄い、日本のジャズシーンに、数少ないコミックな歌い手としてユニークな足跡を残している。

 劇団最盛期には、150人を超す大所帯を抱え、専属のオーケストラやジャズバンドまで要していたエノケンは、常に新しい笑い、新しい音楽をどん欲に取り入れていた。戦前の映画では、最新のジャズソングや、ブロードウェイやハリウッド・ミュージカルのヒット曲を唄い、戦後も伝説のジャズマン森安正太郎とセッションを試みたりと、その柔軟な感覚は、抜群の運動神経同様、常に研ぎ澄まされていたものだった。

 そのエノケンが、「日曜娯楽版」の斬新な音楽感覚と風刺精神で一世を風靡していた三木鶏郎とコラボレーションを組むのは、当然といえば当然のことだった。戦後のエノケンは笠置シヅ子とコンビを組んで、服部良一の新しい音楽ブギウギ・ブームの渦中にいた。昭和23(1948)年、自らエノケンプロを主宰して数多くの映画を世に送っていた。そのエノケンが「日曜娯楽版」の三木鶏郎を指名したのが、昭和25年の日劇公演「無茶坊弁慶」だった。音楽と構成を三木に任せ、戦後のリベラルな空気の中で、戦争に対する痛烈な皮肉を込めたコミックな音楽劇となり、主題歌「武器ウギ」に込められた反戦メッセージは、戦前からの喜劇王の柔軟な感覚なればこそ成立した。

 昭和26(1951)年のお正月に特別番組として放送されたラジオドラマ「ピアノ物語」は、エノケンと古川緑波、そして渡辺篤という戦前からのベテランコメディアンが出演。作は「日曜娯楽版」の作家グループの一人で、アサヒグラフ副編集長だった飯沢匡、音楽はもちろん三木鶏郎だった。その劇中でエノケンとロッパの喜劇王が、戦前を懐しみながら唄う「プカドンドン」は、東芝EMIより94年にリリースされた「エノケンの大全集 完結編」に収録されている。「煙草屋の娘」や「ベアトリ姐ちゃん」を唄う喜劇王を暖かく見守る三木鶏郎のピアノの軽快なリズムは、聞いている我々の心も軽やかにしてくれる。

 エノケンと三木鶏郎、昭和26年から27(1952)年にかけて、それぞれが充実した仕事ぶりを見せていた。三木はエノケンよりちょうど10歳年下の1914年生まれ。この頃30代後半を迎えていた三木は、精力的に作曲をし、ラジオ番組にも力を入れていた。民放開局ラッシュが続き、レギュラーのNHKの仕事をこなしつつ、超多忙の日々を送っていた。

 エノケンも自らのプロダクションは解散したものの、越路吹雪との帝劇ミュージカルス「おかる勘平」や、笠置シヅ子と組んで帝劇ミュージカルス「浮かれ源氏」など、戦後の代表的な舞台に主演。40代の充実した時を迎えていたが、昭和27年に思わぬアクシデントに見舞われてしまう。生涯苦しめられることになる突発性脱疽が発病。右足の親指を切断し、舞台や映画も休業を余儀なくされてしまう。

 しかしエノケンらしいのは、映画や舞台がダメならラジオがあるじゃないか、という発想になること。エノケンは休業中の昭和28(1953)年春。三木鶏郎を訪ね、自らラジオ番組の音楽を三木に依頼する。しかし、この頃の三木はオーバーワークで、それを引受ける余裕がなく、一旦は断ってしまう。しかしエノケンは「このエノケンが足が悪いのにわざわざ訪ねてきたんだ」と、三木に詰め寄り、その仕事への気迫に感服した三木がエノケンのラジオに取り組むことした。

 それが「河童の園」だった。これは、昭和17(1942)年エノケン劇団が上演した芝居のドラマ化で、男やもめの源さん(エノケン)が水上生活をしながら、亡き妻との間の息子を育てるというペーソス溢れる人情喜劇だった。

 このラジオ出演によって、エノケンは療養中にも関わらず「健在ぶり」をアピール。昭和28(1953)年の秋には、エノケン=鶏郎コンビのラジオ「泣くな兵六」がスタートしている。これもまた、戦時中にエノケンが出演した映画『兵六夢物語』をベースにしたもの。

 思わぬアクシデントによりスタートしたエノケンのラジオ番組だったが、三木とエノケンの友情とパートナーシップは、この時期にさらに強い絆となった。

 昭和28年12月、日本テレビ開局番組として「エノケンのクリスマスショー」が放映され、一年五か月ぶりにその元気な姿を見せたエノケンは、完全復帰を果たすことになる。この番組、ターキーこと水の江滝子が共演。音楽は三木ではなかったが、三木鶏郎の手もとにこの台本が残されていることから、この頃のエノケンと三木との友情がしのばれる。

 そして、明けて昭和29(1954)年1月1日、ラジオ「泣くな兵六」特別版として「エノケンの再軍備」が放送される。作/音楽はもちろん三木鶏郎。同じ1月の26日には、日本テレビで、「テレビオペレッタ 嘘」が放送されている。佐々紅華作のこの芝居は、戦前の浅草のカジノフォーリー時代にも上演されているもの。開局間もない生放送の時代、音楽劇を放送してしまおうという、エノケンと三木のチャレンジ精神もすごい。

 この時のリハーサル音源が三木鶏郎企画研究所に奇跡的に現存しており、今回のCDに収録することができた。今回の「エノケン ミーツ トリロー」は、これまでレコードやCD化されていない、三木鶏郎によるエノケンソングを発掘することから企画をスタートさせた。三木鶏郎企画研究所で音源や資料の整理、管理をしながら三木鶏郎氏の足跡を研究されている竹松伸子さんに、資料を抽出していただいた上で、とにかく音源を聞きつづけた。年譜や当時の資料を片手に音源を聞きながら、作品を特定していくのは、骨の折れる作業だったが、反面、未知の鶏郎音源を聞ける喜びに勝るものはなかった。

 まず、第一に心掛けたのが、セッションの時代を特定していくこと。ラジオ音源と映画音源を区別すること。例えば、映画「落語長屋」シリーズの音源でも、どの歌がどの作品のものかを、映倫提出用の検定台本をもとに特定したり、テープに「エノケンの黒頭巾」と書かれている作品が、どのメディアのものかを特定していく作業など。関係者が鬼籍に入っており、限られた資料をもとに検証していくことに時間を費やした。「~黒頭巾」は「風ひきハクション」が入っていたため、そこから『お笑い捕物帖 八ッあん初手柄』の準備段階のタイトルということが判明したりと、毎日が発見ばかり。

 これまでリリースされたCDには、いつ頃のどの作品か、明確な表記がされていたかったため、今後のことも考えて、その出典を明らかにすること、そのための調査過程でさまざまなことが判明した。

 それが、CDのライナーにも書かせていただいているように、昭和29年のエノケン=三木鶏郎のコラボレーションの多さと、「ユーモア劇場」終了前後の三木鶏郎とエノケンの関係についてである。アルバムのDISC1のMOVIE DAYSに収録されている映画は、『落語長屋は花ざかり』『夏祭り落語長屋』『落語長屋お化け騒動』『エノケンの天国と地獄』『初笑い底抜け旅日記』『お笑い捕物帖 八ッあん初手柄』の6本。昭和29年の春から翌30年の春まで、およそ10ケ月の間に作られたもの。この短い間に作られた楽曲は、二人によって繰り返し唄われ、演奏され、エノケン晩年に「トリメロを歌う」というコンセプトで再吹き込みされたものが多い。

 この凝縮された二人のコラボレーションをそのままのかたちでCD化出来ればと思ったが、経年変化によるテープの歪み、散逸してしまった楽曲など、収録かなわないとあきらめかけたものもあった。

 しかし、榎本健一宅に奇跡的に残されていた6ミリのテープの中から発見されたりと、幸運なことも続いた。特にDISC2に収録されているラジオ「落語長屋」は、「古川ロッパ昭和日記」(晶文社刊)の中の記述によって、現存する回の作者も特定でき、カラオケのみでボーカル版が失われてしまっている「大工シンホニー」の歌入りバージョンも、榎本宅のテープから発見することができた。

 このアルバムはエノケンと三木鶏郎の足跡を辿る上でも重要な楽曲と、戦後のラジオ、映画、舞台、そしてテレビメディアの中で、二人の天才が残した仕事に触れるきっかけになれば、という思いで製作をさせていただきました。

 この場を借りて、関係者の方々に御礼を申し上げます。


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。