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『青い山脈』『續青い山脈』(1949年・今井正)

 敗戦から4年目、作詞・西條八十、作曲・服部良一、唄・藤山一郎・奈良光枝の「青い山脈」が全国に流れ、新生日本の若い息吹の象徴として「時代の歌」となった。

 戦前、「若い人」で颯爽とデビューした作家、石坂洋次郎が昭和22(1947)年6月から10月にかけて朝日新聞に連載した新聞小説「青い山脈」。東北地方の港町を舞台に、旧制・高等女学校の生徒と旧制高校生徒の男女交際、新時代建設に燃える若き女性教師と旧時代のモラルを尊重する人々の対立を微苦笑の中で描いた「民主主義」をテーマにした青春小説である。青森県立弘前高等女学校の教師だった石坂洋次郎は、疎開で東京からきた女学生たちの話をもとに「民主主義と日本人気質」をユーモラスに描いた。

 新聞連載中から、映画会社各社から映画化権の争奪戦が繰り広げられ、松竹は木下恵介監督で映画化を希望していたが、結果的に東宝が獲得。ところが時はあたかも東宝争議。共産党系の組合員たちが、企画審議会でブルジョア新聞=朝日新聞に、プチブル作家=石坂洋次郎が書いた小説の「映画化とは何事だ!」と槍玉に上げた。

 それに対して今井正監督は「戦時中、抑圧されていた男女が、一緒に町を歩く。それを描くだけでも意味がある」と反論したが製作は頓挫する。プロデューサーの藤本真澄は、昭和22年、東宝争議のさなか製作責任者(製作のトップ)となるが、昭和23(1948)年、「来なかったのは軍艦だけ」と言われた争議での警察隊導入の責任を負って東宝を退社。そこで昭和24(1949)年に設立したのが、藤本プロダクション。その第一回作品が、どうしても完成させたかった『青い山脈』である。

 脚本は当初、小国英雄が執筆していたが、今井正との意見が対立して小国が降板する。東宝側のプロデューサーとして参加していた井手俊郎が「このままでは映画が成立しなくなる」と、今井正監督とシナリオをまとめることになった。

 これが戦後日本映画で数々の名作を執筆するシナリオ作家・井手俊郎の誕生となった。これが縁で、井手俊郎は石坂洋次郎原作の青春映画の数々を執筆。日活では三木克己名義で吉永小百合と浜田光夫の青春映画を手がけることになる。

 原作では東北地方だったが、映画では静岡県下田を中心にロケーション。古い価値観が支配し、街の実力者が学校運営までを牛耳っている。その状況を「戦前・戦中の日本」の象徴として描き、それに反発する若い男女、教師たちを「戦後・新生日本」の象徴として、その対立が描かれていく。

 とある日曜日、高等女学校・五年生の寺沢新子(杉葉子)は、街の金物屋で店番をしている息子・金谷六助(池部良)に卵を売りにやってくる。両親が不在で、食事の支度に困っていた六助は、ここぞとばかりに「おかずを作ってくれたら」と卵を買う。この出会いのユーモア。新子が卵料理を作りながら唄うのは、「夢淡き東京」(1947年)。作曲はもちろん服部良一。東宝映画『音楽五人男』(小田基義)で藤山一郎が歌って大ヒットしたシティ・ソングの傑作。服部メロディーが、戦後の若者たちにとって、どれほど新鮮だったかがわかる。

 特に「夢淡き東京」は、戦前の「東京ラプソディ」(作詞・角田ゆたか 作曲・古賀正男)から連なるシティ・ソングで、地方に住む若者の「都会への憧れ」も感じさせてくれる。

 杉葉子は、昭和3(1928)年の生まれで、戦時中、上海の第二日本高女に通っていた。昭和22(1947)年、引き揚げ直後に、第二期東宝ニューフェイスに合格して東宝に入社。同期には、塩沢登代路(塩沢とき)がいる。東宝争議で作品にはなかなか恵まれなかったが、この『青い山脈』に抜擢されて、昭和20年代を代表する「青春スター」となる。その後も『石中先生行状記』(1950年・新東宝)、『丘は花ざかり』(1952年・東宝)など、藤本真澄プロデュースの石坂洋次郎ものに欠かせない存在となる。

 寺沢新子を演じたことで、杉葉子は「戦後派女性」の象徴的存在となり、自立する女性、当時の言葉でいうと職業女性を次々と演じてゆく。昭和36(1961)年に、アメリカ人と結婚し渡米。晩年、知り合う機会を得て、当時の話をたくさん伺った。「ロサンゼルスに来たら、連絡して。家に泊まってください」と、とても気さくな方で、アメリカで日本映画の魅力を伝えるための活動もされていた。まさに寺沢新子が、そのまま年を重ねているようだった。

 さて、六助を演じた池部良は、大正7(1918)年の生まれだから、この時すでに三十代を迎えていた。六助役のキャスティングについて、石坂洋次郎夫人とお嬢さんが、近所に住んでいた「池部良さんがいい」と推薦。三十代の青春スターとして、戦後日本映画を牽引していく。今から20年以上前になるが、池部良さんと知り合い、芸団協の俳優協会のオブザーバーに任命されて定期的に会議や打ち合わせでお話を伺う機会を得たが、スクリーンのイメージのままダンディな方だった。

 そして、田舎町の旧弊にて移行する島崎雪子先生に、原節子。大正9(1920)年生まれで、昭和10(1935)年日活映画『ためらふ勿れ若人よ』(田口哲)でデビュー。ドイツの名匠・アーノルド・ファンクに見初められて、日独合作『新しき土』(1937年)のヒロインを演じ、その後、東宝を代表する女優として、国策映画に出演。戦後は黒澤明『わが青春に悔いなし』(1946年)、吉村公三郎『安城家の舞踏会』(1947年・松竹)、木下恵介『お嬢さん乾杯』(1949年・松竹)に出演。戦後のリベラルな「新しい女性」を演じていた。特にこの年、『青い山脈』と『お嬢さん乾杯』でのみずみずしい演技により、毎日映画コンクールの女優演技賞を受賞する。

 『青い山脈』は、原節子、杉葉子、池部良が「戦後ののびやかさ」をそれぞれ体現している。長く辛い戦争が終わり、さわやかな男女交際を礼賛し、個人の権利や主張が何にも勝る、というテーマは、G H Qの「民間情報教育局=C I E」の文化戦略の意向に沿った物であったが、何よりもこの映画で描かれている「自由」は、当時の若者たちにとっては待ち望んでいたものだった。

 寺沢新子に届いた男性名のラブレター「変しい、変しい、新子さん」のユーモア。そして彼女を貶めようとするクラスメイト・松山淺子(山本和子)の卑劣さと、彼女に同調する同級生たち。それこそ戦時中の「隣組」などに象徴される、庶民の「同調圧力」に他ならない。島崎先生は、校医の沼田玉雄(龍崎一郎)、六助の友人・ガンちゃん(伊豆筆)、そして下級生の笹井和子(若山セツ子)たちと共に、学校だけでなく街を支配する保守的な空気に抵抗していく。

 この映画の「戦前的なるもの」の象徴は、街を牛耳るボス・井口甚蔵(三島雅夫!)とそれに追随する、体育教師・田中先生(生方功)や、浅子の父・浅右衛門(河崎堅男)たち。改革を需要する振りをしながら「慣習だから」と、出る杭を打っていく。この対立の図式は、戦後の石坂洋次郎文学の特徴でもあり、大衆の溜飲を下げたテーマでもある。

 なんと言ってもチャーミングなのが、元祖・眼鏡っ娘でもある、若山セツコが演じた笹井和子。今の目で見ると「萌え」感覚のルーツでもある。谷口千吉監督『銀嶺の果て』(1947年)の山小屋の娘でスクリーンにお目見え、この『青い山脈』でアイドル的な人気を得た。沼田先生宅で、作戦会議に集まった夜。和子が疲れて、ウトウト眠るシーンの可愛さ。これも戦前の映画にはなかった「自由」を感じさせてくれる。

 その和子の姉で、芸者・梅太郎こと笹井とらには、最初、今井正監督は文学座の杉村春子をイメージしていたが、藤元真澄は「作品に色気を添えたい」と、戦前から松竹の大スターだった木暮実千代をキャスティング。沼田先生に惚れながらも、島崎先生を全面的に応援する。そのきっぷの良さが、作品に「色気」をもたらした。

 今、改めて見直すと、今井正の緩急自在の演出。全編を漂うユーモア。石坂洋次郎文学の魅力である、溢れ出すダイアローグの数々。そして、黒澤組を支えた名手・中井朝一のキャメラが実に素晴らしい。原節子はキラキラと輝き、杉葉子や若山セツコの若さが、クローズアップからダイレクトに伝わってくる。前後篇で177分の長尺を見飽きることなく、楽しませてくれる。

 特に新子と六助が、海で遊ぶシーン。与太者たち(津田光男、相原巨介、成田孝)たちに揶揄われ、乱闘となる。形勢不利となる六助。そこへガンちゃんが通りかかり参戦するが、ガンジーに倣って「無抵抗主義」を貫き、結局六助はボコボコにされてしまう。新子は自分のために喧嘩をしてくれたのに、自分は何もできない。ただ寄り添うしかできない。そこで「私、六助さんのこと好きよ」と愛の告白をする。

 女性からの愛の告白! これこそ新しかった。『お嬢さん乾杯』でも原節子が佐野周二に「愛しております」と告白するのがクライマックスだったが、戦後の若者は、恋愛感情を「告白してもいい」と映画が教えてくれたのである。このシーンでは、六助はそれを受け入れることができない。この「告白」をどう受け入れるか。石坂文学では「草を刈る娘」などでリフレインされていく重要なテーマでもある。

 そして、この映画が原作を超えた大きな要因の一つが主題歌「青い山脈」である。タイトルバックにコーラスで流れ、本編では双葉あき子の歌った「恋のアマリリス」(作詞・西条八十、作曲・服部良一)のインストが効果的に使われている。プロデューサーの藤本真澄は、コロムビアレコードとのタイアップで主題歌「青い山脈」のヒットを目論んでいたが、今井正は、タイトルバックに流すことは容認しても本編では使用したくないと頑なだった。それは撮影後も変わらず、編集段階でも、今井は藤本に対して強硬に反対していた。

 そこで一計を案じた藤本が、編集室から今井を締め出してダビング。ラスト、みんなで自転車でハイキングに行くシーンに延々と流した。今井にしてみれば、この海のハイキングで、沼田先生が島崎先生に「好きだ」と愛の告白をし、六助と新子が海に向かって走る。そして和子とガンちゃんも、お互いの気持ちを確かめ合う。重要なシーン。なんと言っても、六助が新子に「好きだ」と、告白の返事をするクライマックスである。

 結果的に、そのシーンの直前に、自転車が走るカットに「青い山脈」が流れたことで、この映画と主題歌は、大衆に受け入れられ、時代を象徴する作品となった。やはり何度見ても、ワクワクする。このシーンは、様々な映画作家や作品にも影響を与え、のちのリメイクでもリフレインされてゆくことになる。

 特に山田洋次監督は、旧制高校最後の世代でもあり、オンタイムでこの作品と出会った。第38作『男はつらいよ 知床慕情』(1987年)で三船敏郎が淡路恵子に愛の告白をするシーンや、第48作『寅次郎紅の花』(1995年)で吉岡秀隆が後藤久美子に「愛している」と告白するシーンは、『青い山脈』の持っていた不器用だがさわやかな「愛の告白」のリフレインである。

 この作品を機に、藤本真澄は石坂洋次郎原作映画を次々と手がけ、それが東宝青春映画というジャンルになり、昭和30年代から日活で、石原裕次郎、吉永小百合たちによってリメイクされていく。『青い山脈』は、その後、昭和32(1957)年東宝(新子=雪村いづみ・六助=久保明・島崎先生=司葉子・沼田先生=宝田明)、昭和38(1963)年・日活(吉永小百合・浜田光夫・芦川いづみ・二谷英明)、昭和50(1975)年・東宝(片平なぎさ・三浦友和・中野良子・村野武範)、昭和63(1988)年・松竹(工藤由貴・野々村真・柏原芳恵・舘ひろし)としてリメイクされた。

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