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『悪名一代』(1967年6月17日・大映京都・安田公義)

 昭和36年にスタートした「悪名」シリーズも6年、第13作目となる。前作『悪名桜』では堅気となり「焼き鳥屋」を開業した、朝吉(勝新太郎)と清次(田宮二郎)だったが、一年3ヶ月後の『悪名一代』(1967年6月17日・大映京都・安田公義)では、再び「悪名」を晒しながら生きるアウトローに戻っている。しかも、今回は、それまでのシリーズでは踏み越えてはないかった「一線」を超えて、清次も朝吉も「やくざ映画」の世界にどっぷりと浸かってしまう。それを転向と取るか、時代の流れと取るか。しかし、映画いつものようにクオリティが高いので「悪名コンビ」による「任侠映画」としては充分に楽しめる。

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 脚本はシリーズを描き続けてきたベテラン・依田義賢。監督は大映京都時代劇を支えてきた職人・安田公義。「座頭市」「眠狂四郎」シリーズのローテーション監督でもあり、前年、傑作『大魔神』(1966年)をものしたが、「悪名」シリーズは本作が初めて。「やくざな男」のヤンチャな大暴れを喜劇的に描いてきた「悪名」の「任侠映画」への路線変更は、この時代の邦画を考えれば当然のこと。安田公義監督は、この年、田宮二郎の任侠映画『東京博徒』(1967年2月27日)を手がけていて、その流れでのキャスティングだろう。

 今回のヒロインは2人。前半に登場するのは、朝吉を幼馴染と勘違いしてしまう、男に惚れっぽい「渡り仲居」のお澄・森光子。そして物語の要となるのが、浜田ゆう子演じる蔦江。やたら明るくおしゃべりな森光子と、ほとんど口を利かずに俯いてばかりの浜田ゆう子。前半の明るさと、後半の陰惨さを象徴するヒロインとして配置されている。また、上田吉二郎の高校生の娘・環(勝山まゆみ)が、なかなかいい。やくざな父に反抗してグレているが、実は大学進学を希望している。後半、朝吉は環に、清次みたいな半端ものになって欲しくないからと、環にエールを送る。このシーンがとても良い。

 さて、若くして渡米した祖母・お菊(本間文子)の財産3億円を相続することになっている蔦江を、自分のものにして財産をそっくり貰おうというボスが三人。蔦江を妾にしている二代目・シルクハット(長門勇)、朝吉と昔馴染みのブローカー・沖縄の源八(上田吉二郎)、この2人のいざこざに乗じて全てを掻っ攫おうとする・お十夜(小池朝雄)の三人のワル。彼らから、蔦江を守り、先祖の墓参りをするために帰国するお菊の望みを叶えてやろうと「悪名コンビ」が奮戦する。という、いつものような「人助け」の「大暴れ」を描くのが、当初の依田義賢のプロットだったと思われる。

 しかし、それでは刺激が足りない。朝吉と清次が、悪い親分の非道に耐え抜くも、隠忍自重の挙句、ドスを握って相手を刺殺。清次は凶刃に倒れて瀕死となり、その手に握ったドスを掴んだ朝吉が死地に赴く。という典型的な「任侠映画」の展開にしてしまっている。これは会社側の要望もあったと思う。いつもの「悪名」のストーリーに、任侠映画としてのエッセンスを入れての改稿がされたのではないか。

 ポスターでも朝吉がドスを握っているヴィジュアルがメインで「死ぬなよ清次、俺が仇を討ってやる!怒り狂った朝吉が、ドスを握って仁王立ち!」とキャッチコピーが踊る。これまでのバディものから、朝吉と清次の兄弟仁義ものにシフトしている。朝吉のキャラクターはいつも通りの「お人好し」「独自のモラルを持つ男」として登場するので、大幅に変わったわけではない。

 そこで清次をめぐるドラマを、任侠映画の方へ大きくシフトしている。それでも行動パターンはいつもと同じなので、観客には違和感がない。アバンタイトルで、清次がチンピラに取り囲まれて、いつものように大暴れ。しかし、敵の持っているドスを奪ってしまい、相手を刺してしまう。ヤクザにも警察にも追われる身になったのと、ドスを握ってはならないという朝吉のポリシーにも背いたので、朝吉と決別して清次は行方を消してしまう。

 それから一年、朝吉は山陰路をあてもなく旅している。汽車で出会った気の良い女・お澄(森光子)が住み替えた旅館に厄介になることに。そこで朝吉は訳ありの女・蔦江(浜田ゆう子)と出会い、彼女が3億円の財産相続人であること、それを狙って沖縄の源八(上田吉二郎)が彼女を拉致してきたこと。蔦江が、シルクハットの親分の二代目(長門勇)の妾であることを知って、いつものようにひと肌脱ぐ。

 蔦江を源八から奪って、トラックをヒッチハイク、山陰・原坂で「運送業者」を営む二代目シルクハットの元へ行き、自分と蔦江ができてしまったので、彼女を欲しいと仁義を遠そうとする。もちろん蔦江を開放するための方便だったが・・・ なんとシルクハットの一家に清次がいて・・・というのもいつもの「清次との別れ」→「敵の組に厄介になっている清次との再会」のパターンだが、今回は少し違う。

 逃亡中の清次は、恋人・お美津(坪内ミキ子)の兄を頼って大阪から山陰に流れてきたら、お美津の兄はなんと二代目シルクハットだったという運命の皮肉。しかもお美津のお腹には清次の子がいて、清次はすっかりマイホームパパであり、二代目シルクハットの右腕になっていた。

 長門勇の二代目・シルクハットは、人当たりも良く、好人物に見えるが目の奥は笑っていないという老獪な男で、私利私欲の塊。蔦江に惚れ込んでいるが本当の狙いは三億円。だだから本作の巨悪かというとそうでもなく、源八がシルクハットにおそれをなして、シルクハットに敵対する地元の親分・お十夜(小池朝雄)に泣きついて、お十夜の一家が出張ることになる。ここで二大組織の抗争が顕在化して、帰国するおばあちゃん・お菊(本間文子)の争奪戦となる。

 充分に喜劇になりうる状況であるが、後半はどんどん「任侠映画」になっていく。坪内ミキ子演じる、お美津の「恋女房ぶり」がいじらしい。清次もすっかり良い亭主になっている。シルクハットと朝吉の板挟みになった清次は、自宅の二階に蔦江を匿って、単身・お十夜の元へ。この時点でおばあちゃんはお十夜の元に連れてこられているので、手打ちの相談に、である。清次の行動は完全に、シルクハットの組の若頭のそれである。それでも朝吉が知ると、蔦江とおばあちゃんを奪い返しに単身行動するに違いない。

 そこで清次は黙って行動するのである。今までの清次は思いつきと如才なさで、身勝手にこうした行動をしていたが、今回はシルクハットと朝吉、両者を立てるための「分別」の行動である。しかし清次の家に蔦江が匿われていることを知った、お十夜一家は、清次の家を急襲、身重のお美津を刺し殺して、蔦江を奪い去ってしまう。

悲しみに暮れる清次。朝吉はお美津の亡骸のそばにいろ行って立ち去る。シルクハットと清次は、「2人で落とし前をつけよう」とドスを飲み込んで、お十夜一家に殴り込みに。しかし清次は、お十夜たちの凶刃に倒れて絶命寸前。朝吉が助っ人に駆けつけるが、時すでに遅し。血だらけの清次が握ったドスを受け取った朝吉は、お十夜とその幹部・文殊の銀次(早川雄三)に復讐の刃を向ける。

 このドスは、シルクハットが妹の仇を討とうと義弟・清次に渡したもの。それが兄貴分の朝吉の手に渡って、お美津と清次の復讐を果たす。まあ、任侠映画ではいつものパターンだが、拳銃も脅しにしか使わず、ドスで相手を刺したことがない朝吉が、ドスでお十夜を刺すシーンは、シリーズを愛してきたファンにとっては、かなりショッキングでもある(僕だけかもしれないけど)。

これは寅さんが、ドスでマドンナを困らせている悪い奴を刺し殺してしまうのと同じで、これまでの「悪名」では「ありえない」描写でもある。シナリオが改稿されていると思われるのは、シルクハットの存在が、最初は「蔦江の身体と財産目的の強欲な親分」から「妹のために復讐を果たす」清次・朝吉の側にシフトしてしまい、シルクハット・清次・朝吉での殴り込みがクライマックスになってしまったのである。

ラスト、瀕死の清次に病院で別れを告げ、朝吉は「お務めを果たしてサッパリしてくる」と、1人で警察に向かう。それを見送るシルクハット。これも「任侠映画」的な絵柄を作るためでもある。病院の出口では蔦江が見送る。「今度こそ、つまらない男にひっかからずに、幸せを掴め」と朝吉は優しく声をかける。そして、夜の道を歩いていく朝吉のバックショット。主役の歌声が欲しいところだが、「河内音頭」ではちと違うので…  とまあ、東映任侠映画のような大団円となる。

プログラムピクチャーとしては、無駄がなく、よく出来ているし、任侠映画のカタルシスもある。だけど… 次作『悪名十八番』が、田宮二郎最後のシリーズ出演作となることもあって…







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