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『三色旗ビルディング』(1935年7月12日・P. C .L.・木村荘十二)

 モダンな都市アパート生活者の日々を描いたP.C.L.の都会派作品『純情の都』(1933年11月23日)、『すみれ娘』(1935年5月11日)のラインで作られた『三色旗ビルディング』(1935年7月12日・P. C .L.・木村荘十二)は、落語の「長屋もの」のモダン版ということで企画された「アパート映画」。徳川夢声が「三色旗ビルディング」という名前のビルのオーナーで、さまざまな住人たちが住んでいる。しかも株に手を出してしまい、悪徳詐欺師・生方賢一郎と、手下の森野鍛治哉によりビルの権利を取られてしまう。

 というわけで、この映画は「三色旗ビルディング」から一歩も外に出ず、高級アパートの中だけで物語が展開していく。MGM『グランドホテル』(1932年・エドマンド・グールディング)が公開されたのは、昭和8(1933)年10月5日だから、作り手は「グランドホテル」形式をイメージしていたことだろう。P.C. L.映画の初期、出演者は、当人の顔と役名、俳優名の静止画や動画でクレジットされるので、俳優の顔と名前が一致する。これは後世のファンにはありがたいが、当時も「はじめましての」観客には顔と名前を覚える絶好の機会だった。

 原作はサトウ・ハチロー(ハチロウと表記)。キャメラは、ハリウッド帰りのハリー三村こと三村明。脚色は、日活大将軍、日活太秦、松竹蒲田で現代劇やコメディを得意としてきた小林正。日活トーキー第一作『藤原義江のふるさと』(1930年)や、大日向傳主演『新東京行進曲』(同年)、そして夏川静江主演!『娘尖端エロ感時代 第一篇 私の命は指先よ』(同年)のシナリオを手がけている。もう一人、脚色には『エノケンの魔術師』(1934年)『すみれ娘』(1935年)など、P. C .L.のモダン・コメディを数多く手がけた永見柳(隆)二。

 ユニークなのは、ビルディングの中の住人たちの生態を、窓の外からキャメラが上下にパンをして、部屋の中にキャメラが入っていく描写。もちろんP.C.L.撮影所のセットに組まれたものなので、部屋毎に撮影しているのだが、本当に3階建に見えてくる。なので、登場人物は多彩。タイトルバックで手際良く、それぞれのキャラクターが紹介される。

 紙芝居のじいさんの呼び込みから始まる。「さあさあ、みんな、集まった集まった。お馴染みのデタラメ座のお芝居だ。外題は『三色旗ビルディング』。丁々特作の大喜劇じゃ」。ここからスタッフ・クレジット。音楽監督は池譲。演奏はP. C. L.管弦楽団。住民たちがラストに大合唱する主題歌「三色旗ビルの唄」作詞はサトウ・ハチロー作曲は池譲。主題歌のレコードならぬ、主題漫才「三ずくし」香島ラッキー・御園セブン(吉本興業専属)がポリドールレコード(四二八四番)がリリースされている。これも新しい試み。劇中の漫才を主題漫才としてレコード化しているのだ。

さて、トップタイトルで、登場人物紹介に沿って「もしも、『三色旗ビルディング』の映画プレスシートが作られたなら」という感じで、出演者プロフィールを細かく紹介していこう。

「さて、三階建の安アパート。この三色旗ビルディング。住民、二十と幾組はそんじょそこらのながしあい・・・」

仏蘭西軒の親父・徳川夢声

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「まず第一はご主人公、流線型のハゲ親父」
 三色旗ビルディングのオーナーで、フランスでコック修行をしてきた料理人の腕前を生かして、ビルを乗っ取られたあとは、一階で「フランス軒」を経営。本作ではドラマの中心、主役として徳川夢声の飄々とした味わいが楽しめる。この親父、可愛いひとり娘・モモコに財産を残してやろうと、株に手を出してしまう。その斡旋をするのが、インチキ師・小原万平(生方賢一郎)とその手下・山田(森野鍛治哉)。根拠のない石油会社のインチキ株券を三千円で売り、抵当に入った「三色旗ビルディング」の権利を巻き上げてしまう。以来、オーナーから「丸万アパート」の店子に転落。一階で「仏蘭西軒」を営むことに。


モモコ・神田千鶴子

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「一人娘のモモちゃんは、このアパートの人気者」
 P. C.L.映画第一作『音楽喜劇ほろよひ人生』(1933年)からレビューガールなど唄って踊れるアイドル的存在として活躍。今回も、男性陣からモテモテのマドンナ役を可愛く好演している。モモコは、ビルにすむほとんどの男性の憧れの的で、連日、連夜、モーションをかけられているが、眼中にあるの風船揚げのアルバイト・リョウタ(加賀晃二)だけ。


リョウタ・加賀晃二

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「その恋人で風船(アドバルーン)揚げ。末頼もしい、リョウタ君」

 松竹蒲田『チョコレートガール』(1932年・成瀬巳喜男)『大学の若旦那・日本晴れ』(1934年・清水宏)などで脇役ながらフレッシュな大学生役を演じ、P. C.L.に移籍して『サーカス五人組』(1935年・成瀬巳喜男)に出演。本作で神田千鶴子の相手役に抜擢された。「三色旗ビル」の屋上で宣伝用のアドバルーンを揚げ降しのアルバイトをしている。そのアドバルーンのクライアントは「トーキーはP .C. L.」という楽屋オチ。そのリョウタは、なんとか親父(徳川夢声)にモモコとの結婚を認めてもらいたいと、公務員に再就職するが・・・

理髪店主人・西村楽天

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「こちらは床屋の親方さん」

 「三色旗ビル」の一階で床屋を営むが、アメリカ帰りのヘンリーの愛人・マユコ(伊達里子)に唆されて「バー・ナナ」に改装して大繁盛。西村楽天は、奇術師・松旭斎天勝一座で司会を勤め、映画説明者として一世を風靡。その後、徳川夢声の「ナヤマシ会」に参加、漫談家として活躍していた。人を食ったようなキャラクターで、舞台の人気者となった。ここでは妖艶なマダムマユコに鼻の下を伸ばしてバーの親父になり、厨房で水増しウィスキーを調合。インチキに加担する。

職人平吉・三島雅夫

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「おいらはお弟子の平公さ」

 この年『乙女ごころ三人姉妹』(3月1日)あたりからP .C. L.映画に出演、東宝映画の名バイプレイヤーとして活躍していく三島雅夫は、筆者の獨協中学出身の大先輩。中学卒業後、新劇俳優となり、小山内薫の「築地小劇場」に参加。小山内薫の死後は築地新劇団に入団し、昭和9(1934)年に新協劇団の創設に参加。左翼系演劇人として舞台に立ちながらP .C. L.映画に出演していた。ここでは「理髪店」の小僧から、「バー・ナナ」のバーテンに華麗なる転職をして、主人(西村楽天)がせっせと水増しするインチキウィスキーを販売。

おカネ・清川虹子

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「掃除ババアのおカネさん」

 クライマックスのドタバタで大活躍する清川虹子は、昭和3(1928)年、川上貞奴の最後の弟子として川上児童劇団に入団。その後、山村聰主宰の劇団に参加するなど新劇で活躍していたが、昭和8(1933)年に、古川緑波、徳川夢声らが立ち上げた浅草の「笑の王国」に参加したことを機に喜劇女優となる。藤原釜足主演のコメディ『只野凡児・人生勉強』(1934年・山本嘉次郎)でP. C .L.映画初出演、以後、東宝喜劇映画には欠かせぬコメディエンヌとして活躍。

仏蘭西軒の見習いコック三吉・岸井明

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「見習いコックの三吉くん」

 明治43(1910)年東京生まれで、青山学院から日大相撲部で活躍していた40貫(150キロ!)の岸井明は、関取を嘱望されていたが、映画俳優になりたくて大学を中退して俳優学校→日活京都→「笑の王国」設立に参加。それが縁でP .C. L.映画には第二作『純情の都』(1933年)から参加。ジャズソングを歌い、軽快なタップを踏むエンタテイナーとして活躍。本作では唄わず、踊らずだが、いつもながらのホンワカしたキャラクターで楽しませてくれる。

ヘンリー・佐伯秀男

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「洋行帰りと言うけれど、何をしてるかわからない。与太者らしいヘンリー氏」

 自称アメリカ帰りの怪しげなプレイボーイ“ヘンリー”を演じた佐伯秀男は、青山学院中等部卒業後、新劇の築地座に参加、その後創作座の立ち上げに加わり、昭和9(1934)年、P .C .L.『あるぷす大将』(山本嘉次郎)で映画デビュー。P .C .L.の二枚目スターとして大々的に売り出されるが、その二枚目を逆手にとってのインチ臭いキャラを好演。晩年、50歳後半でボディビルダーとなり、シニアモデルとして活躍。80代後半まで現役俳優として活躍、遺作は『忘れられぬ人々』(2001年・篠崎誠)となった。

マユコ・伊達里子

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「その相棒のマユコ女史」

 ヘンリーをアメリカから追っかけてきた(と思われる)マユコを演じた伊達里子は、松竹蒲田で「曲線美女優」として売り出されたモガの時代を代表する女優。日本初のトーキー『マダムと女房』(1931年・松竹蒲田・五所平之助)の“マダム”を演じた。P. C. L.初出演となった前作『すみれ娘』(5月11日・山本嘉次郎)でも、アメリカ帰りのプレイボーイ・リキー宮川を追っかけてニューヨークから来た年増のモガを演じていて、今回もほぼ同じキャラクター。つまり「元祖・モガ女優」として本作の色香を担当している。

牧師・東屋三郎

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「酔っぱらい屋の牧師さん」

 ワンシーンだけだが、深夜に酩酊して帰宅した東屋三郎の牧師が、あっち転がり、こっちで倒れて、やっとの想いで階段を上がり、廊下でまたひっくり返り、という笑いがある。演じた東屋三郎は、慶應義塾大学在学中に、青山杉作と出会い、大正6(1917)年2月、新劇「踏路社」を結成。1920年代に参加した舞台協会が、日活向島と契約したことで映画に出演。築地小劇場でも活躍。つまりバリバリの新劇人。昭和2(1927)年、小山内薫が監督を務めたミナトーキー『黎明』に出演。P. C .L.には、この年『坊ちゃん』(1935年3月14日・山本嘉次郎)で初出演。『三色旗ビルディング』公開9日前の7月3日、43歳で亡くなり、これが遺作となった。

ヘレン本田・若山千代

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「唄って踊って、日を暮らす。レビューガールのお二方」

 レビューガールとして、連日、連夜、ビルの2階の部屋で、ウクレレ片手に唄って、タップを踏む。階下の理髪店では、天井が振動して大迷惑。ヘレン本田はハワイ生まれの日系ダンサーで歌手、若山千代も黎明期より活躍していた。この二人が唄う「ロンリー・レイン」は、1933年のワーナー映画『カレッヂ・コーチ』(ウィリアム・ウエルマン)でディック・パウエルが歌った主題歌“LONELY LANE”(作詞・アーヴィング・カハル 作曲・サミー・フェイン)

♪Lonely Lane
The leaves are falling
And I am recalling
Love that came
When the apple blossoms kissed the rain

♪Lonely Lane
He used to love me
And starlight above me
Love’s sweet pain
Haunts my memory in Lonely Lane

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考える男・藤原釜足

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「ヘンな顔して、何かしら、年がら年中考える」

 そして本作のキーマン・無職で新聞や雑誌の「懸賞」に応募して、夢の「懸賞生活」を目論んでいる貧しい青年・考える男。演じたのはP.C.L.第一作『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)から三枚目、喜劇俳優として活躍してきたトップスター・藤原釜足。浅草オペラに魅せられ大正9(1920)年、15歳の時に滝野川俳優養成所へ。浅草金龍館の黒木憲三に弟子入りして念願のコーラスボーイとなり、東洋音楽学校へ通ってヴァイオリンを学んだ。しかし関東大震災で浅草オペラは衰退、そこで川崎の映画館の楽士となる。その頃、昔馴染みのエノケンこと榎本健一に誘われカジノ・フォーリー、プペ・ダンサントで活躍。芸名は、この頃、サトウハチローから“秀でた家臣は鎌足”とのアドバイスで付けた。エノケンがピエル・ブリヤントを結成して脱退後は、プペ・ダンサントの主役となり、昭和8(1933)年にP.C.L.から声がかかり映画俳優となった。

保険屋谷本・小澤栄

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「妙な男も住んでいる。あるいは保険屋谷本氏」

 元活弁士の保険外交員。スケベでモモコを狙っている。小澤栄は1909年の生まれだから、この時25歳。すでに晩年の小沢栄太郎の持つ「いやらしさ」「太々しさ」がある。東京左翼劇場時代、小澤栄の芸名を名乗って活躍するが、昭和7(1932)年に治安維持法で逮捕され一年半の獄中生活を送った。出所して昭和9(1934)年に村山知義、滝沢修、細川ちか子らと「新協劇団」結成に参加。そのユニット出演で、P .C.L.映画の純専属となり『さくら音頭 涙の母』(1934年3月8日・木村荘十二)で映画デビュー。本作では、“元活動弁士”で保険んの外交員に転職、機を見るに敏な計算高い男で、三色旗ビル1階の理髪店で散髪中に、仏蘭西軒のモモコに目をつけて口説く。

書生・嵯峨善兵

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「応援団長、ヒゲ書生」

 ヒゲもじゃもじゃのバンカラ学生で、モモコ目当てに「仏蘭西軒」に通っている。長居をするためにカレーライスやカツレツなど山ほど注文、コーヒーの後に「何か腹にたまらないもの」と追加。厨房で呆れ返った親父(徳川夢声)が、それでも作るオムレツが美味しそう。嵯峨善兵も小澤栄と同じ1909年生まれで、この時25歳。昭和3(1929)年、洋画家から俳優に転身して、東京左翼劇場へ。新劇畑を転々と根っからのプロレタリアートだった。昭和7(1932)年に、日活を脱退した伊藤大輔、内田吐夢、田坂具隆らが結成した新映畫社第一作『昭和新撰組』で映画デビュー。新興キネマを経て、P .C. L.映画製作所に入社、本作に出演した。

香島セブン・御園ラッキー 吉本興業専属

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「二人でひと組、漫才師」

 昭和5(1930)年、コンビを結成。エンタツ・アチャコが巻き起こした漫才ブームの中、頭角を表して、昭和9(1934)年に吉本興業東京の専属となる。スーツを着て、スマートな都会的な漫才が受けて人気は急上昇。この映画では得意ネタ「三ずくし」をテンポ良く披露。映画での漫才は、エンタツ・アチャコの『あきれた連中』(1937年・岡田敬・伏水修)より、こちらの方が二年早かった。その後、P .C .L.では、吉本ショウの和製マルクスこと永田キング主演『かっぽれ人生』(1936年・矢倉茂雄)に出演。昭和13(1938)年には、吉本興業と朝日新聞主催の「わらわし隊」に参加。人気絶頂の昭和14(1939)年、新興キネマ園芸部から「吉本の5倍の給料を出す」の条件で引き抜かれた。

ラッキー「君が越したってびっくりしたよ」
セブン「今度、僕はアパート住まいでね」
ラッキー「おお、いつ越したんだい?」「
セブン「三月の三日の日です。三色旗ビルディングのね、三階の33号室に越しましたよ。」
ラッキー「ははぁ」
セブン「君、今度遊びにいらっしゃいよ」
ラッキー「ありがとう」
セブン「第三日曜日どうですか? 大概3時頃なら、僕、待ってます。」
ラッキー「君の話は三の連続だねえ」
セブン「どういうもんか、僕は、この3という数字が好きでね。」
ラッキー「これ、君の趣味か?」
セブン「道楽です。」
ラッキー「つまらない道楽だよ、これは。」 
セブン「つまらないとはなんですか? 世の中の良いことにはみんな3という数字がくっついてますよ。」
ラッキー「出鱈目言うなよ、そんなこと信じられんよ。」
セブン「信じられん、て。君、研究しないから信じられないんだ。自信を持って申し上げる。僕は三年も前からね、散々研究しているんだ。ま、参考のために、いっぺん聴きたまえ、君。」

とまあ、こんな調子である。

山田・森野鍛治哉

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「金に目のない山田さん」

 P.C.L.、東宝の喜劇映画で、独特のテンポと表情で、印象的な役が多い森野鍛治哉は、昭和6(1931)年12月開業したムーラン・ルージュ新宿座に26歳で参加。相棒の有馬是馬と共に活躍。発足間もないP. C. L.映画製作所に引き抜かれて、専属俳優に。昭和9(1934)年東京宝塚劇場の専属となり、古川緑波一座の舞台、バラエティショー「さくら音頭」などのステージでも活躍。本作では、インチキ師・小原万平(生方賢一郎)の手下のブローカー・山田をイヤらしく好演。親父(徳川夢声)にインチキな株への投資をエサに、三千円の借金をさせてビルを巻き上げて、新たな管理人となる。その因業ぶりが、ラストに墓穴を掘ることになるのだが、モモコ(神田千鶴子)にも懸想して、典型的喜劇の悪役を怪演。

小原万平・生方賢一郎

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「その親分の小原はん」

 本作の悪役、フィクサー役のインチキ師・小原万平を演じた生方賢一郎は、1882年の生まれ。関西大学法学部出身で、日本橋女学校の教師となるも、1916年、小山内薫の新劇場に参加。築地小劇場、前衛座、舞台協会と新劇俳優として活躍後、松竹家庭劇、曽我廼家五郎一座、そして古川緑波と徳川夢声の「笑の王国」と喜劇の世界へ。昭和8(1933)年、P .C .L.映画製作所に発足と同時に参加、演技課長として迎え入れられた。

その妾・細川ちか子

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「エロじい小原のお妾さん」

 出番は少ないが、圧倒的な存在感を見せてくれるのは、小原万平のお妾さんを演じた細川ちか子。明治38(1905)年生まれで、大正14(1925)年に、二十歳で小山内薫の築地小劇場に入り、その美しさでトップスターに。その後、昭和4(1929)年に丸山定夫らと脱退、新築地劇団結成に参加。丸山定夫とともに、昭和9(1934)年にP. C .L.映画製作所と契約、藤原釜足主演『只野凡児 人生勉強』(1934年・木村荘十二)や、成瀬巳喜男の『乙女ごころ三人姉妹』(1935年3月1日)に出演、本作に続いて成瀬巳喜男の『妻よ薔薇のやうに』(8月15日)に出演、P. C .L.時代の代表作となった。

学生・西條英一・大川平八郎

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「のらくらものの大学生」

 出番はほとんどないが、クライマックスのドタバタでその若さを発揮する大学生二人組。西條英一は、P .C. L.専属の若手俳優で『ドレミハ大学生』(1938年・矢倉茂雄)の大学生役や、『青春角力日記』(1938年・渡辺邦男)で岸井明の兄などを演じている。昭和12(1937)年3月のP・C・L映画製作所専属俳優にその名がある。大川平八郎は、1923年に渡米してパラマウント映画の俳優学校に入学、ゲイリー・クーパーとともに学ぶ。その後コロンビア大学経済学部で学び、再びハリウッドへ、ハワード・ホークスの『空中サーカス』(1928年)にスタントフライヤーとして出演、『暁の偵察』(1930年・ハワード・ホークス)、『つばさの天使』(1933年・ウイリアム・ウエルマン)などハリウッド映画で活躍。同年に帰国してP. C. L.映画製作所と専属契約『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年)で主演を果たす。以後は、P. C. L.のトップスターとして音楽映画、青春喜劇などに出演していた。戦後、昭和32(1957)年にヘンリー大川と改名、デヴィッド・リーン監督『戦場にかける橋』(1957年)では出演だけでなく、助監督も務めた。

若夫婦・宇留木浩・夏目初子

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「今、出来立ての若夫婦」

 月給を全て遊興費や女房の着物に使ってしまい、家賃を貯めている若夫婦。主人を演じた宇留木浩は、明治36(1903)年生まれで、細川ちか子の2歳年上の兄でもある。正則中学在学中に、不良仲間・江川宇礼雄と出会い、大活の映画俳優となった江川の影響で、大正10(1921)年、17歳で日活向島に入社。俳優ではなく撮影助手となり、俳優・平田延介(山本嘉次郎)と出会い親友となる。その後、マキノ・プロ製作『男児一諾』(1925年)で山本嘉次郎と共同監督として演出家となる。監督、脚本家として日活大将軍で山本嘉次郎とともに活躍していたが、撮影所長・池永浩久の命令で俳優へ転向、というキャリアの持ち主。昭和10(1935)年、山本嘉次郎に呼ばれてP.C.L.入り『坊ちゃん』(3月14日)の主演を果たし、P.C.L.のスターとして活躍。昭和11(1936)年8月、33歳の若さで急逝。

 女房役の夏目初子は、山梨県北巨摩郡生まれで、甲府高女を卒業後、宇留木浩主演『坊ちゃん』(3月14日)でマドンナを演じ、以後P. C. L.女優として『エノケンの近藤勇』(1935年10月11日・山本嘉次郎)エンタツ・アチャコの『これは失禮』(1936年8月1日・岡田敬)などに出演。昭和13(1938)年に新興キネマ東京に引き抜かれて移籍。昭和16(1941)年、森川信一座に参加、その後の消息は不明。

 
「まだまだたくさんあるけれど、動かないではお退屈」

こうして映画『三色旗ビルディング』が始まる。

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