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『騎兵隊』(1959年・ユナイト・ジョン・フォード)

 ジョン・フォード監督とジョン・ウェインのコンビによる『騎兵隊』(1959年・ユナイト・ジョン・フォード)をそれこそ四半世紀ぶりに観た。僕らの世代では、小学四年の時にN E T「日曜洋画劇場」で観たのが最初。ジョン・ウェイン(納谷悟朗)、ウイリアム・ホールデン(近藤洋介)の吹き替え版。その時は、父親と一緒に観ていたので、勧善懲悪の西部劇だと思っていたが、中学二年の夏、T B S「月曜ロードショー」で観直した時に「これは?」とかなりの違和感を感じた。この時の吹き替えは、ジョン・ウェイン(小林昭二)、ウイリアム・ホールデン(近藤洋介)だった。

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 その違和感は、南北戦争の転回点となった「ビックスバーグの包囲戦」を描いたクライマックスに対する感覚だった。ちょうど「月曜ロードショー」版を観る前の年、アメリカ建国200年で、南北戦争の歴史や、マーガレット・ミッチェルの「風と共に去りぬ」を読破したこともあり、なんとなく南部の人たちに親近感を覚えていた。ので、ジョン・ウェイン演じる北軍のジョン・マーロー大佐が、ミシシッピ州に進軍して、南部の農園の立派な屋敷にズケズケと入って、食料などを「徴発」。その家の女主人・ハンナ・ハンター(コンスタンス・タワーズ)に、作戦を盗み聞きされたため、彼女を拉致同然で同行させる。そして、何軍の補給路を絶つために、敵陣のニュートン駅を破壊、焼き討ちにする。

 もちろん北軍としては重要な作戦なのだが、当時の僕の感覚だと同じアメリカ人同士で、ここまで、民間人を巻き込んだ殺し合いをしなければならないのか? というのがショックだった。しかも、ジョン・ウェイン演じるマーロー大佐は、他の西部劇のヒーローと違って「愛すべき頑固者」というより「頭の硬い頑固者」「視野の狭い意固地な男」にしか見えなかった。今、思えば、それも映画の狙いなのだけど、もう一人の主役・ウイリアム・ホールデン演じる軍医・ケンドール少佐は、敵も味方もなく「人命重視」のリベラルな男で、ことごとくマーロー大佐とぶつかり合う。

 マーロー大佐は、若い時に苦労をして鉄道線路敷設の仕事をしてきた男。なので人一番に鉄道に愛着があるのに、重要作戦とはいえニュートン駅を破壊し、燃やして、線路を引き剥がす。さらにその線路を熱で溶かしてグニャリと曲げる。それは十代の僕にとって「蛮行」にしか思えなかった。

 というわけで14歳の少年は、猛烈に違和感を感じた。そしてビデオの時代になり、改めて見直し、レーザーディスク、DVDと繰り返し観てきた。映画そのものは変わらず、頑固で意固地、偏見の塊の無骨なジョン・ウェイン、対照的なナイス・ガイ、ウイリアム・ホールデン。そして南部女性の誇りを忘れないコンスタンス・タワーズ。三人、それぞれの「大義」というか「背負っているもの」が、よくも悪くも「アメリカ」そのもの、というジョン・フォードの狙いが理解できるようになってきた。

 先日『アラモ』(1960年)を観たこともあり、今年はジョン・ウェイン&ジョン・フォード作品を夏からずっと娯楽映画研究所シアターで観てきたので、久しぶりにDVDを引っ張り出してきて『騎兵隊』をスクリーン投影。

 この映画で描いている「ビックスバーグの包囲戦」は、南北戦争でも最大の戦闘の一つ。北軍のグラント少将率いる「テネシー軍」は、南軍のペンパードン中将の部隊を、ビックスバーグの防御線の中に追い込む。この戦いで、南郡は降伏してミシシッピ川の支配権を北軍が握ることとなる。

 こうした背景のなか、マーロー大佐は、ひたすら軍務のために、部隊の兵士を鼓舞して、進軍を続ける。捕虜となった南部女性・ハンナ・ハンターと召使いの女性・ルーキー(アリシア・ギブソン)を同行させての行軍。さまざまな危機にさらされながら、ミシシッピ川を馬で渡り、ニュートン駅破壊に向かう。途中、南軍の保安官が悪党たちを護送中に、逆に締め上げられているところを通りかかるシーンがある。北軍にとって南軍の保安官は「敵」、つまり「敵の敵」の悪党は味方、という感じで接して、悪党を安心させて、南軍の配備状況を聞き出す。しかしそれは計略で、情報を聞き出すと悪党にパンチを喰らわせ、縛り上げ、保安官に引き渡す。ここでようやく、マーローの「正義」が見えてくる。

 中盤以降、そうしたマーローの「案外、いい人」描写がチラホラとあって、このあたりの情感の出し方はジョン・フォードのうまさでもある。最初はマーローを最大の敵だと頑なな態度をしていたハンナは、次第にマーローに惹かれていく。それがピークに達するのは、いよいよ最後、ピッツバーグ川の橋を爆破して、ビックスバーグを落とすというときに、ハンナとの別れがやってくる。ここでマーローは、はにかみながら「愛の告白」をする。そこへケンドール少佐(ウイリアム・ホールデン)が現れて、続きは平和になってから、と促す。ジョン・フォード映画の「抒情」の一つである、無骨な男の「愛の告白」をここへ持ってきているのだ。マーローは葉巻の火を導火線に着火させて、馬に乗って、爆破寸前の橋を渡りきる。これでエンドマークとなる。

 叙情も、男の友情も、愛の告白も、スペクタクルも、いつものようにあるが、やはり「違和感」は拭えず。勧善懲悪ではない「西部劇」への違和感は半世紀経っても変わらないのだなぁと・・・



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