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娯楽映画研究家「ブギウギ」日記 PART3

第13週 今がいっちゃん幸せや 12月25日 - 12月28日 

今がいっちゃん幸せや #1 


櫻井剛脚本。愛助が喀血。「大丈夫です」「あかん」と医者を呼ぶスズ子。当時結核は手の施しようがない病気、滋養と安静しか手がなかった。医者に懇願して入院させるスズ子。何かをしないと、とまずはアクションをする性格は子供の頃から変わらない。

その必死さは愛ゆえ。スズ子の献身の看病は続く。でも、頑張りすぎて、疲れて愛助の膝の上で眠りこけてしまうのが愛おしい。村山興業東京支社長・坂口は関西の療養所に転院させようとするが愛助は「いやや」。

スズ子がそばにいてくれる。愛助にとっては寝ても覚めても夢の中。本当に幸せを実感している。空襲警報が出ても足手纏いになるからと愛助。「ほんならわてもここにいる」とスズ子。「僕の病気がようなったら、結婚してください」「ええよ」このあたり、本当にグッと来るねぇ。

坂口はスズ子の献身に驚き、呆れ、感心する。「あんなにひっついて。結核という病気がどういうものか知ってるんやろな」「知ってたって、離れないもん、しゃあめえ」と小夜。ここから風向きが変わってくる。ここで史実にリンクしていくのがいい。

史実では、1945(昭和20)年5月15日の東京大空襲で笠置シヅ子と父・音吉が住んでいた三軒茶屋の家が全焼。その日、シヅ子は京都花月で公演中だった。それがきっかけて音吉は香川県の引田に帰郷することになった。

やはりこの日の空襲で市ヶ谷の穎右の家も焼けてしまう。そこで住む家がなくなった二人のために、穎右の叔父で、吉本興業常務・東京支社長の林弘高のはからいで林家の隣家のフランス人宅に仮住まいをすることに。

それがシヅ子と穎右にとって、唯一同じ屋根の下で暮らした日々となる。拙著「笠置シヅ子ブギウギ伝説」(興陽館)では第三章23「戦時下のロマンス」にあたる部分。今週のタイトルが「今がいっちゃん幸せや」の通り、二人にとって大切な日々となる。

2024年1月7日(日)エノケン&笠置シヅ子&服部良一の「新春ブギウギ映画祭」が千葉市生涯学習センターで開催!1948年と1949年末に公開されたお正月映画を上映。「エノケン・笠置のブギウギ時代」と題してトークをします!是非!

今がいっちゃん幸せや #2

戦時下のロマンス篇。坂口が借りた三鷹の家で、愛助の看病をするスズ子。幸せな日々。庭で「ラッパと娘」を歌いながら布団を干す姿。よかったね。しかし快方に向かうにつれて歌手・福来スズ子のファンである愛助は、自分が独り占めしていていいのか?

愛助は坂口に相談する。村山興業を支えてきた山下達夫(近藤芳正)をマネージャーにつけて復帰させてあげたい。しかし「社長に山下さんをつけることを認めさせたら、交際を認めることになる」。で坂口は村山トミ(小雪)を説得に大阪へ。

定石なのだけど強面の坂口が正味、トミにビビっている図式がおかしい。東京では「エノケン・ロッパ」ならぬ「タナケン・ハッパ」が大人気で村山勢が押されている。これはちょっと時間のズレがある。吉本興業が東京に本格的に進出したのは昭和10年代。

東宝が舞台でロッパを囲い込み、PCLでエノケン映画を連作。「エノケン・ロッパの時代」が映画で展開され、ならばと吉本もPCLと提携、エンタツ・アチャコ、柳家金語楼映画を連作。エノケン・ロッパに脅威を感じたのは十年前の話。

この頃はどの喜劇人も時局迎合でしか仕事をすることはできなかった。一方、上海に文化工作目的で派遣された羽鳥善一は、「夜来香」の作曲家・黎錦光と、コンサートの準備をしていた。

これが1945年8月の「夜来香ラプソディ」へ結実する。服部良一と李香蘭の「夜来香幻想曲」については通販生活「オトナの歌謡曲」でコラムをアップしてます。

https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/otonakayou/023/

さて、大阪の村山興業で、坂口は社長・村山トミにビビりながらも「一つだけよろしいでしょうか?」と。スズ子にマネージャーとして山下をつけて欲しいと頼む。激昂するトミに「ホンマの気持ちを言わせてもらいます」と坂口。

ボンの看病をしてくれたのはスズ子だと本当のことを話す。これが素晴らしい。スズ子を「見上げたもんだと思います」とその献身、少し抜けたところがあるけれども、彼女の一途さに、ボンが惚れるのは無理はない。

「わしもボンと同じ思いだす。福来スズ子の力になりたい」と言い切る坂口。よくぞ言った!東京に戻って愛助とスズ子にその報告するシーンが今日のオチ。「怖かった〜」とヘナヘナになる坂口がいいねぇ。

というわけで、2024年1月7日(日)エノケン&笠置シヅ子&服部良一の「新春ブギウギ映画祭」が千葉市生涯学習センターで開催!「歌うエノケン捕物帖」(1948年)と「エノケン・笠置のお染久松」(1949年)を上映。「エノケン・笠置のブギウギ時代」と題してトークをします!是非!

今がいっちゃん幸せや   #3

 昭和20(1945)年、愛助の病状はスズ子の献身で回復。「福来スズ子とその楽団」のマネージャーを山下達夫(近藤芳正)が任されて、各地の軍需工場などへの慰問を再開。この頃、いわゆる興行はほとんど成り立たなくなっていたが、軍需工場の勤労動員の工員たち向けの慰問はあちこちで行われていた。

この頃、植木等さんが東洋大学系音楽同好会を結成して慰問先で歌っていたとご本人から伺ったことがある。スズ子も「アイレ可愛や」を久々に歌い、客席の工員たちは大喜び。

留守先の三鷹の家では坂口が愛助の面倒を見ることに。すっかりスズ子のファンとなった坂口の表情がにこやかでいい。強面はこれだから役得(笑)一方、文化工作の目的で上海で軍属となった羽鳥善一は、陸軍のトップから「日中合同演奏会」を任される。

中国人作曲家・黎錦光(浩歌)は、日本軍の上海統治がうまくいっていないことを誤魔化すための苦肉の策と「気が進まない」が、羽鳥は軍の意図など関係なく「我々の意図していることは自由であることを証明してやろう」とワクワクしている。

これは史実の通り。服部良一は上海で、敗戦間際に大々的な音楽会を企画、プロデュースしている。そこでは1942(昭和17)年に上海で出会った「ブギウギ」を取り入れた念願のナンバーを仕掛けた。こちらのコラムに書きましたhttps://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/otonakayou/023/

三鷹の家で月を眺めるスズ子と愛助。しみじみと幸せを噛み締める。翌朝、新聞には「銀座空襲」の報道。いよいよ本土空襲が本格化。スズ子は愛助が心配でならない。「もう嫌やねん。お母ちゃんが病気の時もなんもできひんまま死なせてしまって」最愛の弟・六郎も失ってしまったスズ子には愛助はかけがえのない存在。

「でもスズ子さんのおかげで乗り切れたんや」と愛助は最愛の人への感謝で応える。京都巡業へ旅立つ朝。スズ子は「わて、今までの人生の中で、今がいっちゃん幸せや」最高の表情。

巡業先の京都で、東京大空襲の知らせを受け、一井は公演中止を申し出る。スズ子は愛助が心配でならない。しかし「あかん、あかん、歌わな」お客様のためにステージに立つ。ショー・マスト・ゴーオンである。

東京の惨状は凄まじく、空襲で三鷹の家も全焼。愕然とするスズ子と小夜。ああ!というところで明日に続く。庶民と戦争はこれまでもドラマや映画で描かれてきているが、本当につらいなぁ。年内の放送は明日でおしまいか…

2024年1月7日(日)エノケン&笠置シヅ子&服部良一の「新春ブギウギ映画祭」が千葉市生涯学習センターで開催!「歌うエノケン捕物帖」(1948年)と「エノケン・笠置のお染久松」(1949年)を上映。「エノケン・笠置のブギウギ時代」と題してトークをします!是非!

今がいっちゃん幸せや   #4

戦時下のロマンス篇。東京大空襲で瓦礫の山となった東京。スズ子は愕然とするが、三鷹の家(昨日のは違ってたのね)は被災を免れて愛助は無事だった。ホッとするね。このクリフハンガー的な引っ張りこそ「君の名は」以来の伝統。今日はしみじみ。

生きてることの幸せを噛み締める二人。スズ子はもう誰も失いたくない。だから山下が高岡での公演を持ち掛けても、スズ子は断る。「高岡」と聞くと、アッと思ってしまう。史実で笠置シヅ子は敗戦の日を高岡で迎えているので。やっぱり行くんだなぁ。

「離れ離れはもういやや」配給は雑穀だけ。夜お腹が空いて寝られへん。「何食べたい?」「ぜんざい」「うどん」「それええなぁ」これも、恋人や夫婦あるあるの会話。お金がない時とか、お腹が空いている時に、誰しもこんな風なんだ。

そこへ空襲警報。防空壕で赤ちゃんが泣いている。在郷軍人のオヤジが「やかましい。黙らせるか、防空壕から出ていけ」これも実際にどこでもあった話。ドラマや映画で繰り返し描かれている。親父に毒づく小夜。愛助は「歌ったら」とスズ子を促す。

スズ子が静かに「アイレ可愛や」を歌うと、赤ちゃんが泣きやむ。そして立ち上がって歌うスズ子。歌の力で、誰もが落ちつく。拍手。いいなぁ、これぞ音楽映画的な展開。スズ子の歌が人々を励まし、勇気づける。それをドラマできちんと描く

1940年代から50年代にかけてのハリウッドの音楽映画には、こうした「歌の力」を具体的に描くシーンが多い。「#ブギウギ」がいいのは、その「音楽映画の力」があるからなのです。防空壕のなか「もっと聞きたい」「もっと歌ってもらえませんか?」

スズ子が歌う「アイレ可愛や」が沁みる。翌朝、防空壕から出ていく人々が口々にお礼を言う。赤ちゃんのお母さんに歌を教えてあげる。いいなぁ。愛助が誇らしげに「さすが福来スズ子や、みんなスズ子さんの歌で正気に戻っていく」。これが音楽の力。

愛助の「こんな時やからこそ、スズ子さんに歌って欲しい」

「福来スズ子の歌は生きる糧、生きる希望になるんやから」。この言葉に全てが凝縮されている。愛助に背中を押されて「ワテ、歌うわ」ステージに立つ決意をするスズ子。素晴らしいね。

今日は、今年最後の放送にふさわしい展開。愛助の言葉は、全てのファンの想いであり、スズ子は自分の役割、存在理由を改めて実感する。音楽伝記映画なら、ここ、クライマックス!という感じ。また来年が楽しみであります。

2024年1月7日(日)エノケン&笠置シヅ子&服部良一の「新春ブギウギ映画祭」が千葉市生涯学習センターで開催!「歌うエノケン捕物帖」(1948年)と「エノケン・笠置のお染久松」(1949年)を上映。「エノケン・笠置のブギウギ時代」と題してトークをします!是非!

今年は「笠置シヅ子ブギウギ伝説」(興陽館)を上梓してから「#ブギウギ」な日々、書き込みをしておりますが、本当にこのドラマが素晴らしいので、視聴者として夢中になっております(笑)

年末、年始の読書に、ぜひぜひ!


よろしければ、娯楽映画研究への支援、是非ともよろしくお願いします。これからも娯楽映画の素晴らしさを、皆さんにお伝えしていきたいと思います。