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『馬車物語』(1948年1月27日・新東宝・中川信夫)

 石坂洋次郎が小説新潮に連載した「石中先生行状記」全四部は、石坂自身の弘前時代の体験をもとに描いたユーモア小説。1949(昭和24)年から1954(昭和29)年かけて新潮社から刊行され、ベストセラーとなった。成瀬巳喜男監督が、藤本真澄の藤本プロダクションで『石中先生行状記』(1950年1月22日・新東宝)として映画化している。タイトルロールの石中先生を演じたのは、ラジオ「二十の扉」で人気者となった画家で医師の宮田重雄。

 石中先生は、宮田の当たり役となり、姉妹篇『戦後派お化け大会』(1951年・新東宝・佐伯清)、『石中先生行状記 青春無銭旅行』(1954年・新東宝・中川信夫)で三度演じることとなる。さらに、1966(昭和41)年には藤本プロ出身の金子正且プロデューサーによる『石中先生行状記』(1966年・東宝・丸山誠治)が作られ、宝田明が石中先生を演じた。

 さて、エノケンこと榎本健一主演『馬車物語』(1948年1月27日・新東宝・中川信夫)である。石坂洋次郎原作映画としては、これが戦後初となる。文藝春秋書載の「馬車物語」を館岡謙之助が脚色。戦前からエノケン映画の傑作『エノケンの頑張り戦術』(1939年・東宝)などを手掛けてきた中川信夫監督としては、1940(昭和15)年の『エノケンのワンワン大将』(東宝)以来のエノケン映画となる。

 この映画、C S衛星劇場で放映されたものの、なかなか観ることが叶わず、知人の好意でようやく観ることができた。驚いたのは原作「馬車物語」「石中先生行状記」の一編だったこと。この映画では、徳川夢声が石中先生を演じており、水原久美子が演じるヒロイン、モヨ子は、「草を刈る娘」のヒロインと同じ名前。芸者・ぽん太(宮川玲子)が胃痙攣で苦苦しむのは『続・何処へ』(1966年・東宝)の池内淳子のプロトタイプ…と、その後の石坂洋次郎映画のエッセンスが満載である。

まり『馬車物語』は「石中先生行状記」シリーズの第1作だった。映画は観て観ないとわからないとつくづく思った。中川信夫監督にとって『石中先生行状記 青春無銭旅行』(1954年・新東宝)は二度目の「石中先生」ものだったのである。

 東北の田舎。エノケン演じる寅市は、町と岩木村の唯一のアクセスである「乗合馬車」の馭者である。この地方で生まれ、戦前、大志を抱いて南方で仕事をするべく村を出て行ったが、敗戦の混乱で苦労を重ねて、この8月にようやく引き揚げてくることができた。

 戦後、こうした若者、人々は多かった。国策に翻弄されて大陸や南方に進出したものの、日本が敗れて大変な苦労をしてきた。しかし、そこはエノケン映画。戦後の民主主義に戸惑いながらも「新生日本」建設への意識もある(ここはG H Qの意向を反映させてのこと)

 この日の「乗合馬車」には、この地方に疎開してきた小説家・石中石次郎(徳川夢声)、満州帰りの芸者・ぽん太(宮川玲子)、そして寅市のおばで若い男女の仲人に命をかけているユミコ婆さん(飯田蝶子)たち。

 飯田蝶子のユミコ婆さんは、思い込みが激しく、せっかちで、本作のコメディ・リリーフでもある。何組もの結婚を成立させている凄腕のマッチメーカー。吉永小百合版『草を刈る娘』(1961年・日活・西河克己)の清川虹子、望月優子のプロトタイプでもある。飯田蝶子はこの時51歳。すでに年季の入った「おばあさん」ぶりを見せてくれる。

 また、途中から馬車に乗り込んでくる、「墓相」の先生・中村泰軒(清川荘司)がかなり怪しい。墓の位置、スタイルでその家の「隆盛」を観るという新手の占い師で、村の豪農の「墓相」を見るために岩木村へ。その中村泰軒は、石中先生の小学校の同級生で、30年ぶりの旧友再会となる。しかしぽん太は「どこかでお目にかかりましたね?」と怪しい中村の素性を知っているようでもある。こうして、さまざまな人物の思惑を載せて「乗合馬車」が疾走する前半、ジョン・フォードの名作『駅馬車』(1939年)を思わせるヴィジュアルやショットで構成されている。

エノケンの寅市、徳川夢声の石中先生

 さて、寅市は、唄がうまくて、昔から素人演芸大会に出場してきている猛者。今日も岩木村で開催される「演芸大会」「妻恋道中」を歌うことになっていて、大ハリキリ。乗客がウトウト寝始めると、寅市は「煌めく星座」(作詞・佐伯孝夫 作曲・佐々木俊一)を歌い始める。1940(昭和15)年3月、ビクターからリリースされた灰田勝彦のヒット曲で、昭和15年の正月映画『秀子の応援團長』(東宝・千葉泰樹)の挿入歌で、戦後リバイバルヒットしていた。

 石中先生とぽん太は、岩木村で開催される「素人芸能コンクール」の審査員として呼ばれていた。このコンクールを主催するのは、村の豪農の息子・島田正一郎(灰田勝彦)。戦後派若者らしく、村の若者たちのレクリエーションとしてコンクールを主催。さらには石中先生を招いて、村の若者たちの座談会を企画していた。戦後民主主義は農村からという、この時代の空気を感じさせてくれる。

さて、いよいよ岩木村に近づく。寅市はラッパを吹きながらイタリア民謡「村の娘 Reginella Campagnola」(訳詞・藤浦洸)を歌い出す。

(エノケン)
♪明けゆく山々を 黄金色に染め
朝日は微笑みつ 山の端を昇る

エノケンが歌っていると、牛が引く荷車に乗っている「東京レビュー団」の踊り子たちが続きを歌う。

(東京レビュー団)
♪村の娘はスミレの瞳 谷間の花を踏み分け
楽しく歩きながら

そしてエノケンが続ける。

(エノケン)
♪歌をうたえば 谷のこだまも
あの山の上こそ 楽しいところと答えるよ

牛車の馭者と寅市は顔馴染みで、荷台に乗っている女の子たちは今夜の演芸大会のために呼ばれた「東京レビュー団」の踊り子たちであることがわかる。「村の娘」は続いていく。

(エノケン)
♪タッタララララ タッタララララ…

さらに後ろから自転車に乗った若者たちが「村の娘」を歌いながら走ってくる。中には女の子を荷台に乗せた青年もいる。『青い山脈』がこうした「戦後派若者の男女交際」を自転車の二人に象徴させた最初の描写かと思っていたら、この『馬車物語』の方が早かったのか!

(自転車の若者)
♪たそがれ村里を むらさきにつつみ
夕日は微笑みつ 野末に沈む

間奏で、エノケンと若者たちが会話。「コンクールに出るのか?」「そうだっぺ」と若者たちもコンクールを楽しみにしていることがわかる。さらに、若い娘たちが歩いてくる。村はもう近くだ。エノケンの歌は続く。

(エノケン)
♪村の娘は祭りの帰り いろいろ話して聞かせる
祭りや村のはなし

(全員の大合唱)
 歌をうたえば 谷のこだまも
 あの山の上こそ 楽しいところと こたえるよ

最後は全員の歌声で大合唱となる。横移動のロングショットでワンカット。広々とした東北の風景(本当は神奈川県秦野?)のロケーションが効果的で、雄大なローカリズム溢れる名シーンである。なおこの「村の娘」は、戦後民主主義のテーマソング的な役割を果たして、若者たちのサークルや職場のコーラスでも歌われ、昭和30年代の「うたごえ運動」でも坂に歌われることとなる。

こうして乗合馬車は岩木村に到着。「演芸大会」の主催者である島田正一郎は、石中先生とぽん太を迎え出る。ユミコ婆さんは、明日、町へ嫁に行く富山モヨ子(水原久美子)の家へ、祝いの宴会の手伝いのために富山家へ。寅市も婆さんに頼まれて手伝いに行くが、面白くない。実は寅市とモヨ子は幼馴染で相思相愛の仲、しかし寅市が南方に行ってから疎遠となり、引き揚げてきてからの寅市は「おらの顔を見るとき、いつも怖い顔をしている」と、モヨ子。彼女はそこで寅市を諦めて、両親を喜ばせようと嫁入りを決意。しかし、寅市は美しい娘となったモヨ子が眩しくて、憧れの眼差しでみていただけなのだが…

「恋愛」か「見合い」か。戦後若者たちの悩みであり、石坂文学のテーマがここで描かれている。恋愛をしていて相思相愛でも家のために、親の決めた縁談に従う。それでいいのか? その旧弊を打ち破る「若者たちの自由な恋」を礼賛、奨励し、古い大人たちの考えを破っていくのが「石坂洋次郎映画」が果たした役割でもある。

 寅市とモヨ子にとって最後の夜、二人は屋敷を抜け出して、楽しみにしていた「演芸コンクール」へと向かう。二人ともエントリーをしていたのだ。この「演芸コンクール」は、のちに『草を刈る娘』(1961年・日活)でリフレインされ、吉永小百合が実質的なデビュー曲「草を刈る娘」(作詞・佐伯孝夫 作曲・吉田正)を歌う。

さて、演芸大会では、トップバッターとして村の青年・山田源吉(田中春男)が、岡晴夫が1947(昭和22)年に歌って大ヒットした「啼くな小鳩よ」(作詞・高橋掬太郎 作曲・飯田三郎)を歌うも、緊張してしまいメタメタになる、という笑い。

東京レビュー団のストリップ、スレスレのダンスに喜ぶ観客たち。これも『石中先生行状記』第2話「仲たがいの巻」(1950年・成瀬巳喜男)で、親父たちが「東京のレビュー」と称してストリップに鼻の下を伸ばすシークエンスを思い出す。

楽屋では、誰もが緊張して、準備に余念がなく次の出場者がなかなか出てこない。そこで主催者・島田正一郎青年が、ギター片手につなぎで歌うことになる。ここは灰田勝彦の見せ場でもある。この頃、再プレスされてリバイバルヒットをしていた極付きの「煌めく星座」を歌う。音楽映画としてもこのシーンはなかなかいい。特に歌い終わりの灰田勝彦の歌唱が素晴らしい。演奏は灰田勝彦が戦前から率いてきたハワイアンバンド・ニューモアナ。

やがてモヨ子がいよいよ登場。彼女が歌うは、1947(昭和22)年、平野愛子が歌って戦後を象徴するヒット曲となった「港が見える丘」(作詞・作曲:東辰三)。モヨ子を演じた水原久美子は、秋吉馨の漫画「ますらを派出夫会」の映画化『浮世も天国』(1947年・新東宝・斎藤寅次郎)などに出演。新東宝で活躍した女優。歌もなかなかうまく、ふくよかな丸顔は戦後らしい健康的美人である。

モヨ子を応援すべく、すでに「妻恋道中」の衣装を着て、ばっちりメイクを済ませた寅市、興奮のあまりにステージに出てきてしまう。客席からヤジが飛び交い、それを収めようと寅市は、客席へ。ひと騒動となるも、モヨ子は無事歌いおえて入賞。商品の目覚まし時計を手に入れる。

さて、続いて、寅市の出番。1937(昭和12)年の上原敏のヒット曲「妻恋道中」(作詞・藤田まさと 作曲・阿部武雄)を歌おうとするも、突然の停電。舞台は真っ暗となる。戦後まもなくは電気事情が悪くて、しょっちゅう停電をしていた。南部正太郎の漫画「ヤネウラ3ちゃん」などでも停電ネタは定番だった。

「妻恋道中」を歌おうとするが・・・

無事電気がついて、寅市は気を取り直して歌い出すも、今度は審査員席のぽん太の胃痙攣が始まって、大騒ぎ。結局、寅市は歌わずに幕となる。

演芸大会の後は、石中先生がオブザーバーとなって、村の青年たちの民主主義的座談会となる。見合い結婚を強いる親たちに反発して、自由恋愛に憧れる若者たち。自由な意見が交わされるが、寅市は「民主主義はオラの前を素通りしていく」と自分の恋愛がうまくいかないことを嘆く。

その帰り道、寅市とモヨ子が夜道を睦まじく歩く。まさに恋愛をしている男女である。しかしこの楽しい時は長くは続かない。エノケン映画では、これまでこうした細やかな感情はあまり描かれてなかったので、なかなか新鮮ならぶシーンである。

翌朝、いよいよ、モヨ子の嫁入りの当日。町まで花嫁とその家族を乗せていくのは寅市の「乗合馬車」。自分の気持ちの整理がつかない寅市は、複雑な想いで、馬車を走らせる。しばらく行ったところで、婿サイドの仲人がやってきて馬車を止める。聞けば、前夜の宴会で出た「メチルアルコール」を飲んで、モヨ子の結婚相手は死んでしまった。さあ、どうしよう。仕方ない、このまま岩木村に戻るか? しかし、そんなみっともないことはできないとユミコ婆さんは頑なである。ではどうするか? ユミ子の両親、先方の親戚と侃侃諤諤となる。これもまた旧世代の「民主的話し合い」である。

その間、寅市とモヨ子は馬車に二人きり。馭者台の寅市は、モヨ子への思いを込めて歌い出す。鈴木静一がこの映画のために書き下ろした主題歌「馬車物語」である。エノケンの歌に乗せて、幼き日の寅市とモヨ子の姿がオーバーラップでインサートされる。

寅市の切ない心情

(エノケン)
♪スミレつばなも濡らしゆく
 川に沿う道 馬車屋のおいら
 えくぼこぼれる 花嫁のせて
 何が寂しい ラッパよ響け
 春は風さえ 情け知る

その歌声を聞きながら、娘が不憫で泣き崩れる、モヨ子の母・イネ(清川玉枝)。言葉も出ないユミ子婆さん。

(水原久美子)
♪花も寄り添う森陰よ
 馬車に揺られて お嫁に行けば
 小鳥来て啼く 泉が恋しい
 乳房抱えた少女の夢を
 歌えウグイス いつまでも

モヨ子を演じた水原久美子

モヨ子の返歌も切ない。このモヨ子が歌う2番のシーンで、寅市のなかからもう一人の自分が抜け出して、馬車の上に乗ってジャンプするように踊る。いわゆる「アルターエゴ」の描写が新鮮。この二人の歌を聞いていた、ユミコ婆さんが「寅市とモヨ子を結婚させよう」そうすれば万事丸く収まると、突拍子もない提案をする。

「寅市だってなかなかええ若えものだ。料理は上手だし、舅婆ァはいねぇし、少しヘンテコなツラだども、モヨ子はかえって幸せになるべえよ」

と、モヨ子の母・イネと父・庫吉(大倉文雄)を説得してしまう。二人のデュエットの間に話がまとまってしまう。さすがマッチメーカー! この時間配分、中川信夫の演出も素晴らしい。

と、このクライマックスまで見てきたときに既視感があった。ああ、そうか、1966(昭和41)年の宝田明版『石中先生行状記』(丸山誠治)の、田所英次(黒沢年男)の「乗合馬車」の馭者と、幼馴染の島田マリ子(中山千夏)のエピソードは、この「馬車物語」だったのか!と。中山千夏の結婚相手は、婚礼の当日に駆け落ちしていなくなってしまう。黒沢年男と中山千夏は、昔からお互い気づかないほど相手を思っていた。ならばとマッチングさせてのハッピーエンドだった。ということは1966年版『石中先生行状記』は『馬車物語』のリメイクだったのだと、改めて気づいた次第。

中山千夏、黒沢年男

戦後民主主義礼賛、啓蒙の石坂洋次郎映画は『青い山脈』(1949年・東宝・今井正)からではなく、その前年のエノケン映画『馬車物語』からだった。しかも初代石中先生は徳川夢声だった。これで、僕の娯楽映画史の認識が少し塗り替えられた。やはり映画は観てみないことにはわからない、のである。

下村健さんの労作「新東宝データベース1947−1962」の『馬車物語』リンク


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