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『喜劇駅前競馬』(1966年・佐伯幸三)

 「駅前シリーズ」第17作!

 昭和41(1966)年10月29日。映画界が名付けた秋の「シルバーウィーク」作品として、クレージー映画のスタッフが結集した『クレージー大作戦』(古澤憲吾)と二本立てで公開された「駅前シリーズ」第17作。

 前作『喜劇駅前番頭』のシナリオ執筆中に急逝した長瀬喜伴に変わって、シリーズに参加したのは、昭和40(1965)年から読売テレビ「11PM」の司会でマスコミの寵児となっていた藤本義一。藤本は大阪府立大学在学中からラジオドラマ、戯曲などを執筆。ラジオドラマ「つばくろの歌」(1957年)で芸術祭文部大臣賞戯曲部門を受賞(次席は井上ひさし)。それをきっかけに、宝塚映画、大映でシナリオ修業。衣笠貞之助や市川崑のサポート。そして川島雄三に師事、『暖簾』(1958年・宝塚映画)のシナリオの手伝いをして、『貸間あり』(1959年・東京映画)では共作者としてクレジットされた。川島が関西で映画作りをするときに、若き藤本が名伯楽となっていた。

 藤本は、宝塚映画『爆笑嬢はん日記』(1960年)や『河内風土記 おいろけ繁盛記』(1963年)などの大阪もののシナリオを数多く手がけ、なかでも菊田一夫原作、司葉子主演『丼池』(1963年・久松静児)は傑作となった。大映でも増村保造『現代インチキ物語』二部作(1964年)や田宮二郎の「犬シリーズ」を手がけていた。

さて、長瀬を失った「駅前シリーズ」にとって、テレビ・キャスターで売れっ子放送作家でもある藤本の起用は、カンフル剤となる。藤本に声を掛けたのは、東京映画で川島雄三作品をプロデュースしていた佐藤一郎プロデューサーだった。

 余談だが「駅前シリーズ」の好調で、昭和38(1963)年、東京映画では「駅前」に並行して「職人シリーズ」を立ち上げている。その第一作が川島雄三の『喜劇とんかつ一代』だった。伴淳三郎以外の駅前チームによる上野のとんかつ屋を舞台にした狂騒曲は、楽しいものだったが、残念ながら、川島の急逝で「職人シリーズ」は頓挫。幻のシリーズとなった。
 そういう意味でも川島雄三の「映画遺伝子」を受け継ぐ、風俗作家であり、現代にも明るい藤本義一の起用は、人気シリーズの延命にはプラスとなる。

 関西弁ネイティブの藤本にとっては、東京の笑いである「駅前チーム」との仕事は勝手が違ったかもしれないが、この年『喜劇駅前弁天』(1966年)でシリーズ初参加した藤田まことと野川由美子の「関西勢」が、「駅前チーム」かき回す風俗喜劇としての構成が楽しい。森繁も伴淳もイキイキしていて、良い意味で「駅前の味」である「金と色と欲」がギラギラして、エネルギッシュな作品となった。そういう意味では川島雄三の味わいに近いものがある。

 昭和41年は、空前の競馬ブームが到来。『続社長行状記』(松林宗恵)でも、森繁社長が馬のオーナーで大儲けするシーンから始まった。今回の駅前は、京王競馬場線「府中競馬正門前」駅。ホルモン料理店「艸々亭」を営む森田徳之助(森繁久彌)と景子(淡島千景)、競馬の予想紙を発行する坂井次郎(フランキー堺)と由美(大空真弓)、そして銭湯オーナーの松木三平(三木のり平)と駒江(乙羽信子)は、いずれも子供がいない。亭主は競馬に夢中で、女房への夜のサービスは怠りがち。そこで女房たちは「子作り競争」をしようと提案。男たちは競馬馬のようにハッスルを余儀なくされる。

 そんなある日、やたらと調子の良い男・伴野馬太郎(藤田まこと)が、彼の故郷岩手にいる義経号の共同馬主にならないかと、持ちかけて、まんまと三人が乗ってしまう。さらに染子(池内淳子)の情夫・山本久造(山茶花究)まで馬太郎に騙されて馬主となる。

 しかし肝心の義経号は、実は馬太郎の父・伴野孫作(伴淳)が天塩にかけて育てている農耕馬。馬太郎の恋人・鹿子(野川由美子)が、色仕掛けで孫作を惑わして、馬太郎を東京へ連れてきてしまう。

 農耕馬を競売で、競走馬として売り出し、それを徳之助たちに買わせてボロ儲けを目論む馬太郎と鹿子のコンビ。相当悪い連中なのだが、藤田まことと野川由美子がシレッとしていて、まるでクレージー映画の植木等のようで、なんとなく受け入れてしまう。

 風呂屋の三平は元ジョッキーなので、この駄馬を乗りこなそうとするが、いうことをきかない。愛馬・義経号を失って、茫然自失の孫作が上京、府中競馬馬前までやってきて、義経を探し当てる。義経は、競走馬ヨシツネヒカリとして、徳之助・三平・次郎たちが体質改善のためにあの手この手の奮闘努力。しかし、孫作のいうことしか聞かないヨシツネヒカリに、困り果てた徳之助たちは、トランシーバーをつけて、遠隔操作をしようと目論む。

 子作りレースと競馬レース。二つのレースに、様々な欲望の狂騒曲がてんこ盛りで、クライマックスに向かっていく。藤本は、おそらくマルクス兄弟の『マルクス一番乗り』(1937年)をイメージしたのだろう。後半の狂騒曲は、これまでの「駅前シリーズ」にはない、スピーディでスリリングな展開となる。

 競馬ブームを反映して、三遊亭小金馬がスタンドの客としてカメオ出演。競馬中継のアナウンサーには東京12チャンネル「土曜競馬中継」の島碩弥アナウンサー、解説には元ジョッキーで競馬解説者で人気だった渡辺正人、そして「11PM」で藤本義一のアシスタントをつとめていた安藤孝子が出演。こうした時事ネタ、人気者のゲスト出演も「駅前シリーズ」ならではのこと。

 また『喜劇駅前団地』(1961年)に続いて、巡査役で千葉信男が出演しているが、千葉はこの年8月に急逝、これが遺作となった。千葉は敗戦直後、三木鶏郎のトリロー・グループに参加、NHK「日曜娯楽版」の「冗談音楽」に三木のり平ともども出演。ラジオの民間放送開局とともに、フリーのタレントとして映画や舞台で人気となる。その巨体を活かしたユーモラスな芸風は、戦前の岸井明に変わって、映画やテレビで巨漢タレントとして重用される。エノケン映画のリメイク、三木のり平の『孫悟空』(1959年)では猪八戒を演じている。

 さて、藤本義一は、次作『喜劇駅前満貫』(1967年・佐伯幸三)でもシナリオを手がけ、作家となるのは昭和43(1968)年に発表した長編第1作「残酷な童話」からとなる。


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