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吉永小百合―輝き続ける「永遠のヒロイン」


文・佐藤利明(娯楽映画研究家)

キラキラとしたヒロインの誕生

 吉永小百合。日本映画における「永遠のヒロイン」という言葉が彼女にはふさわしい。一九六〇年代、日活で浜田光夫とのコンビで、次々と主演した青春映画で吉永小百合が演じ続けたのは、どんな境遇にいてもポジティブに生きる「現代的女性」である。十代の高校生が、自分の意見を述べ、生きるための自己主張を続ける。
 吉永小百合は、一九四五(昭和20)年三月一三日、東京都渋谷区代々木西原町に生まれている。小学六年生の一九五六(昭和31)年、ラジオ東京(現・TBS)の連続放送劇「赤銅鈴之助」のオーディションに合格。主人公の師匠である千葉周作の娘・さゆりを演じ、少年少女ファンの圧倒的支持を受ける。そして、一九五九(昭和34)年、松竹の『朝を呼ぶ口笛』(生駒千里)で映画デビュー。
 一九六〇(昭和35)年四月には日活と専属契約。この年、日活は石原裕次郎、小林旭、赤木圭一郎、和田浩治による「日活ダイヤモンドライン」を結成。ヒーローの相手役や、活劇に色を添える若手女優として、吉永を迎えたのである。入社第一作は赤木圭一郎の『拳銃無頼帖 電光石火の男』(1960年・野口博志)。杉山俊夫のガールフレンドという軽い役だが、なんとキスシーンまである!
 さらに同年一一月に『ガラスの中の少女』(若杉光夫)のヒロインに抜擢。ここで共演したのが、やはり子役出身の浜田光曠。のちの浜田光夫である。家庭的に恵まれず町工場で働く浜田と、高校生の小百合の純愛は、やがて心中という悲しい結末を迎える。モノクロの小品ながら、二人のキラキラとした個性は、やがて日活青春路線のメインストリームとなっていく。

観客も小百合も、等身大で臨んだ青春映画

 一九六一(昭和36)年の『太陽は狂ってる』(舛田利雄)は、浜田光夫演じる高校生が、後戻りが出来ないところまで転落していく、という衝撃的な青春映画。小百合は、浜田たちにコールガールとして売り飛ばされそうになる高校生。その無垢な美しさに、浜田はそれを思いとどまるが、運命の皮肉で浜田は小百合の父親・芦田伸介を刺してしまい、追われることとなる。そんな浜田が潜伏する木賃宿に差し入れする小百合。粗末なベッドに横たわりながら、来るはずもない将来について語り合う場面の切なさと美しさは圧巻だ。
 出番はわずかながら、『太陽は狂ってる』の小百合は、日活アクションにおいて、清純ヒロインが機能した瞬間であり、このチンピラと無垢なヒロインの関係は、後に中平康監督の『泥だらけの純情』(1963年)でリフレインされることとなる。
 浜田との青春コンビは『草を刈る娘』(1961年・西河克己)、『さようならの季節』(1962年)、そして代表作『キューポラのある街』(1962年・浦山桐郎)へと続く。『キューポラのある街』で小百合が演じたのは、貧しくとも真っ直ぐに生きる中学生ジュン。公開時一七歳だった彼女は、史上最年少でブルーリボン賞主演女優賞を受賞。彼女の庶民的なイメージは、本作を中心に醸成され、それはやがて「国民的女優」のイメージへと発展していく。
 日活もこの作品の成功で浜田とのコンビを強化。デビュー曲「寒い朝」が初登場した『赤い蕾と白い花』(1962年・西河克己)は、小百合の母・高峰三枝子と、浜田の父・金子信雄を結びつける無邪気な高校生の二人を描く明朗篇。ところが、小百合は母と浜田の父の二人に性の匂いを感じると、急にショックを覚えてしまう。肉体と精神の成長の間で揺れ動く女の子の繊細な心が描かれている。
 日活青春映画には、こうした大人と少女の間の微妙な心理を描く現代劇と、『伊豆の踊り子』(1963年・西河克己)、や『潮騒』(1964年・森永健次郎)などの文芸作がある。しかし、どんな作品でもヒロインは等身大の吉永小百合なのである。

吉永小百合に感情移入した時代

 一九六二(昭和37)年には「いつでも夢を」で第四回日本レコード大賞を受賞、歌手としても作曲家・吉田正門下として活躍している。そんななか、一九六四(昭和39)年、石坂洋次郎原作『風と樹と空と』(松尾昭典)で小百合が演じたのは、東北の高校を卒業して、集団就職で上京してきたお手伝いさん役。何事にも前向きなヒロインぶりが好もしい。女子高生から社会人へ、映画の小百合も少しずつ成長を遂げてゆく。
 一九六五(昭和40)年に早稲田大学に入学し、勉学と仕事を両立させる姿はスクリーンでの好印象をさらに拡げていった。
 その頃の映画では、『大空に乾杯』(1966年・斎藤武市)の客室乗務員など、若くて溌剌とした社会人一年生を演じていくことになる。また『愛と死をみつめて』(64年斎藤武市)や『愛と死の記録』(1966年・蔵原惟繕)などの「難病もの」で演じた悲劇のヒロインは、多くの観客の涙を誘った。
小学生でラジオに出演し、中学、高校生役を演じてきた小百合は、まさに観客にとって、親しみを感じる「隣の女の子」という存在。その成長を見守る親戚のような感覚が、彼女を支持する側にあったと思われる。
 そして一九六七(昭和42)年に吉永小百合事務所を設立、その意欲的な活動で、小百合は単なるお嬢さん女優のイメージではないものとなった。やがて吉永小百合の日活時代は、一九六九(昭和44)年のオールスター映画『嵐の勇者たち』(舛田利雄)でひと区切りを迎える。

男が求める女性像のあこがれとして

 そんな吉永小百合にとって、大きな転機となったのが、山田洋次監督の『男はつらいよ 柴又慕情』(1972年)への出演である。日活で培われたイメージの延長にあるマドンナ歌子が、婚期を迎え「本当の幸せとは何か?」を求めるという展開は、日活ヒロインのその後のようでもある。父親・宮口精二とのコミュニケーション不全を、寅次郎(渥美清)らが潤滑油となって解消し、歌子は結婚する。しかし不思議なことに歌子の恋人は、ほとんど画面に登場しない。少女からその成長を見守り続けてきたファンにとって「吉永小百合の結婚相手」など誰も観たくなかったかのような印象さえ受ける。
 この頃から「サユリスト」という言葉がマスコミを賑わし、彼女の純潔は不可侵であるというような雰囲気があった。そして吉永小百合の映画スターとしての「神格化」が始まる。
 だが、一九七三(昭和48)年、一五歳年上のフジテレビ・ディレクター岡田太郎氏との結婚はマスコミを賑わし、「サユリスト」たちの落胆ぶりが報道された。
 結婚一年後の一九七四(昭和49)年、『男はつらいよ 寅次郎恋やつれ』(山田洋次)で、二度目のマドンナ出演となった。前作で親の反対を押し切って結婚したものの、ほどなく夫は病没。寅さんが人生の再出発を応援すべく奮闘するという展開は、まるで現実の吉永小百合の結婚を否定したいファンの願いを反映したともとれる。
 時は移り、かつてのような勢いを失って行く映画界であったが、彼女は意欲的に映画に出演。浦山桐郎との『青春の門』(75年東宝)、木下恵介との『衝動殺人・息子よ』(1979年・松竹)、森谷司郎との『動乱』(1980年東映)といった巨匠とのコラボを次々と実現。さらにNHKドラマ「夢千代日記」(1981年)「続・夢千代日記」(1982年)の出演がきっかけとなり、原爆詩の朗読など、平和運動に対しても意欲的な活動を続けている。
 『細雪』(1983年・東宝)からの市川崑監督とのコンビ作も、ベテラン田中絹代の老醜という生々しいテーマを演じた『映画女優』(1987年・東宝)へと続き、1980年代から、二十一世紀を迎える現代まで、常に銀幕のヒロインとして輝き続けている。
 山田洋次監督の『母べえ』 (2008年)では、戦時中の「日本の母」を演じた。驚くべきことは一九六〇年代に初主演して以来、吉永小百合は脇に回ることなく、ヒロインとして存在していることである。自身で作品の題材を吟味し、納得いくものに出演していく姿勢、その存在感はまさにONE AND ONLYと言えるだろう。

2008年「団塊パンチ」で発表した原稿に加筆しました。



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