鴨下信一さん インタビュー・第5回「植木等さん、久世光彦さん、大瀧詠一さん・・・」
聞き手・構成:佐藤利明(娯楽映画研究家)
このインタビューは2010年秋に上梓した「植木等ショー!クレージーTV大全」(洋泉社)のためにパブリシティで「映画秘宝」に掲載したものです。今回、追悼の意味もこめて、ここにアップさせて頂きます。鴨下信一さん、本当にありがとうございました。ご冥福をお祈りいたします。
ー「植木等ショー」(TBS・67〜68年)で、ドキュメンタリー的バラエティや、スタジオを演芸場にしてしまうようなヴォードビルに挑戦された鴨下さんですが、僕にとって印象的なのが1970(昭和45)年の「日曜8時 笑っていただきます」(TBS・70年10月〜71年9月)です。久世さんの「時間ですよ」も良かったですけど、僕はこっちでした(笑)。
鴨下 あははは。マチャアキ(堺正章)だね。「日曜8時 笑っていただきます」って云うのは、非常に不思議な番組で、なんであんなのをやってたのか(笑)。ドラマとバラエティの中間というか、なんでもアリで賑やかな現場でした。
—タイトルバックが「鳥獣戯画」で・・・
鴨下 ディレクターが久世光彦だったんです。脚本を向田邦子(と才賀明)でした。個性的な人がいっぱい出てます。マチャアキにチータ(水前寺清子)、和田アキ子、それに五十嵐じゅんも出てたね。「植木等ショー」ではバラエティにドキュメンタリー要素を入れたりしたけど、これはドラマなのかバラエティなのか、自分でもよくわからない、カテゴリーがないんですよ。裏が、NHKの大河ドラマで、なんでこの人が出ているのか判らないって人が出てます。劇団四季の日下武史とか。
—「時間ですよ」よりもハジけていて、観ている間じゅう楽しかったっていう印象があります。あのドラマは結構、エスカレートしていました(笑)
鴨下 エスカレートし過ぎていたんですよね。打合せでトニー谷の『家庭の事情 さィざんすの巻』(東宝・54年)の、家の中を電車が通るっていう話をすると、それをすぐやってしまう(笑)。畳の下から地下鉄が出てくる(笑)。「もうやめろよ。金ばっかりかかるから」って言われても、あれは楽しかったですね。グループサウンズの時代が終わって、堺が次のステップで難儀している頃でした。そうそうショーケン(萩原健一)が初めてセリフらしいセリフを喋ったドラマだからね。彼らがお茶の間で認められるようになったのが、このあたりから。
—ニュースのコーナーがありましたね。
鴨下 日曜日って、夕刊がないから、番組のなかでニュースをやろうということで、報道部を大モメにモメながら、久米(宏)に読ませたんです。しかも横に飯田蝶子さんをアシスタントに置いてね。久米はアナウンサーだったけど、報道局のなかで、出演タレントにニュースを読ませるなんて、当時は大騒ぎ。TBSのなかでも四面楚歌で、放映している間中、怒られました(笑)。
—もともとの企画は?
鴨下 今だから言えるけど、あの頃、社内で企画の懸賞募集があったんです。日曜夜8時は、NHKの大河ドラマがあるから、民放にとっては魔の時間。その枠はめるっていうので。で、企画を出したことは出したけど、絶対ゴールデンにはまりっこない(笑)。どういう企画かっていうと“日航ハイジャック(よど号事件70年3月)”の再現ドラマ。ハイジャックされた機内を再現するという企画なの。当時としては斬新で、絶対、できっこないじゃない、そんなの。しかもあの枠、連綿として(スポンサーに)日本航空がついてる。「やる?」って言われたけど、その企画じゃできないしね。じゃあ別なものをって、「日曜8時 笑っていただきます」っていう、いい加減なものになってしまいました(笑)。
—しかもTBSでは日航全面協力の「アテンションプリーズ」(70年8月23日〜71年3月28日)をオンエアしていた時期ですよね(笑)。
鴨下 できっこない(笑)。そのあと社長に呼ばれて怒られました。「君は詐欺だ!」って。「僕は社会派の番組を日曜8時にやってくれると思ったから一等にしたのに、何だあれは!」って(笑)。だけどスポンサーのこと考えてたら、出来ないしね。そんなことが平気だったんだね。
ーさて、クレージー映画のアンソロジー「クレージーキャッツ・デラックス」(1986年・東宝ビデオ)の構成者・牧野敦さんは、鴨下さんの別名でもあります。なぜ、クレージー映画、しかもアンソロジーだったのですか?
鴨下 今みたいに、映画のダイジェストを気軽に作ったり、情報を蓄積してデータベースを作って、再利用しようなんて、まったく出来なかった時代でした。でも植木さんの映画なら、ある程度僕は観ていたから、引き受けたんです。その前(1982年)に、東宝50周年のとき、月曜ロードショー(TBS)で「エノケンからたのきんまで〜東宝映画の50年〜」というアンソロジーを作ったことがありまして、もともとアンソロジーとかダイジェストが好きだったんです。
—「エノケンからたのきんまで」は、僕ら東宝映画ファンは驚喜した企画です。なんたってゴジラや、クレージー映画、黒澤明作品で綴る「ザッツ・エンタテインメント」でしたから。
鴨下 6分間のダイジェスト版『ゴジラ』(54年)を作ったり、「社長シリーズ」の宴会芸や、加山雄三の「若大将」とか、いろんな場面を集めてね。映画を作った人には申し訳ないんだけど、ダイジェストを作るのが好きなんです。あの時も黒澤プロの松江陽一さんから電話かかってきて「お願いだから、シーンのを編集するのはナシだよ」って、ダメ出しされたんですけどね(笑)。松江さん、僕の学校の先輩だったんです。だから「どのシーンを使っても良い」と云ってくれたんですけど、「その代り、『七人の侍』(54年)の中で、カットなんか入れ変えたらダメだよ。怒るよ、黒澤さんが」って。で、『七人の侍』のダイジェストを作っちゃった(笑)。
—当時は版権とか、編集権とか、問題にならなかったんですか?
鴨下 まだウルサくなかったです。僕がダイジェストを好きなのは、やっぱり戦後に小説のダイジェストやアンソロジーが流行したからなんです。英語のポケットブックは、長いものは、端折ってしまうんです。例えば、サマセット・モームは“英語でも優しい”というんで、英語版「人間の絆」を読んだんです。これも簡約版でした。その後、全編完訳版が出て、これがつまらない(笑)。ダラダラしちゃって、あのサマセット・モームですらダメなの。それがよくわかってね。
— 印象ですよね。『七人の侍』ダイジェストも、鴨下さんの印象の巧みな再現なんですね。
鴨下 要約をするのが上手い人って、作家でもいるじゃないですか。石川淳は大作家だけど、要約が上手いんです。「夷齋俚言」(52年)で「要諦は、書物を縮めて書くことである」って書いていんだけど、なるほどなぁと思いました(笑)。それに映画は、僕らの世代では一期一会、初めて観た時の印象がすべて。しかも情熱がありますから、『七人の侍』って通路でしゃがんで観たんだよな〜」って、そういう体験が伴っているんで、強烈な印象が残っているんです。だからディティールって覚えているんですよ。「エノケンからたのきんまで」でもトニー谷の『家庭の事情』(54年)が入っていたでしょう? 僕が威張れるのは、このトニー谷のギャグをちゃんと入れることができたこと(笑)。
— 黒澤映画と並列なのがイイですね(笑)。『家庭の事情』で、トニー谷さんの家が線路に分断されていて、奥さんと寝ようというときに、阪急電車が通過して、家が揺れて(笑)。
鴨下 そうそう。どうして覚えていたのかね。あの時、全巻焼いてくれ、と云ったら(東宝が)ダメだって。予算がないから、どこにあったが云えば、そこだけ焼くからって(笑)。今なら『家庭の事情』の二作目(『さィざんすの巻』)ってすぐ調べられるけど、その時は、最初に観た時の印象だけ。「後ろから5分の4かなぁ〜」って、最終巻だけ焼いてもらったら、ドンピシャリ。非常に感動的でしたね(笑)。
— 「エノケンからたのきんまで〜東宝映画の50年〜」で、アンソロジストの本領を発揮された鴨下さんが、クレイジー・キャッツ30周年で、ビデオ・アンソロジーを作ることになったのは、監修の大瀧詠一さんの?
鴨下 大瀧さんと小林信彦さんとは、赤坂でメシを食ったんです。打合せはそれだけ(笑)。でも、おそらくは「植木等ショー」を一緒にやった小林信彦さんが大瀧さんに推薦してくれたんでしょうね。でも、構成打合せなんてもんじゃなくて。メシ食って、話して、おしまい(笑)。で、植木さんの映画は大体観ていたんですけど、やっぱり細かいところを観たいからと言ったら、ビデオを用意してくれた。でも東宝の試写室で上映したものを、ホームビデオで写しただけ(笑)。画質は悪いし、ピンはボケてる。それを「さぁ、観てください」って云ってもね。それを観た時に、クレージーの映画はやっぱり歌が楽しいって。
— とにかく植木さんの歌唱シーンがふんだんにあって。驚いたのは、冒頭の『ニッポン無責任時代』『ニッポン無責任野郎』(62年)のダイジェストです。二本の映画を解体して、違う映画の主人公を一本化してしまった。
鴨下 ごちゃ混ぜにして、『無責任時代』の平均(たいらひとし)と『無責任野郎』の源等(みなもとひとし)を一緒にして、「最後に社長にしちゃわないと話はオチないよ」と言ってね。今だったら、著作権が問題になるだろうと思うんですけど。好きなことが出来ました。
— オフライン編集もなく、ワークシートも作らずに、現場だけで編集したと聞いて、当時、本当に驚きました。
鴨下 だって面倒くさいんだもん(笑)。実は、僕はドラマでも、オフライン編集とかしないんです。現場でのコンテは作りますけど、編集のときにはワークシートも作らないんです。現場で撮ったものを、頭から繋いでいって、最後にプラス・マイナス・ゼロにしたいんです。それは体内時計なんです。だからそれを編集室で狂わされることが一番怖いんです。繋ぎ替えると体内時計が崩れるんですよ。だから編集室では、非常に緻密に、冒頭から少しずつ繋いでいくんです。それが僕のダイナミズムなんです。エディターにも「もうちょっと詰めて」のような抽象的ではなく、具体的に「4フレーム詰めて」とフレームで指示してしまうんです。そうすると早くできるし、体内時計が崩れないんで、一日で600カット繋いじゃったこともあるんです(笑)。
— だからと云って、古澤憲吾監督の演出を逸脱していない。しかも面白いエッセンスは全部凝縮されています。映画の印象とその再構築。それがアンソロジスト鴨下さんの真骨頂ですね。
鴨下 そう、その印象だけで、当日、スタジオに入って15時間で作っちゃった。「あそことあそこを繋げて!」とほとんど口からでまかせみたいに言って、それで繋いじゃった。何のコンテもラフスケッチもない。ただ頭の中にぼんやりとあるんですよ。あれは面白かったなぁ。熱病にかかったようにやりました。
— しかも植木等さん&古澤憲吾監督の勢いと、谷啓さん&坪島孝監督のホンワカした味、両方のエッセンスも凝縮されています。
鴨下 これだけ時間が経ってみると、谷啓のゆるキャラも今の時代に合っているし、『クレージー黄金作戦』(67年)のラスベガスで踊るシーンもいいじゃない。色んなものがヘタなんだけど、いい。ラスベガスの大通りを交通遮断して撮影なんかできないよ、今は(笑)。アメリカまで行ってやることじゃないだろう。国辱的な〜!と思うんだけど、それがいいんだよね。ラスベガスのシーンを最後にしようと思ったのは、最初に浮かんだ案です。今、観るといいなぁと思うのが、『ぶちゃむくれ大発見』(69年)の「キンキラキン」。宇宙で空中遊泳みたいなことして、ああ、いいなぁ。
—「植木等ショー」については「植木等ショー!クレージーTV大全」をご覧いただくとして、鴨下さんにとって植木さんとの仕事を振り返ると?
鴨下 不思議な縁ですよね。僕は植木さんの番組を出来たっていうのは、本当に幸せです。「東芝日曜劇場」を演出しながら「植木等ショー」で好きなことをやらせてもらって。まるで軽業みたいな話ですけど(笑)。それが60年代で、それから十年後に「岸辺のアルバム」(77年)をやって、僕自身のコースが変わっていくんです。でもやっぱり、僕にも歌とヴォードビルの時代あったんですよね。それを再認識させてくれたのが「クレージーキャッツ・デラックス」であり、92年の「植木等スーダラ90分」(DVD「植木等スーダラBOX」収録)だったんです。