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『続・兵隊やくざ』(1965年8月14日・大映京都・田中徳三)

 斜陽の映画界で、大映プログラムピクチャーを「座頭市」「悪名」シリーズで牽引してきた勝新太郎の「兵隊やくざ」は、昭和40年代の新たなシリーズとして連作された。前作は大映東京の製作だったが、本作から大映京都となり、脚本も重厚な作風の菊島隆三から、喜劇映画や風俗メロドラマを得意とした舟橋和郎をキャスティング。「悪名」シリーズの産みの親でもあり、勝新の魅力を知り尽くした田中徳三監督が演出に当たった。

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 物語は前作のクライマックスから始まる。ソ満国境の「孫呉」の関東軍が、戦死必至の南方へ部隊ごと移動することになった。命までは取られたくないと、大宮一等兵(勝新太郎)のアイデアで有田上等兵(田村高廣)は、芸者・音奴(淡路恵子)に将校から拳銃を盗ませて、移送列車の機関車をジャック。兵隊を乗せた貨車を切り離し、満州の雪の曠野で「自由への脱走」を試みた。

 軍隊からの脱走。生きるためならどんなことでもする。大宮一等兵と有田上等兵のコンビは、手段を厭わず、自分たちのポリシーで「自由を獲得する」。これが「兵隊やくざ」の面白さの原動力。軍規に縛られ、上官の理不尽な命令にも絶対服従。鉄拳制裁の日々で、内地に帰ることもなく。国家の「駒」として命を奪われてしまう。それは御免と、“兵隊やくざ”コンビは、毎回、あの手この手で、目の前に立ち塞がる「軍隊」に抵抗し続ける。

 『続・兵隊やくざ』はこうして始まる。見事に「自由への脱走」に成功したかと思いきや、二人を乗せた機関車は、抗日ゲリラの仕掛けた地雷で大爆破。このシーン、雪の曠野を走る機関車、爆破シーンはミニチュア撮影。『釈迦』(1961年・田中徳三)や、のちに「大魔神三部作」(1966年)などを手がけた大映特撮陣による、この爆破シーンはなかなか大迫力がある。造形物もクオリティが高く、ラストシーン。従軍看護婦・小山明子を救出した二人が、彼女と別れる場所に飾り込んである、三メートル近い大きな仏像の造形が素晴らしい。『釈迦』のバラモン神像や『大魔神』のようにリアルである。

 機関車が爆破され、二人は曠野に放り出される。幸い、関東軍を乗せた客車は切り離されたために無事だったのが不幸中の幸い。怪我をした大宮一等兵と有田上等兵は、救出されて奉天の陸軍病院で目覚める。そこで懸命に看護をしてくれた従軍看護婦・緒方恭子(小山明子)が今回のヒロイン。手練手管の大人の女性・音奴もいいが、気が多い大宮は、その清純な白衣の天使に一目惚れ。松竹出身の小山明子は、昭和36(1961)年にフリーとなり、夫・大島渚監督を支えて、積極的に各社の映画に出演。勝新太郎とは、昭和37(1962)年の『三代の盃』(森一生)で共演、田宮二郎の『復讐の牙』(1965年・大映東京・井上梅次)や、本作のあと市川雷蔵『若親分喧嘩状』(1966年・池広一夫)などの大映映画でヒロインを務めている。

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 大宮は、緒方恭子に一目惚れ、怪我が直っていないふりをして、気を引こうとしたり、まるで子供のように振る舞う。関東軍が南方へ移動してしまったので、行き場所を失った有田と大宮は晴れて除隊、内地に帰れることになったが、戦局が悪化。北支への転属が命ぜられてしまう。「やはり生きて内地には帰れないのか」有田上等兵の嘆きは、当時の兵士たちの心の叫びでもある。大宮は、緒方に餞別として「毛をください」と無謀なお願いをする。女性のあの毛が「弾除けになる」と信じられていたのである。別れ際、恥ずかしそうな顔をして、その「お守り」を、大宮の目の前にそっと落とす。勝新の嬉しそうな、恥ずかしそうな、満足気な表情。「兵隊やくざ」が喜劇映画として受け止められるのは、こうした勝新の喜劇役者的な芝居のチカラによるところも大きい。

 大宮たちが派遣された北支の「九龍関」の守備隊は、独立した部隊でもあり、上官たちの鉄拳制裁と横暴が目に余る状態だった。そんなことはお構いなし「我が道をゆく」大宮一等兵は、上官専用の風呂に浸かって、得意の浪花節をひとくさり。大宮は浪花節語りを破門されてやくざになった男。そこへ入ってきた江崎軍曹(芦屋雁之助)と青竹軍曹(芦屋小雁)は、大宮を下士官だと一方的に勘違いして、大宮の背中を流したり、按摩をしたりの大サービス。「悪名」シリーズに、偽朝吉と偽清次役で出演していた人気喜劇人・芦屋雁之助と芦屋小雁兄弟が、ここでもコメディリリーフとして登場して、爆笑シーンとなる。
 
 しかし大宮は黒住兵長(五味龍太郎)や、この江崎&青竹軍曹コンビに対して、結果的な侮辱行為、暴力行為を働いてしまうので「このままでは済まない」と有田上等兵が一計を案じる。今回、大宮が暴れるたびに、有田の「このままでは済まない」のフレーズがルーティーンで出てきて、それが笑いを誘う。ビンタをされても、鉄拳制裁を受けても、微動だにしない胆力を持っている大宮は怖いものがない。相手の手がダメージを受けるだけだ。強いて怖いものといえば、大好きな有田上等兵に嫌われること。というのがいい。

 有田の計らいで、大宮は上官たちから報復を受けずに住む、曹長たちの当番兵となる。登板兵は、自由に行動ができて、自室を与えられている下士官の身の回りの世話をする係。なので訓練や、戦闘に駆り出される心配もない。そこで大宮が当番兵となったのは、典型的なワルの岩波曹長(睦五郎)と、下士官の特権意識は身についているが、インテリで少しリベラルの八木曹長(上野山功一)。早速、岩波曹長に誘われて、大宮はオイチョカブ博打の相手を務める。最初はしおらしくしていた大宮は、博打にかけててプロなので、結果的に岩波曹長から銭を巻き上げてしまう。

 驚くのは、岩波曹長が平然と日本人街の売れっ子芸者・染子(水谷良重・現・二代目水谷八重子)を兵舎に連れて帰り泊めてしまうのだ。いくらなんでもと思うが、しかも風呂に二人で入って、大宮に染子の背中を流させる。これには大宮も呆れ返る。しかし、八木曹長と染子は密かに相思相愛で・・・というサイドストーリーが展開される。

 今作も前半は、こうした軍隊での日常スケッチのエピソード集となっている。部隊には、大宮憧れの緒方恭子の弟で新兵の緒方一等兵(酒井修三)が配属されていて、大宮は何かと可愛がる。しかし苛烈な軍隊に嫌気がさして緒方が脱走するという騒動も起こる。結局、緒方一等兵は軍法会議にかけられることになり営倉に入る。

 この守備隊を仕切っているのが、これまた典型的なワルの多久島中尉(須賀不二男)、岩波曹長と結託して、特権を思うままにしている。ある日、守備隊が八路軍の拠点の村を襲撃するが、村はもぬけの殻。二人の病気の古老(石原須磨男)と、その孫娘と思しき姑娘(伊角静江)の二人が捕虜となる。そこで多久島隊長は、新兵の度胸をつけるために、この古老を縛り上げ、銃剣で刺し殺せと命じる。この非道さ! しかも姑娘は「殺すには惜しい」と舌なめずりをする。後でよろしくやろうというのだ。この多久島隊長はスケベの塊のような男。

 こうした命令に、大宮は「いち抜けた」と銃剣を下げてしまい、他の新兵たちもそれに従う。隊長の暴虐にたまりかねた有田上等兵が「おかしい」とその理不尽に必死の抗議をする。リベラルな八木曹長も、隊長に御追随する岩波曹長に怒りをぶつける。陸軍が日中戦争で「大義」の名の下に、日常的に行なってきた非道なことを、カリカチュアしながら描いていく。こうした視点が「兵隊やくざ」シリーズには貫かれている。

 大宮は、自分のモラルである「正義」を貫くために、その夜、早速行動を起こす。古老と姑娘の縄を解いて、逃がしてしまうのだ。戦争映画と言いながら兵隊やくざ」シリーズは、軍隊の非人間性と、組織の暴走を描き、大宮と有田の本当の敵は「軍国主義」であるということが通底している。ともかく、自分が気に入らないと、上官だろうと隊長だろうとぶん殴る。それが爽快なのである。

 やがて、憧れの看護婦・緒方恭子が「九龍関」に赴任してきて、弟・緒方一等兵(酒井修三)に会いにやってくる。ところが緒方一等兵は脱走をはかり、営倉に入っていた。スケベな多久島隊長は、弟に合わせてやると恭子を誘い出し襲いかかる。そのことを知った大宮は怒り心頭。有田とともに、隊長に鉄拳制裁を加える。もう無茶苦茶である。だけど悪いのは須賀不二男であり、睦五郎だから仕方がない。

 というわけで大暴れした二人「こんな部隊にいられるか!」とまたまた大脱走を図る。隊長や岩波曹長を脅し、ぶん殴り、ボコボコにした挙句、トラックを奪って、恭子も一緒に連れての大脱走である。この逃走シーンが、アクション映画としても実に痛快!「悪名」シリーズで勝新と息もピッタリの田中徳三監督の演出は、とにかく豪快、爽快、笑いも多く、この第二作でシリーズの方向性が決定。「兵隊やくざ」「悪名」「座頭市」と並ぶ、勝新の人気シリーズとなっていく。



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