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『人も歩けば』(1960年・東京映画・川島雄三)

 フランキー堺と川島雄三コンビによるスラップスティック度の高いコメディ。日活から東宝に移籍してきた川島は、森繁久彌の『暖簾』(1958年6月)、森繁・フランキーの『グラマ島の誘惑』(1959年1月)、フランキーの『貸間あり』(同・6月)と年に二本のペースで、戯作精神あふれるコメディを連作していた。

 敗戦直後、松竹で森川信やSKD、清水金一のコメディを連作していた時に、川島は「日本軽佻派」を意識していた。デビュー作『還って来た男』(1944年)の原作、脚本の作家・織田作之助に、戦争が終わったら「軽佻派」を目指そうと手紙を書いていた川島は、昭和21(1946)年の織田の若すぎる死を悲しみ、その思いもあって戯作を続けてきた。そのパートナーが助監督で川島作品の脚本のパートナーとなる柳沢類寿だった。松竹の『シミ金のオオ!市民諸君』(1948年)から『お嬢さん社長』(1953年)、日活の『愛のお荷物』(1955年)と『銀座二十四帖』(同)など、川島コメディの名伯楽だった。

 その柳沢が東宝の川島作品に参加するのは昭和35(1960)年の『赤坂の姉妹 夜の肌』(1960年)からなので、『グラマ島の誘惑』や本作『人も歩けば』は川島が自ら脚本を執筆している。この二本はまさに「日本軽佻派」ここにあり!の傑作となっている。川島の戯作精神に触れるにはもってこいの作品。

 原作は梅崎春生。第一次戦後派作家として「日の果て」「ボロ家の春秋」などを発表。昭和29(1954)年、山本薩夫が『日の果て』(八木プロ=青俳・松竹)を鶴田浩二主演で映画化。昭和33(1958)年、中村登が『渡る世間は鬼ばかり ボロ家の春秋』(松竹)として映画化している。「人も歩けば」は、北海道新聞、中部日本新聞、西日本新聞に昭和33年5月から一年間連載された新聞小説。昭和34(1959)年8月に、中央公論社から刊行されたユーモア小説で、装丁は谷口六郎が手掛けている。

 よく「まるで落語のような面白さ」という言い方をするが、この『人も歩けば』はまさに新作落語の味わい。

アバンタイトル。フランキー堺の一人語りで始まる。「いろはがるた」のあれこから「犬も歩けば棒にあたる」の紹介となり、上野公園の西郷隆盛像の犬、渋谷駅前の忠犬ハチ公、子犬たち、おもちゃの犬、芝犬・スピッツ・ブルドック・コリー、などの描写が続く。神宮絵画館前を歩くブラックテリア、首都高1号線のニュートーキョービルの前を走るスポーツカーの犬・・・様々なスケッチが楽しい。

ダックスフンドを連れたご婦人(織田照子)が、銀座三原橋から、銀座の路地に入っていく。ロケーションからセットに切り替わり、本作の舞台「成金屋質店」に入っていく。『新東京行進曲』(1953年・松竹)や『銀座二十四帖』(1956年・日活)で、銀座の街角を映画のなかで描いてきた川島の「街へのこだわり」が楽しい。

 次のカットで「銀座にだって質屋さんはございます。お豆腐屋さんだって、魚屋さんだって、八百屋さんだって、お風呂屋さんだって、ちゃーんと商売をやっている銀座のことでございますから」のナレーションにのせて映される「松屋豆腐店」は、銀座七丁目にある三代続く老舗の豆腐店。つづく八百屋は今なお存在する「銀座第一青果株式会社」、そして文久3(1863)年に銀座で開業した銀座八丁目の「金春湯」と金春通りがスクリーンいっぱいに大写しとなる。

 フランキーの「質屋さんだってあっても不思議なことはございません」のナレーションで再び「成金屋質店」の路地。そこへ「また一人、質草を抱えた青年がやってまいります」と本編の主人公・銀座のキャバレーに出演中のバンド「コットンキャンディ」のドラマー、砂川桂馬(フランキー)29歳である。

 ナレーションは続く。桂馬は、成金屋の母屋へ入り、主人の成金義平(沢村いき雄)と将棋を始める。二人は好敵手で、いつも将棋に興じている。それが縁で、成金屋の長女・富子(横山道代)の婿養子となるが、本当は次女のデパートガール・清子(小林千登勢)が好きだったのだが。ところが婚礼の夜、酒を飲み過ぎた義平はポックリ逝ってしまう。

 ドラマーをやめて、帳場に座ったものの、生来のお人好しで「ズバリ貸すします。何でもOK!」と間口を広げて融資しまくったのが、足をひっぱり、たちまち大損。怖い姑・キン(沢村貞子)と妻・富子からは「ろくでなし」といじめられる日々。仕方なく化粧品のセールスをしても、うまくいかずに、肩身の狭い思いをしている桂馬に、「近いうち大金が入る」と、新橋烏森の銭湯「八卦湯」の親父・日高泥竜子(森川信)は告げる。

 ある日、売り言葉に買い言葉。富子に懸想している古道具屋・木下藤兵衛(桂小金治)を質草の短刀で傷つけて、藤兵衛のスクーターに乗ったまま家出をしてしまう。逃げ込んだのは、晴海にあるベッドハウス「浪々荘」に潜入滞在と相なる。

 なんと桂馬にはアメリカで亡くなった叔父さんがいて、その遺産9000万円が転がりこんで来ることになる。ところが、アメリカ系の弁護士・バブ近藤(ロイ・ジェームス)からの条件は「30日以内に、桂馬自身が手続きに来ること」だった。そこで成金母娘は、自分が追い出したにもかかわらず、私立探偵・金田一小五郎(藤木悠)に20万で、桂馬探しを依頼する。

 ハイテンション、ハイテンポで桂馬をめぐって、奇妙な人々が出たり入ったり。そのカリカチュアぶりがおかしい。

 「浪々荘」で桂馬を「先輩」「兄貴」「親分」と慕う学生・板割鉄太郎(三遊亭小円馬)の図々しさ。あちこちに借金、不義理を重ねている鉄太郎を狙って現れるが、当時、日本テレビ「お昼の演芸」でお茶の間で大人気となった「脱線トリオ」。そのネーミングがすごい。ゴジラの八(八波むと志)、ラドンの松(南利明)、アンギラスの熊(由利徹)。東宝の三大怪獣である。「なぜモスラじゃないの?」と思う人もいるかもしれないが、モスラが誕生するのは翌昭和36(1961)年夏だから、この頃の三大怪獣は「ゴジラ」「ラドン」「アンギラス」だったのだ(笑)

 そういえば、南道郎とE・H・エリックのコメディ『東京よいとこ』(1957年・西村元男)でエリックの役名は「ウイリアム・ラドン」。南道郎の仕事は、人気プロ野球チーム「東京アンギラス」。この映画、原案が東宝特撮映画のメインライターとなる関沢新一。いやはや、これが当時の感覚である。

 その脱線トリオの三人とフランキーが晴海の埋立地でドタバタの追いかけをするシーン。サイレント喜劇よろしく、駒落としや、同ポジで、四人が入り乱れて、出たり入ったり。こうした駒落としは、邦画の場合、興醒めになることが多いのだが、さすが川島雄三。スラップスティックも楽しい。

 晴海のベッドハウス「浪々荘」の主人・並木浪五郎(加東大介)の部屋には、ソ連のバレエやコンサート来日ポスターがあり、酒が入るとロシア民謡を口ずさむ。シベリア抑留で思想教育を受けてコミュニストになったのかもしれない。戦前からの筋金入りの左翼ではなく、ソ連文化を楽しんでいるような感じ。広大な埋立地に三千床のベッドハウスを建てようと目論んだが、別居中の妻の猛反対を受けている。妻は4年後の東京五輪を当て込んでホテル建設を考えている。浪五郎は、ガチガチの五輪反対派。

 成金屋に、桂馬に九千万円の相続話を持ち込む、弁護士・バブ近藤を演じているロイ・ジェームズがおかしい。足が痺れて立ち上がった途端に転んだり、スラップスティック的な動きがいい。ロイは、ロシア革命後にロシアから日本へ亡命してきたカザン・トルコ人で、旧制下谷区立竹町小学校に通っていた下町っ子。同小学校の同窓、伊東四朗とは幼なじみ。日劇ミュージックホールに出演していたE・H・エリックの口利きで、日劇ミュージックホールでコメディアンとしてデビュー。テレビやラジオ、映画で活躍していた「外国人タレント」の元祖のひとり。

 八卦に凝りまくって、銭湯の名を「八卦湯」とした日高泥竜子を演じた森川信は、川島の第二作『ニコニコ大会 追ひつ追はれつ』(1946年)からのおなじみ。新橋の烏森の飲み屋街にある「八卦湯」は、東京映画のセットに組まれたものだが、銭湯には珍しく、二階が入り口で、そのデザインも、いかにも当時の新橋にありそうな造り。裏通りから階段を上がって銭湯の入り口がある。二階の通路には手摺りもないが、敗戦直後から昭和30年代にかけて、東京の盛り場にこうした建物があった。

 その烏森飲食街にある、おでんや「すみれ」の女将・佐倉すみれ(淡路恵子)のもとに桂馬は足繁く通っている。隣の「八卦湯」の親父・日高泥竜子は、彼女を「足相観」の教祖に仕立てようと口説いている。

 烏森神社を中心に現在も、このあたりには飲み屋街があるが、川島の『明日は月給日』(1953年)では、幾野道子がここで「若竹」という小料理屋を開いていて、隣には、久保幸子がつとめるカレーとコーヒーの店「ミステーク」があった。銀座に比べて庶民的な「夜の街」として賑わっていた。

 クライマックス、桂馬を探して、登場人物が入り乱れてのドタバタが、この界隈で繰り広げられ、ラストのシークエンスは、烏森神社の正月の縁日の賑わいのなか、遺産相続のタイムリミットに向かって展開していく。

 その鮮やかなオチは映画を観てのお楽しみ、ということで、スピーディでハイテンション。まことに賑やかな、「川島流・新作落語」のような傑作コメディである。
 

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