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ご苦労さまでした。お幸せに!『男はつらいよ 寅次郎紅の花』(1995年・松竹・山田洋次)

文・佐藤利明(娯楽映画研究家) イラスト・近藤こうじ

2024年3月30日(土)BSテレビ東京「土曜は寅さん」で第48作放映! 拙著「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)より、ご紹介します。

 映画の原稿を書くようになってからも、「男はつらいよ」は映画館で観てきました。上野松竹や銀座松竹で、満員のお客さんの熱気のなかで、寅さんの姿を見るのが、子供の頃からの楽しみでした。ただ一度だけ、当時、松竹本社の地下にあった試写室で観たのが、第四十八作『寅次郎紅の花』でした。平成七(一九九五)年十二月二十日、公開三日前のことでした。「男はつらいよ」は、いつも完成が公開ギリギリとなり、マスコミ向けの試写も数日前というのが常でした。山田洋次監督が、粘りに粘って作品と向き合っていたことの証でもあります。

 この『寅次郎紅の花』は、第十一作『寅次郎忘れな草』、第十五作『寅次郎相合い傘』、そして第二十五作『寅次郎ハイビスカスの花』で、寅さんと幾多の物語を紡いできた放浪の歌姫、リリー松岡(浅丘ルリ子)が久々にマドンナとして登場。満男の恋人・泉(後藤久美子)も三作ぶりの出演ということもあり、製作発表の時から注目を集めていました。セット撮影、ロケ取材もさせて頂いたこともあり、特別な思い入れもあって、完成作を観ました。

 物語の終盤、些細なことでリリーとケンカした寅さんは二階の部屋に上がったままです。奄美大島に帰るというリリーにさくらは「お願い、ね。もうちょっとだけ」と待たせて、二階へ上がっていきます。幾度となく繰り返されてきた二階の「あにいもうとの別れ」のおなじみのショットです。この二階は、寅さんが旅立つ決意をしたときに、寅さんとさくらが、お互いの本音をもらす「あにいもうと」の会話が幾度となく交わされてきました。ここは、誰にも立ち入ることができない、寅さんとさくらだけの聖域なのです。

 第十一作『寅次郎忘れな草』で、寅さんがさくらに「あの女にも人並みの家族の味を味合わせてやりてえと。そう思ってよ」と、リリーを「とらや」に置いて欲しいと頼んだのも、この部屋でした。第15作『寅次郎相合い傘』で、リリーが出て行った後、さくらが「お兄ちゃんは、リリーさんのことが好きなんでしょう」とリリーを追いかけていくべきと言ったのもこの部屋です。その時、寅さんは「言ってみりゃ、あいつも俺と同じ渡り鳥よ。腹へらしてさ、羽根を怪我してさ、しばらくこの家で休んだだけよ。いつかはパッと羽ばたいてあの青い空に… な、さくら、そういうことだろう」とさくらに話します。

 そんな「あにいもうと」の聖域が映し出されると、ぼくらは寅さんの旅立ちが近づいていることを感じます。『寅次郎紅の花』でも、さくらは、いつものように、寅さんに本音をぶつけます。

「今だから言うけど、お兄ちゃんとリリーさんが一緒になってくれるのは、私の夢だったのよ。お兄ちゃんみたいに、自分勝手でわがままな風来坊に、もし一緒になってくれる人がいるとすれば、お兄ちゃんの駄目なところをよくわかってくれて、しかも大事にしてくれる人がいるとすれば、それはリリーさんなの、リリーさんしかいないのよ。そうでしょう。お兄ちゃん」

 さくらのこの言葉は、ファンの気持ちでもあります。ところが寅さんは「お前は満男の心配でもしてろよ」とソッポを向きます。さくらは、寅さんとリリーが奄美大島で一緒に暮らしていると、満男から聞いたときに、どんなに嬉しかったか、とさらに本音を漏らします。その一言で寅さんの心が動いたのでしょう。さくらが去った後を、寅さんがふと見るショットがあります。

 寅さんは二階から降りてきて「おい、リリー 送って行くよ」と、リリーと一緒にタクシーに乗り込みます。この寅さんのカッコ良さ、二枚目です。寅さんは、これまでのシリーズにはなかった行動をとるのです。しかし、二階に寅さんのカバンは置いたまま… ということは寅さんは再び柴又に戻ってくることを意味します。その象徴としてのカバンの扱いが実に巧みです。ところが、さくらが機転を利かし、店員の三平ちゃん(北山雅康)に「お兄ちゃんのカバン二階から持ってきて」と頼みます。

 ここからがサスペンスです。寅さんとリリーを乗せたタクシーに、果たしてカバンを持った三平が間に合うのか。ここからの展開はまさしく大団円に相応しいです。車内でのリリーと寅さんの会話、それにあきれ果てる運転手の犬塚弘さん。これまでのシリーズでは、寅さんとリリーの蜜月は、ちょっとしたことでバランスを崩してしまうので、ハラハラドキドキです。

 しかし、運転手と揉めている間に、寅さんのカバンを持った三平ちゃんが間に合うのです。三平が寅さんのカバンを車のトランクに入れて、見送ります。シナリオでは「行ってらっしゃい」の一言でしたが、映画では三平が「行ってらっしゃい、お幸せに」と手を振って見送ります。

 「お幸せに」この一言で、寅さんとリリーのこれからが見えるような気がします。奄美大島の加計呂麻島で、リリーと楽しい南国の暮らしをしながら、二人は時を重ねていくに違いない、このシーンを観たとき、そんな風に思いました。第二十五作『寅次郎ハイビスカスの花』で、リリーに「オレと所帯もつか」と告白したものの、結局うまくいかなかった時、柴又駅でリリーを見送った寅さんは、電車の発車間際に「幸せになれよ!」と声をかけました。寅さんは出会った人の"幸せ"をいつも考えている人だと、ラジオでもこのコラムでも繰り返し言ってきました。その寅さんに、三平ちゃんが「お幸せに」と声をかけるのです。

 この映画が作られた平成七年は、阪神淡路大震災が起きた年でもあります。『寅次郎紅の花』では、冒頭、一年以上音沙汰ない寅さんのことを、家族が心配していると、テレビの震災を振り返る番組「大震災その後 ボランティア元年」に、なんと寅さんが映っていて、ボランティアをしていたことが次第に明らかになります。現実のなかの寅さん、ということでも、この『寅次郎紅の花』の冒頭は、実に巧みに作り上げられています。

 ラスト、リリーからの手紙で、またしても些細なことでケンカして、寅さんが出ていってしまったことが伝えられます。その寅さんはまた旅の空なのですが、きっと寅さんが戻る場所は柴又ではなく、リリーの住む奄美大島のような気がします。

 さて、寅さんはどうしても行かなければいけない場所がありました。それが神戸市長田区、阪神淡路大震災で最も被害が大きかった場所です。寅さんは、ここで被災し、ボランティアをしていたのです。その復興祭に、寅さんが再びやってきて、パン屋夫婦(宮川大助・花子)、会長(芦屋雁之助)たちと再会を果たします。そこへ自転車で青年(パンチ佐藤)が駆けつけます。元気そうな商店街の、あの顔、この顔に、寅さんが優しく声をかけます。

「苦労したんだなぁ、ご苦労さまでした」

 この被災地への人々への言葉が、寅さんの、そして俳優・渥美清さんの最後のセリフ、最後の言葉となりました。このセリフは当初のシナリオにはありません。現場で撮影をしているときに、山田洋次監督と渥美清さんの間に、自然に出てきたものだと思われます。「みんなの寅さん」でもお話しましたが、この「苦労したんだなぁ、ご苦労さまでした」というセリフ、実は、第一作『男はつらいよ』でも寅さんが言っている言葉なのです。

 二十年ぶりに寅さんが柴又に帰ってきて、さくらと感動の再会を果たします。両親も亡くなり、おいちゃんとおばちゃんに育てられ、見違えるように美しい女性となったさくらに、寅さんは言います。

「さくら、苦労かけたなぁ、ご苦労さん」(第一作)

 さくらがどんな思いをして、ここまで来たのか、その場に居合わせていない寅さんは想像するしかありません。寅さんは、大変だったね。苦労したんだね。ご苦労さん。という気持ちを伝えることしか出来ません。でも、それが寅さんの優しさであり、相手の幸せを願う人の、言葉でもあるのです。

 第一作で妹・さくらにかけた言葉が、第四十八作では被災地の人々への言葉へとなり、それから十七年、この『寅次郎紅の花』を通して、ニッポンの皆さんに向けての「ご苦労さまでした」となっているような気がします。このことを、ある時、山田監督に話したことがあります。監督によれば、このセリフは第一作を意識したわけでなく、「ご苦労さん」という言葉は、下町出身の渥美清さんのなかにあるものだと、仰っていました。

 『寅次郎紅の花』が公開されて八ヶ月後、渥美清さんが亡くなり、結果的には、これがシリーズ最終作となりました。この作品では満男は泉にようやく愛の告白をして、二人の結婚が匂わされます。次に予定されていながら実現されなかった、西田敏行さんと田中裕子さんが 「あにいもうと」を演じる話もあった、幻の第四十九作『寅次郎花へんろ』が作られたなら、満男と泉の結婚が描かれたと思います。

 ファンであるわれわれは、そういう想像をすることが許されているのです。例えば、満男の結婚式で、寅さんが伯父として挨拶することになり、博や御前様に相談してスピーチの原稿を用意するのですが、緊張のあまり行った便所に、その原稿をドッポーン、なんて場面を思い浮かべてしまうのです。

 そして、第四十八作まで見終わると、また第一作から「男はつらいよ」シリーズを新たな気持ちで、楽しむことが出来るのです。なんて幸福なことでしょう。「男はつらいよ」の良さは、リアルタイムに間に合わなかった世代でも、「面白いなぁ」と寅さんに触れることが出来る懐の大きさにあるような気がします。寅さんを想うわれわれに、いつも、いつでも寅さんは、寄り添ってくれる、そんな幸福な時間をもたらしてくれるのです。

この続きは「みんなの寅さん from1969」(アルファベータブックス)でお楽しみください。




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