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『ハナ子さん』(1943年2月25日・東宝・紅系・マキノ正博)

 幼い頃、懐メロ番組で流れる「お使いは自転車に乗って」を聞いて、楽しく明るい歌だなぁと思っていた。この曲が、戦時下の昭和18(1943)年に作られた国策映画『ハナ子さん』(1943年2月25日・東宝・紅系・マキノ正博)の主題歌であると、のちに知って尚更驚いた。勇壮な軍歌や、マイナーコードの国民歌謡のイメージが強かったので、この曲で「戦時中のイメージ」が少し変わり「その頃」のことをもっと知りたくなったのは、10代前半のこと。

 さらに17歳、高校二年の時、出たばかりのビデオを三省堂書店のビデオブースで『ハナ子さん』を観てさらに驚いた。レンタルビデオ前夜、高価なビデオを三省堂書店にあるブースで2500円(だったと思う)で観ることができたのだ。

 この映画のタイトルバックは、昭和15(1940)年に東宝舞踊隊と改名した日劇ダンシングチームのダンサーたちによるプロダクション・ナンバー。本来ならクライマックスにしても良いほどのアンサンブルで、キャメラは真上からの俯瞰撮影。1930年代、ワーナーブラザースで「映画のミュージカル」の黄金時代を気づいた振付師で監督のバズビー・バークレイが『四十二番街』(1933年)『泥酔夢』(1935年)などで展開した万華鏡のようなバークレイショットなのである。

 昭和18年に「ハリウッド・ミュージカル」の手法! これだけでミュージカル・ファンの僕は驚いた。さらに「昭和十四年から十六年までのハナコさんのうた物語」として、次々と登場人物たちが歌い「サザエさん」のような朗らかなホームドラマが展開し、ハナ子さん(轟夕起子)と五郎さん(灰田勝彦)の婚約時代、甘い新婚生活が描かれる。戦時下に、戦前を懐かしむ構成にも驚いた。特に後半、およそ緊張感のない「隣組の防空訓練」「米軍機による東京空襲」のシーン。生きるか死ぬかの緊迫感が一切なく、登場人物たちが慌てて、心配しているのはヒロインの出産なのである。

 その時、ああ、プロパガンダというのはこういうことなのか、若い筆者は感じて、戦前の喜劇映画、音楽映画の研究を始めた。そのきっかけとなったのが、1982年の『ハナ子さん』体験が大きい。

『ハナ子さん』が製作された昭和18年1月には、内務省情報局によるいわゆる「ジャズ禁止令」「ジャズなど英米楽曲約1000種の演奏を禁止」された。もちろんレコード演奏もN Gとなった。2月は「日本軍のガダルカナル島撤退開始」、4月には「連合艦隊司令長官・山本五十六がブーゲンビル上空で戦死」と、戦局も悪化の一途を辿っていた。人々の生活も逼迫し、精神的にも追い詰められつつあった。

 原作は杉浦幸雄が「主婦之友」に、昭和13(1938)年9月号より連載開始をした家庭漫画「銃後のハナ子さん」。連載開始とともに大人気となり「主婦之友」の発行部数を飛躍的に伸ばして160万部を越すこととなった。連載中、ハナ子さんが出産したのをきっかけに「ハナ子さん一家」と改題。戦後も「ハナ子さん」のタイトルで昭和24(1949)年まで続いた。長谷川町子「サザエさん」が昭和21(1946)年から「夕刊フクニチ」でスタート、断続的に掲載され、朝日新聞夕刊で「サザエさん」が始まったのが昭和24年。「ハナ子」さんが果たしていた明朗家庭漫画の役割は「サザエさん」にバトンタッチされたのである。

 原作者・杉浦幸雄によれば、日活多摩川作品『爆音』(1939年2月15日・田坂具隆)で、小杉勇の村長の娘・房子を演じた轟夕起子の「モンペ姿」にインスパイアされて、「主婦之友」新連載のヒロインに、その時の轟夕起子の「いかにも楚々とした姿」がピッタリと感和えて、ハナ子さんのモデルにした。(「わが漫画人生 一寸先は闇」杉浦幸雄・東京新聞出版)

 夫・五郎(灰田勝彦)の出征による、ハナ子さんとの別れがクライマックスとなっている。原作の「主婦之友」昭和16(1941)年9月号のエピソードである。マキノ正博監督は、普段は明るく屈託のないハナ子さんは、出征していく五郎さんへの想いを、銃後の妻ではなく、夫を愛するひとりの女性として描こうとした。
 
 丸の内の会社で、社長以下、同僚たちに「万歳」で見送られた五郎さんが、街角で出征兵士のための千人針を、道ゆく女学生に呼びかけているハナ子さんと会う。五郎さんは、大きなグライダーなど坊やのためのオモチャを抱えている。「おじさん出征するの?」「頑張ってね、勝ってね、しっかり!」と女学生たちの「万歳!」の声。

 やがてハナ子さんと坊やともに、五郎さんは婚約時代(前半で描かれる)の想い出の「馬事公苑」へやってくる。五郎さんがオモチャと一緒に買っていた「おかめのお面」を「お前だと思って(戦地へ)持っていくんだ」と見せる。ハナ子さんは、なんでもいいから、私にして欲しいこと言って、と五郎さんに気持ちを伝えるが、五郎さんは「ないよ」と優しく微笑むだけ。それでは気が済まないハナ子さん。突然「1・2・3」とでんぐり返しを繰り返す。このシーンの轟夕起子さんが実に可愛い。さらに、婚約時代に、二人で遊んだ「吊り輪」にひとりぶら下がる。ハツラツとしているが、内心は悲しくて、寂しくて仕方がない。という描写である。

 やがて「おかめのお面」を頭の後ろにかぶって、陽気に踊り出すハナ子さん。坊やとともに喜ぶ五郎さん。検閲前のフィルムには、ここでハナ子さんが泣くカットが撮影されていた。原作でも五郎さんの出征の前にハナ子さんが泣く場面が描かれていた。原作者・杉浦幸雄によれば「戦後になってマキノ監督から伺ったのですが、映画を作るきっかけは、私が漫画にかいた出征の決まった夫の五郎さんを送り出す際、見せてはいけない涙を隠すため、ハナ子さんがおかめの面を付ける絵だったそうです」(「わが漫画人生 一寸先は闇」杉浦幸雄・東京新聞出版)

 このラストの「ハナ子さんの涙」を描くことがマキノ正博監督のモチベーションだった。しかし現存するフィルムでは、このシーンに不自然なカットが観られる。ハナ子さんがススキの原っぱに駆け込んで、その場に倒れ込み、一瞬姿を消す。五郎さんが「ハナ子!」と叫ぶ箇所で、映像も音楽も不自然に飛んで、次のカットとなる。お面をとって優しく微笑むハナ子さん。バックに唐突に流れるのは、前半に馬事公苑で二人がデュエットした『丘の青い鳥』(作詞・佐伯孝夫 作曲・鈴木静一)の後半。そのまま二人のツーショットでエンドマークとなる。

第九巻 
芒【すすき】原ニ於ケル五郎トハナ子トノ合唱ノ画面中、自記声二十一至記声四十一マデ及ビ自記声四十三至記声四十五マデハ之ニ伴フ画面ト共ニ切除一七三米(公安)(内務省警保局 映画検閲時報)

 内務省警保局検閲課により6分18秒に渡る大幅カットが行われたのである。その理由は「公安を害する」だった。マキノ雅弘は自伝「映画渡世・天の巻―マキノ雅弘自伝」(平凡社)で、この時のことをこう回想している。

 内務省情報局には熊埜御堂(くまのみどう)というボスがいて、その下のお役人が『ハナ子さん』という映画は「米英的である」、「敗戦思想」だ、絶対に許すわけにはいかん、と云う。

 どこが「米英的」かというと、たとえばデコちゃんがペットの狆を抱いて歩いたとか、肩を振って歌ったとか、灰田勝彦は二世だから「日本的男性」ではないとかーそんなようなことばかりだった。

 (中略)内務省情報局に呼び出されて、私は、この映画のプロデューサー星野武雄と一緒に出かけて行ったのだが、星野はお役人に何も云ってくれない。仕方がないので、私一人で談判した。午後一時から真夜中の十二時まで! その間、お役人は、ただ「フィルムを切れ」の一と言を繰り返すだけ。

 何故この映画が「敗戦思想」なのかと問い詰めたところ、しまいには、困ってしまって、ラストシーンの野原のすすきのことを持ち出して、「すすきは枯れすすきに通じる」などという始末、馬鹿なお役人だった。蓮華、たんぽぽでもいけないらしい。日本の国花の桜なら、散ってもいいというのだ。腹の立てようもなくなった私だったが、云うだけは云ってやろうと思った。

「映画検閲時報」によると『ハナ子さん』が検閲で切除されたのは543メートル(約19分)である。文章は読みやすく筆者が一部リライトしている。

・第五巻 
チヨ子(高峰秀子)が軽薄なる態度で、歌を唱いながら犬を連れて歩く箇所、切除33メートル(約1分12秒)(理由・風俗)

・第六巻 
草原における少女たち(東宝舞踊隊)の舞踏の画面中、縦列にて一人ずつ正面向きとなり、著しく大腿部を露出して、飛び上がりながら、前進する大写し箇所、切除九メートル(約20秒)理由・風俗。

・第八巻 
オモチャの楽隊(東宝舞踊隊)の舞台画面は、楽隊の更新箇所残存の上、切除71メートル(約2分35秒)理由・風俗。

・第九巻
すすき原における、五郎とハナ子との合唱画面中、切除173メートル(約6分18秒)理由・公安。

 今でこそ、何が問題なのか?と思ってしまうが、当時は、検閲官の判断でこれだけのカットがなされたのだ。他の娯楽映画を見ていても「意味不明」の飛び方をしている作品は少なくない。古川緑波は日記で、この『ハナ子さん』の検閲について、次のように記している。

昭和18年2月28日 東宝映画最近封切済の「ハナ子さん」は、ズタズタにカットされた由。それも検閲官のめちゃめちゃな意見で、やれ灰田の顔が間が抜けてるからとか、ジェスチュアが米英的だとか言って切ったのださうだ。次に「音楽大進軍」を検閲に出すわけだが、これも此のあん梅では、思ひやられる。えゝイ、小役人に任せて置いていゝのか! 実際!(古川ロッパ日記・戦中篇・晶文社)

 『ハナ子さん』はこうして始まる。「撃ちてし止まむ」に続いて「東宝映画株式会社」アジア地図バージョン。鈴木静一作曲、東宝管弦楽団演奏によるワルツによるテーマ曲が流れ、東宝舞踊隊の面々が円形を組んで踊る姿を俯瞰撮影。ワーナー・ミュージカルのバークレイ・ショットで、この幾何学的模様のダンスに、スタッフ、出演者クレジットとなる。

【スタッフ】

原作 杉浦幸雄 主婦之友連載漫画より
脚色 山崎謙太 小森静男
撮影 木塚誠一
調音 岡崎三千雄
美術 北川恵司
照明 西川鶴三
現像 西川悦二
編輯 畑房雄
演出助手 本木荘二郎
振付 益田隆 東宝舞踊隊
   高木四郎
音楽 鈴木静一
演奏 東宝映画管弦楽団

主題歌 ビクターレコード
 丘の上の青い鳥 灰田勝彦
 緑の小径 灰田勝彦 南の楽団

主題歌 コロムビアレコード
 お使ひは自転車に乗って 轟夕起子
 楽しい我が家 霧島昇 轟夕起子

【配役】

ハナ子さん 轟夕起子
お父さん 山本禮三郎
お母さん 英百合子
部隊長坊や 加納桂三
姑さん 山根壽子

五郎さん 灰田勝彦
チヨ子さん 高峰秀子
勇さん 中村彰
お祖母さん 藤間房子

山田さん 岸井明
その奥さん 橘薫
大熊さん 小島洋々
その奥さん 伊藤智子
木村さん 嵯峨善兵
その奥さん 伊達里子

酒屋さん 望月伸光
そのおかみさん 泉つね
洗濯屋さん 山形凡平
豆腐屋さん 南里金春
そのおかみさん 加藤欣子
名詞屋さん 河崎堅男
隣組の娘達 宮川五十鈴、羽島敏子、三邦映子

特別出演 東宝舞踊隊

演出 マキノ正博

M1 お使ひは自転車に乗って 轟夕起子

 俯瞰撮影のダンサーがプレートを返すと「ハナコさん」とカタカナ文字のタイトルを。東宝舞踊隊のダンサー(スカートはかなり短め)たちが円形で日ざまついていると、上からたくさんの紙風船が落ちてくる。これはバークレイの『泥酔夢』(1935年)のクライマックスの上から落ちてくる黒いボールのようでもある。そこへくるくると、ハナ子さん(轟夕起子が回転しながら登場。轟夕起子さんが頭にリボンをつけているのが可愛い。主題歌「おつかひは自転車に乗って」(作詞・上山雅輔 作曲・三宅幹夫)を歌う。

  ♪あたしは健やかな 健やかな娘
 元気で陽気な 明るい心
 いつもいつも 自転車に乗って
 飛んで歩けど 心はしとやかな
 花の ハナ子

「どうぞよろしく。ではこれからあたくしの家族を紹介します。」

M2 “ハナ子さん一家” 轟夕起子

 ♪頭ハゲても 心は若い
 万年青年 お父さま

 お父さん(山本禮三郎)が登場。映画ファンにとっては、戦後、黒澤明監督『酔ひどれ天使』(1948年)の暗黒街のボスのイメージが強烈だが、ここでは「まるで漫画から抜け出てきたような」お父さんをコミカルに演じている。明治35(1902)年生まれだから、この時41歳。15歳の時に、日本バンドマン一座に加わって小沢美羅二の芸名で「浅草オペラ」に出演。大正10(1921)年、19歳の時に大活の『紅草紙』(栗原トーマス・中尾哲郎)で映画デビューを果たし、サイレント時代「山本禮三郎プロダクション」を設立、『蒼白の剣士』(1928年・高見定衛)を製作主演。日活で『丹下左膳余話 百萬両の壺』(1935年)などに出演。東宝映画は衣笠貞之助監督『川中島合戦』(1941年)が初出演。盟友・マキノ正博の『男の花道』(1941年)、『阿片戦争』(1943年1月14日)に続いての出演となった。

 ♪永の歳月 呑気な父で
 ご苦労あそばすお母さま

 ここでも「東宝映画の母」英百合子がハナ子さんのお母さん役で登場。このnoteでも度々紹介してきているが、英百合子は明治33(1900)年生まれ、17歳で「東京少女歌劇団」に参加、その後国際活映で映画出演。大正10(1921)年、小山内薫が松竹キネマに招かれ、製作総指揮をした『路上の霊魂』(村田実)で“別荘の令嬢”役で出演、日本初の本格的映画女優と言われた。東宝では原節子、古川緑波、そして『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年・山本嘉次郎)の伊藤薫のお母さんを演じ、戦後は「社長シリーズ」の小林桂樹、『三大怪獣地球最大の決戦』(1964年・本多猪四郎)の夏木陽介・星由里子のお母さんを演じている。

♪ごらんください この写真
 写真の主は お兄さま
  今は召されて 前線に

パネルが回転しても俳優は出てこない。そこでお父さんがやってきて

♪ブンブン荒鷲 ブンと飛ぶぞ

 と「荒鷲の歌」(作詞・作曲・東辰三・1938年)をひとくさり歌って、お母さんに止めら。

♪兄の留守をと お国のためと
 守る健気な お義姉さま

 ここで義姉(クレジットではお姑さん)役の山根壽子が清楚な和装で登場。お転婆なハナ子さんと対照的に落ち着いた大人の女性を強調している。山根壽子は、大正10(1921)年、浅草オペラで活躍した山根千世子の娘として誕生。文化学院女学部在学中の昭和11(1936)年、P. C .L.映画製作所に入社。『愛国六人娘』(1937年12月1日・松井稔)で本格デビュー。ロッパ喜劇や岸井明の音楽喜劇に助演、李香蘭と長谷川一夫の『白蘭の歌』(1939年)など数多くの東宝映画に出演。『ハナ子さん』が46作目となった。

♪心一つに 銃後を守り
 楽しく営む ・・・

「あ、忘れてた」とハナ子さん、慌てて紹介する。「ごめんなさいね。お兄さまとお姉さまの可愛い一粒だねの坊やです」。

♪可愛い小さな 部隊長どの

 と、一家のマスコット的存在の甥っ子(加納桂三)が、どうだという表情で敬礼。国民ふくにサーベルをさして、一端の部隊長きどり。これが当時の「国の宝」、良いとこのお坊ちゃんの姿なのだなぁと。

「昭和十四年から十六年までのハナコさんのうた物語」とイラスト画面。こうして本編が始まる。

M3 隣組 轟夕起子・町内の人々

 音楽映画だけに、明けてすぐに「隣組」(作詞・岡本一平 作曲・飯田信夫)を歌いながら、町内の「隣組」の面々が、ちょっとした笑いとともに紹介される。この「隣組」は、昭和15(1940年)6月17日からN H Kラジオ「国民歌謡」で放送され、10月には徳山璉がビクターからレコードを発売。大政翼賛会の末端組織として各町内、集落で結成された「銃後組織・隣組」の啓蒙のために、漫画家・岡本一平(岡本太郎の父)が作詞。ビクターの飯田信夫が作曲した。「とんとんとんからりんと隣組」と明るいコミック・ソング調だが、「隣組」は、国家による思想統制やコミュニティにおける相互監視のための組織でもあった。日本的な村社会を巧みに利用した「監視システム」でもあった。この曲は僕らの世代ではザ・ドリフターズの「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)の替え歌によるオープニングテーマとしておなじみ。

 東宝ではこの「隣組」普及の一環として、この歌をフィーチャーした『隣組の合唱』(1940年・近藤勝彦)が、徳山璉主演で作られている。これものどかな町内会を舞台にしたホームドラマだが、同時に国策としての理想的な「隣組」のあり方を描いたプロパガンダ映画でもある。

♪(轟夕起子)とんとんとんからりんと 隣組 はい
 (藤間房子)障子を開ければ 顔なじみ 回して
 (岸井明・橘薫)あなた なんだい なにさ なんだってば!
  あなた なんだい なにさ なんだってば!

お祖母さん(藤間房子)「おや、またですか、いけませんね。今は夫婦喧嘩なんてしている時じゃありませんよ、さ」

♪(藤間房子)回してちょうだい 回覧板
 (岸井明・橘薫)知らせられたり 知らせたり

ハナ子さん、お祖母さんに挨拶して、自転車で「灘屋酒店」の角を曲がる。続いて酒屋夫婦の歌声。

♪(望月伸光・泉つね)とんとんとんからりんと 酒屋さん
 あれこれ〇〇 味噌醤油 ご飯・・・

酒屋(望月伸光)が「あれ?おい臭いよ臭いよ」と女房(泉つね)に「飯が焦げてるよ!」すると女房「名刺屋さんよ!」と隣の印刷屋に、夫婦で駆け込む。「飯が焦げてるよ」。名刺屋さん(河崎堅男)「名刺ですか?」とボケてから、慌てて家に入る。そこで酒屋「やもめはダメだね。早くカカァ持たせなきゃダメだよ」と女房に愚痴る。中から、釜を手に名刺屋が「こんなに真っ黒けに焦げちゃったんですけど、どうしましょうか?」「食うより他にないよ。ああ、これは胃の薬になるよ」と、笑いの中に、ちゃんと「倹約」の教訓を入れている。

♪(名詞屋・酒屋)ご飯の炊き方 垣根ごし
 教えられたり 教えたり

 そこへ天秤棒を担いだ豆腐屋さん(南里金春)がラッパを吹きながら歩いてくる。この歌が次々と登場人物にバトンタッチされてゆくのは、モーリス・シュバリエとジャネット・マクドナルドのミュージカル『今晩わ愛して頂戴な』(1930年・ルーベン・マムリーアン)「ロマンチックじゃない?」の演出を踏襲。

♪(南里金春)とうとう豆腐ぃ〜と 隣組
 地震や雷 火事泥棒

「おはよう」と隣の洗濯屋の奥さんに挨拶、豆腐屋に帰ってくる。奥さん(加藤欣子)が「おかえり」と迎える。洗濯屋さん(山形凡平)も「♪とんとんとんからりんと〜」と歌い出すと、豆腐屋の天秤棒に犬がやってきて「シッシッ」と追い払おうとする。豆腐屋さん夫婦も店から出てくる。「どうもすみません」

♪(洗濯屋・豆腐屋)互いに役立つ 用心棒
 助けられたり 助けたり

 カットが変わって、子沢山の木村さん(嵯峨善兵)が七人の子供を連れて、ハイキングスタイルで家を出てくる。シンガリには奥さん(伊達里子)。ヴィジュアル的には「サザエさん一家」みたいな感じ。

♪(嵯峨善兵)とんとんとんからりんと 隣組
 (子供たち)とんとんとんからりんと 隣組
 (嵯峨善兵)何人あろうと ひと世帯
 (子供たち)何人あろうと ひと世帯
 (嵯峨善兵)心はひとつの 屋根の月
 (子供たち)心はひとつの 屋根の月
 (嵯峨善兵)まとめられたり まとめたり
 (子供たち)まとめられたり まとめたり

それを見送る大熊さん(小島洋々)と奥さん(伊藤智子)

♪(小島洋々、詩吟風に)心はひとつの 屋根の月
  (伊藤智子)まとめられたり まとめたり

 で、ここで大熊さんが奥さんに、ハナ子さんと、出征兵士・勇さん(中村彰)の家の二階に下宿している五郎さん(灰田勝彦)を「一つまとめようかな」とニコニコ。「そうすると、ちょうどお仲人した数が百組になりますよ」と奥さん。喜劇映画などでお馴染み「仲人マニア」はここにもいた。このお節介さが、微笑ましく、その親密さが「隣組の絆」であるという、なんともはやのロジック展開。

M4 お使ひは自転車に乗って 轟夕起子

 ここで軽快に自転車に乗って大通りを曲がってくるハナ子さんが歌う主題歌。この映画のために上山雅輔が作詞、三宅幹夫が作曲した軽快で朗らかなナンバー。レコードのアレンジは仁木多喜雄だが、映画では鈴木静一がハリウッド・ミュージカルのナンバーのようにウキウキしたアレンジを聞かせてくれる。1月にジャズ禁止令が発令されたばかりで、東宝交響楽団に参加していたジャズメンたちの活躍の場が、少なくなっていくなか、「米英的」なハイセンスで演奏しているこの曲を聴いていると、ミュージシャンの音楽への思いを感じる。ハナ子さんは、颯爽と自転車に乗って、風のように、恋人・五郎さん(灰田勝彦)が乗馬練習をしている「馬事公苑」へと向かう。ちなみに、作詞の上山雅輔は、夭折した詩人・金子みすゞの2歳下の弟。ビクター専属の作詞家で、古川ロッパや岸井明のコミックソングなどを手掛けていた。

♪お使いは自転車で 気軽に行きましょ
 並木道 そよ風 明るい青空
 お使いは自転車に乗って 颯爽と
 あの町 この道 チリリリリンリン

♪そよ風がほっぺたを そっとなぜてゆくよ
 お日様も あの空で 笑って見ています
 お使いは自転車に乗って 颯爽と
 カゴを小脇に ちょいと抱え チリリリリンリン

 タンゴのリズムで軽快に、明るく、「米英的な」音楽に乗って、観客の心もウキウキしてくる。このシーンには、戦時下の緊張感や、恐怖、不安といったものは感じられない。途中すれ違う、軍事教練の学生たちも、木炭自動車も、マスクをた国民帽のお父さんも、女の子たちにもみんな、のどかな時間が流れている。現実とは乖離した「ユートピア」ではあるが、この映画の価値は、このシーン、この歌にあると改めて実感。ハナ子さんは馬事公苑の中に入り、パドックを颯爽と走る。

♪雨の日も風の日も どんな天気の日も
 私は 元気で 市場通い
 お使いは自転車に乗って 颯爽と
 片手ハンドル ちょいとすまし チリリリリンリン

 ここでようやく、ハナ子さんの婚約者で、丸の内のサラリーマン・五郎さん(灰田勝彦)が登場。明治44(1911)年、ハワイ生まれの日系2世の灰田勝彦は、父が亡くなり、兄・灰田晴彦とともに遺骨を埋葬に来日したところに関東大震災。パスポートも財産も失って、そのまま日本に移住。獨協中学(僕の大先輩です)卒業後、昭和5(1930)年に立教大学に進学、兄が結成した日本初のハワイアンバンド「モアナ・グリークラブ」のヴォーカリストとして活躍。昭和11(1936)年にビクターから「ハワイのセレナーデ」でデビュー、東宝映画にも出演して大人気に。その出自や、活動から「米英的」とみなされるが、国策映画『燃ゆる大空』(1940年・阿部豊)での颯爽とした下士官ぶりで、戦時中も大活躍していた。

 カップルの甘いひととき。「あのね、お父さんがね、五郎さんはなかなかいい青年だって」とハナ子さん。それが嬉しい五郎さん。ゴールインは間近い。この時代、恋愛結婚というのは、一般的ではなく、特に戦時下では、出征兵士と見合い相手が慌ただしく婚礼をあげて、そのまま戦地へ。というケースも多かったが、ハナ子さんと五郎さんは「米英的」な恋愛をして、結婚への夢を膨らましている。

M5 丘の青い鳥 轟夕起子・灰田勝彦

馬事公苑の近くのススキ原でランデブーする二人が歌うは、主題歌『丘の青い鳥』(作詞・佐伯孝夫 作曲・鈴木静一)。この曲は映画公開直後、昭和18年3月新譜としてビクターからリリース。レコードのアレンジも鈴木静一が手がけているが、轟夕起子がコロムビアの専属だったので、灰田勝彦の単独歌唱で録音された。映画では二人の愛のデュエットとして、印象的なススキ原のシーンでうたわれ、曲の後半は、そのまま「ハナ子さん一家」の描写となる。

 ハナ子さんと五郎さんの交際について、お父さんとお母さんが話している。五郎さんとハナ子さんは「永すぎた春」のカップルで一刻も早く結婚がしたい。しかし呑気なお父さんが「婚約時代が一番楽しいから」と、結婚は来年で、いいだろうぐらいに考えている。昭和14(1939)年という設定だから、来年は「皇紀二千六百年」のおめでたい年、という感覚もあったのだろう。お父さんがお母さんとの馴れ初めをお義姉さんに惚気ているところに、ハナ子さんが帰宅。お義姉さんから「しっかりしなきゃダメよ。結婚のこと」とお父さんの呑気な計画を聞かされる。

M6 愛国行進曲 山本禮三郎

 お父さんがご機嫌になると歌う、調子っ外れの「♪見よ東海の空明けて〜」「愛国行進曲」(作詞・森川幸雄 作曲・瀬戸口藤吉)は、「軍艦マーチ」を作曲した瀬戸口藤吉博士が、昭和12(1937)年に作曲。内閣情報局により歌詞が一般公募され「国民が永遠に愛すべき国民歌」として選ばれた。東宝はこの歌が作曲されるまでの瀬戸口博士の伝記映画『世紀の合唱 愛国行進曲』(1938年・伏水修)を製作。確かに「永遠に愛すべき」という目的は果たしていて、平成に「国民的映画」と呼ばれた「釣りバカ日誌」シリーズで、ハマちゃん(西田敏行)とスーさん(三國連太郎)の会社「鈴木建設社歌」のメロディーとして、久石譲がアレンジ。

 お父さん、調子の良いところで「ほい」とか、「こりゃ」とか合いの手を入れてしまう。それがおかしいとハナ子さん。歌唱指導を行う。「ハナ子さん一家」では、お母さん、お義姉さん、ハナ子さんの三人が、いかにして「五郎さんとの結婚式をすぐに行うか」について、お父さんに「うん」といわすべく、共闘することに。

M7 ラジオ体操 隣組の人々

 ある朝、町内会の面々が原っぱに集まって、整然と並んで「ラジオ体操」で健康増進をしている。この「ラジオ体操」も隣組単位で行われていた。その名残が現在の町内会での「ラジオ体操」に残っている。「ラジオ体操」は、昭和3(1928)年にN H Kラジオでスタート。「国民の体力向上と健康の保持や増進」を目的としてスタート。昭和14(1939)年12月には「大日本国民体操」として、今となっては幻の「ラジオ体操第3」が始まった。

 のどかな朝のひととき、ハナ子さんはお父さんに「やいと=お灸」を据えることに。今が五郎さんとの早期結婚をウンと言わせるチャンスと、お母さん、お義姉さんと練った作戦を実行する。特大のお灸をお父さんの背中に据えて、そのタイミングで「ねえお父さん、(結婚は)今年の秋でいいでしょ?」「ハイ!」と言わせてしまう。落語の「強情灸」のような笑いが展開される。

 お父さんのO Kを取り付け嬉しいハナ子さん、そのまま家を飛び出し、出勤する五郎さんに報告。「五郎さん、うまく言ったわよ!」「そうかい!ばんざーい」「さ、あたしたち、新しい家を見つけましょう」。二人は、家族と別居して二人だけのスイートホームを夢見る。この映画の四年前、昭和14年、まだ世の中がおっとりしていた時代へのノスタルジーたっぷりに、二人がマイホームへの夢を歌う。主題歌「お使ひは自転車に乗って」のメロディーに乗せて。

M8 お使いは自転車に乗って(夢のマイホーム) 轟夕起子・灰田勝彦
♪(轟夕起子)御門の内には 薔薇の木を植えましょ(フンフン)
 (灰田勝彦)玄関の格子を ガラリ開ければ(おかえりあそばせ)
 
♪(二人)私たちの 楽し家庭 家は狭くとも
 明るく暖かな 住み良いお家
 
♪(轟夕起子)お勝手は南向き 衛生によろし(フンフン)
 明るい日差しに 晩のお支度

「今晩のおかずはなんだい?」「今晩はおさつのお煮つけよ」
 
♪(二人)私たちの 楽し家庭 おかずはなんでも
 二人で向かえば 楽しい夕餉

♪(灰田勝彦)台所も書斎も みんな南向きで(そうよ)
 やがて生まれる 坊やのためにも
(轟夕起子)南向きの暖かな 子供部屋

「おいちょっと待ってくれよ。そう、どの部屋も南向きじゃ、ひと川並べで」「いいや構わないわ

♪(二人)お部屋の一列 励行時代

 歌の途中から近所の皆さんが集まってきて、歌い終わりで「お・め・で・と・う」と二人を祝福する。

 やがてハナ子さんと五郎さんの新ホーム。戦時体制の時代には相応しくない、アメリカナイズされた広い、平家の一軒家。ある朝の二人の朝が、時計のリズムに合わせて描かれる。ハナ子さんは朝食の支度、五郎さんは部屋の掃除。それぞれの動き、カッティングが、時計をイメージしたリズムに合わせて小気味良く展開する。鈴木静一の音楽、マキノ演出はハリウッド・ミュージカルのようで楽しい。時計はまもなく9時、慌ててご飯を書き込む五郎さん。なんのことはない、家の時計が30分進んでいた。それに気づいた二人、ほっと一息。

 そこで五郎さん「今日は賞与日」だから、会社が引けたら、お父さん、お母さん、お姉さん、部隊長坊やに食事をご馳走しようと提案。ハナ子さん、朝からウキウキ。昼には、電話ボックスから五郎さんの会社に電話して「洋服がいい、お着物がいい?」と何を着たらいいか相談。五郎さんも電話口で甘いトーク。それを会社の同僚に聞かれて・・・みたいな呑気な描写。こういう何気ない「かつての日常への郷愁」は、マキノ監督の狙いでもあり、観客は「この非常時に」とめくじらを立てることなく、一緒にハナ子さんと五郎さんの蜜月を楽しんだのではないかと。

M9 “紺のお召し” 轟夕起子

♪一日の お勤め済んで
日が暮れて 楽しい家庭の
ひとときを 二人で囲む晩餐の
なにはなくとも ああせめて
主人のすきな 紺のお召し

 ハナ子さん、五郎さんのリクエストの紺の着物を着て、実家にやってくる。結局、お父さん、お母さんたちは、五郎さんのお誘いを「ご辞退」することに。その理由は「倹約第一」ということよりも「見せつけられたくない」「二人だけで楽しんでらっしゃい」というもの。幼い部隊長どのは、一緒に行きたくて駄々をこねる。ハナ子さんの帰りしなに、郵便配達がお義姉さん宛の「軍事郵便」を配達。「これがあたしの賞与」と嬉しそうなお義姉さん。

 そして夕方、ハナ子さん、いそいそと丸の内のオフィス街へ。世田谷から丸の内に向かうバスの中、嬉しそうなハナ子さん。B G Mはタンゴアレンジの「お使ひは自転車に乗って」。クラクションもリズムに合わせて、というのが楽しい。車内ロケーションで、車窓の風景に撮影された昭和18年の空気を感じる。ハナ子さん「賞与・賞与・賞与」と独り言。車掌さんが「切符をお切り願います。どちらまでです?」と聞くと「は、あの賞与までです」。車内大爆笑。こうした「サザエさん的な笑い」「ハナ子さん」から。

 バスは晴れがましくビルが立ち並ぶ丸の内へ。帝都の中心、日本の経済の中枢という晴れがましさがある。家族が来ないことを聞いてほっとする五郎さん。「実は賞与、国債でくれたんだ。賞与もお国への御奉公なんだってさ」。ならばとハナ子さん、外食はやめて「お父さんの家に行って、お茶漬け呼ばれましょうよ」とチャッカリ提案。これも「サザエさん的」と戦後脳は思ってしまう。その後をつけているお父さん。実はお願いがあるのです部隊長を連れて、密かに、娘夫婦のランデブー・ウォッチをしていたのだ。

M10 楽しい我が家  轟夕起子・灰田勝彦

 久しぶりにランデブーを楽しむハナ子さんと五郎さん。デュエットで歌うは、「お使ひは自転車に乗って」のカップリングで、轟夕起子と霧島昇が吹き込んだ「楽しい我が家」(作詞・薗ひさし 作曲・鈴木静一)。歌詞は映画オリジナル、タンゴアレンジがモダンな味わい。

♪一日のお勤め済んで 日が昏れて 
楽しい家庭の ひとときを 
みんなで囲む 晩餐の
何はなくとも あゝせめて
みんなで楽しく 語りましょう

 季節はめぐって、ハナ子さんご懐妊の知らせを聞いたお父さん。「孫ができるんですよ」。交番の巡査に「これこそ二千六百年の赤ちゃんですかな」と嬉しそう。お父さんが娘夫婦の家を訪ねると、なんと五郎さん、ハナ子さんが近所の子供たちと「かくれんぼ」をしている。それが腑に落ちないお父さん。ハナ子さんから「かくれんぼツモリ貯金」をしていると教えられる。「映画を見たツモリ1円20銭」「銀ブラをしたツモリ三円」「ハイキングしたツモリ三円五十銭」「芝居見たツモリ五円」とメニューが壁に貼ってある。いよいよ「勤倹貯蓄」の時代である。「贅沢は敵だ」のスローガンで知られる「奢侈(しゃし)品等製造販売制限規制」(七・七禁令)が発令されたのは昭和15(1940)年7月7日のこと。

 ハナ子さんたちの暮らしも次第に非常時へ。さて、ハナ子さんの倹約に大いに賛同したお父さん、一緒にかくれんぼを始めると、そこへ五郎さんの妹・チヨ子さん(高峰秀子)が、犬を抱いて現れる。ここで高峰秀子が一曲歌うシーンがあったが、前述のように、検閲でカットされてしまった。

M 11    “おかしいわったら” 高峰秀子

・第五巻 
チヨ子(高峰秀子)が軽薄なる態度で、歌を唱いながら犬を連れて歩く箇所、切除33メートル(約1分12秒)(理由・風俗)

 チヨ子の登場シーン、犬をハーネスにつないで、おめかしして、兄夫婦の家に。玄関ではお父さんが尻を端折ってかくれんぼの最中。チヨ子さんは「大人なのにおかしい」、お父さん「おかしくない」の会話から、お父さんとの言葉の応酬になる。オペレッタ的な演出が楽しい。

♪(お父さん)もういいかい
(チヨ子)おかしいわったら おかしいわ
(お父さん)もういいかいったら もういいかい
(チヨ子)おかしいわったら おかしいわ

(お父さん)おかいいかいったら、おかいいかい
(チヨ子)おかしいかいったら おかしいかい

 とこんな調子である。この楽しさ。この時、高峰秀子さんは19歳。この年はマキノ監督『阿片戦争』、青柳信雄監督『愛の世界 山猫とみの話』(1月14日)に出演、女優として進捗著しかった頃。東宝のトップスターを担いつつあった。今でいうアイドル的存在、ハナ子さんにご挨拶して「ちょっと口を空けてくださいな」。ハナ子さんの開いた口に「赤ちゃんこんにちは」と実に可愛い。「ツモリ貯金」のことを知って「立派だわ」とチヨ子さん。「でも、もっと合理化しなくちゃいけないわね」と持論を展開する。

 「おじさんのお家は広いんだから、兄さんたちが一緒になるのよ、それで家賃も節約し、共同炊事で食事も経済、これこそ本当の新体制」と同居を提案。お父さんも五郎も、ハナ子さんも感心。早速引っ越すことに。で、チヨ子さん、連れてきた犬のチビを抱いて「ね、おじさん、こんな小さな犬だったら、節約のお邪魔にはならないでしょ?」とちゃっかり屋のところを見せる。

 ここでチヨ子さんの言った「新体制」とは、昭和15(1940)年に締結された日独伊三国同盟のナチスドイツやイタリアファシスト党を模して、内政面で国民組織を結成しようとした政治運動のこと。国民精神総動員のもと、隣組が内務官僚と警察の指導(監視)のもとにさらに厳しく整備された。さて、ここで「楽しかった戦前」の空気が一変、ハナ子さん夫婦のスイートホームも終わりを告げて、お父さん一家へお引っ越しとなる。

 五郎さんたちが引く荷車が、町内に着くと、待ってましたとばかりに「隣組」の面々が「お帰んなさい」の大合唱でお出迎え。「またみんな、一緒になることになりましたよ」とお父さん。「何軒あってもひと世帯ですからな」と。「隣組=家族」という全体主義の考え方をにこやかに話す。大熊さん(小島洋々)も「大家族主義結構ですな」とひと笑い。そこでチヨ子さんが自己紹介。ここで彼女も「隣組」の一員となる。「ハナ子さんに赤ちゃんができるそうですな」と木村さん(嵯峨善兵)。さらに、お祖母さん(藤間房子)の息子・勇さん(中村彰)が戦地で負傷して復員してきたと、挨拶に。

 脚を負傷した傷痍軍人の勇さんに、山田さん(岸井明)が「ね、勇さん。あたしの脚で良ければすげ替えて、もういっぺん(戦地へ)行っていただくんだがな」「あなた、あなたの脚じゃ余計ご不自由よ」と奥さん(橘薫)。これでひと笑いとなる。だんだん現在の目では「笑うに笑えなくなってくる」。映画はここから「隣組」のコミュニティ生活へとシフトしていく。
そういう意味では、昭和14年から16年にかけての、庶民たちが生きてきた日々を追体験する映画でもある。

 次のシークエンスは、町内会全員による「隣組」のハイキングシークエンス。ここも次々と歌や踊りで楽しく構成されている。「歩るけ歩るけの道」

M 12  緑の小径  轟夕起子・灰田勝彦・コーラス
M 13  歩くうた  藤間房子・山本禮三郎

 ハイキング・ソングのトップは、この映画の主題歌としてリリースされた灰田勝彦の「緑の小径」(作詞・門田ゆたか 作曲・灰田晴彦)。作曲は、灰田勝彦の兄で、日本初のハワイアン・バンド「モアナ・グリークラブ」のリーダー・灰田晴彦(有紀彦)。「丘の青い鳥」のカップリングとして、映画公開の翌月、昭和18年3月にリリースされた。

♪萌える緑の 丘超えて
 雲の彼方へ 元気で行こうよ
 若い生命を 彩る空の
 永遠の青さに 歌がわく

 音楽はここで転調、お祖母さん(藤間房子)が「なんまいだ、なんまいだ」と、昭和16(1941)年、N H K「国民歌謡」最後の曲となった「歩くうた」の替え歌を歌い、お父さんが「こりゃ」と合いの手を入れながら歩く。おそらく場内大爆笑だったろう。この「歩くうた」の作詞は高村光太郎、作曲は飯田信夫。レコードでは徳山璉が歌った。

♪なんまいだ なんまいだ(ほい)
 なんまいだ なんまいだ(こりゃ)
 なんまいだ なんまいだ(ほい)

♪森をめぐれば 木陰から(ほい)
 萌える日差しよ 小鳥の歌よ(こりゃこりゃ)
 きりかきららか 千草の露か
 露が讃える 若い夢

 チヨ子さん、キョロキョロと当たりを見渡し、遅れて、ステッキをついて歩く勇さんの元へ駆け寄る。一方、巨漢の山田さん、脚にきちゃってヘトヘト、その場に座り込んでしまう。

M 14  うさぎとかめ(替歌) 岸井明・橘薫

 ここで山田さんが座り込んで、奥さんとの言い合いが童謡「うさぎとかめ」(作詞・石原和三郎 作曲・納所弁次郎)の替え歌でコミカルに展開。岸井明は「タバコやの娘」(作詞・薗ひさし 作曲・鈴木静一)などこうした女性との掛け合いによるコミックソングを得意とした。音楽担当の鈴木静一は、数多くの岸井明のコミックソングを手がけてきたので、このあたりの呼吸は抜群。岸井明のヘトヘト感と、小柄だけどパワフルな橘薫のセリフ、歌の応酬が見事。得に後半部分、山田さんが疲れ果ててグーグーと寝込むクライマックスのやりとりが、音楽と芝居がうまく一体化している。ロケーションで撮影しているが、おそらくプレスコで撮ったものだろう。デュエットの多い本作随一のコミック・ソングである。

♪(橘薫・岸井明)
 あなた なんだ なにさ なんだ 
 あなた なんだ なにさ なんだ
 あなた なんだ なにさ なんだってば

 (橘)世界のうちで あなたほど
 (岸井)歩みののろい ものはない ってわけか
 (橘)どうしてそんなに 遅いのか

 (岸井)なんと言っても そりゃ無理だ
 (橘)なにが無理なの こんな道
 (岸井)それでも僕は 太ってる
 (橘)そのかわり食べるの 二人前
 (岸井)歩くと食べるは 別問題
 (橘)朝からむしゃむしゃ 食べ通し
 (岸井)朝からてくてく 歩き詰め 

ここらで
 どうなさるの?
ちょいと
ちょいと?
 ひと・・・
 えー?
 やす・・・
 えー?
 みー・・・
 まあ呆れた
 ぐーぐーぐーぐー(と寝てしまう)

M 15 東宝舞踊隊の踊り 振付・益田隆

 
 広々とした草原で東宝舞踊隊(日劇ダンシングチーム)の面々による華麗な群舞が繰り広げられる。このダンスシーンの一部も、次のような理由でカットされた。

・第六巻 
草原における少女たち(東宝舞踊隊)の舞踏の画面中、縦列にて一人ずつ正面向きとなり、著しく大腿部を露出して、飛び上がりながら、前進する大写し箇所、切除九メートル(約20秒)理由・風俗。

 踊り子たちが投げたボールと、ハイキングの子供たちが追いかけるボールがリンクして音楽は、やがてワルツから、勇ましいマーチへと転換する。

M 16  月月火水木金金 高峰秀子・中村彰

 脚の悪い勇さんをフォローして歩くうちに、チヨ子さんはすっかり勇さんと仲良しになる。「月月火水木金金」(作詞・高橋俊策 作曲・江口源吾<江口夜詩>)のマーチに合わせて、思い思いに歩く「隣組」の人々の誰もが、チヨ子さんと勇さんのカップルに釘付けになる。この歌は海軍大尉・津留雄三の「まるで月月火水木金金だ」と漏らした一言が海軍で広まって、それを軍歌にしたもの。昭和15(1940)年に「海軍省軍事普及部推薦曲」として内田栄一とヴォーカルフォア合唱団のレコードが発売された。これも「ドリフ大爆笑」(1977年)の主題歌として歌われ、その次に採用されたのが「隣組」の替え歌「♪ド・ド・ドリフの大爆笑〜」だった。

 この勇ましい軍歌が、チヨ子さんと勇さんの「愛を語らう」デュエットソングとして描かれる。前半、ハナ子さんと五郎さんが甘いラブソング「丘の青い鳥」を歌ったシーンとの対比。当時は狙った訳ではないだろうが、あまりにも、あまりにもである。ハナ子さんの世代の恋と、チヨ子さんの世代の恋。「うた物語」として描いているだけに、とても違和感を感じる。

 この二人の姿は、原作者・杉浦幸雄画による紙芝居として画面に展開され、それが二人の婚礼の宴であることがわかる。大熊さん(小島洋々)が紙芝居を説明「というようなわけで、帰還勇士の勇くんと、チヨ子ちゃんとを、隣組でお仲人をしようではないか、ということになりました。本日、ここにめでたい隣組結婚式を挙行する運びとなったのであります」

大熊さん、立ち上がり演説する。
「今や、日本は真に非常時であります。この時に当たって、かかる気持ちの良い結婚式が多くなりますことは、実に嬉しいことであります。多くの娘さんが、チヨ子さんのごとく、どんどん傷痍軍人の妻に成られんことを、切望します」

 この辺りは、内務省の検閲官は「国策に沿う」と満足だったろう。時局迎合の国策映画とはいえ、こういうアジテーションには違和感がある。ハナ子さんと五郎さんの時はよかったなと。

 表では子供達が「チリン、チリン、号外」と号外配達を追いかけながらはしゃいでいる。その号外はやがて、幼き部隊長どのによって結婚式に届けられる。「おじいちゃん、号外だよ」。手にしたお父さん、興奮して「これは、これは大変な発表ですぞ」と日独伊三国同盟が締結したことをみんなに伝える。そこで大熊さん「起立!」で万歳三唱! なんともはや、である。

M17  なんだ空襲 隣組の人々

 いよいよ「隣組」の連帯感の見せどころ、ということで敵機来襲に備えての大掛かりな防空活動・防火訓練が開催される。山田さん(岸井明)を班長に、一同張り切って、まるで「運動会」のように訓練が繰り広げられる。が、来るべき空襲に備えて、の割にはおよそ緊張感がない。というのも、日本の本土空襲は、昭和17(1942)年4月18日の「ドーリットル空襲」以来、まだ起こっていなかった。この空襲では日本の被害は死者87名、重傷者151名、家屋全壊・全倒122棟以上だったが、精神論の方が強く、ほとんどの国民がさほど脅威に感じていなかった。

 国民の「防空体制」は。昭和14(1939)年8月「家庭防空群」がおよそ10戸単位で一つ組織され、それを「隣組」が担っており、年間60回ほど、月に5回も行われていた地域もある。みんなが一丸となって消化活動をすれば、空襲なんて怖くない。という風に誰もが思っていた。このシーンにコーラスで流れる「なんだ空襲」(作詞・大木惇夫 作曲・山田耕筰)は、昭和16(1941)年、コロムビアから霧島昇、松原操、二葉あき子によるレコードが発売され、こうした「防空訓練」の精神的なバックボーンとなった。

♪警報だ、空襲だ
それがなんだよ 備へはできてるぞ
こころ一つの隣組
護る覚悟があるからは
なんの敵機も蚊とんぼ とんぼ
勝つぞ 勝たうぞ
なにがなんだ空襲が
負けてたまるか どんとやるぞ

♪警報だ 空襲だ
焼夷弾なら 護れこの火の粉だよ
最初一秒 ぬれむしろ
かけてかぶせて砂で消す
見ろよ早業どんなもんだ もんだ

♪警報だ 空襲だ
こわい こわいも瓢箪おばけだよ
さほどでもない 毒瓦斯よ
もつとこわいが 流言だ
どつこい その手に かゝるな乗るな

♪警報だ 空襲だ
どんなマスクも防空壕でもよ
心こめなきや そらだのみ
鉄の心と火の意気で
持場 持場に かけよう いのち

♪警報だ 空襲だ
敵機何台来ようと平気だよ
こゝに頑ばる やまとだま
守るわが家 わが町だ
一つ輪になるちからよ ちから

 誠に勇ましい歌詞である。「隣組」が心一つにして、護る覚悟さえあれば、敵機なんて怖くない。とにかく精神論で乗り切らせようというロジック。三番の「もっとこわいが流言だ」や五番の敵機がいくら来ても「平気だよ」と、その場に止まらせようとする。この「空襲なんて怖くない」の精神論は、東日本大震災の原発事故の時の「放射能に負けない身体」や、昨年の「コロナはただの風邪」に通じる。まさに「百害あって一理なし」。これこそ流言ではないか。この映画の防空訓練も、どこかのんびりしている。この翌年、昭和19(1944)年から米軍機による本土空襲が本格的に始まり、昭和20(1945)年の東京大空襲では10万人の婿の被害者が出たことを考えると、複雑な気持ちである。建前を正当化させるためのミスリードである。

敵機来襲! 東宝特殊技術課による特撮シーン

 その頃、ハナ子さんはいよいよ臨月。今日にも赤ちゃんが産まれそうで、布団に横になりながら「♪警報だ 空襲だ」の歌声を聴いている。しみじみ微笑んで「お母さん、きっといい子ができるわね」「ええ」

 その夜、高射砲が敵機に向けて砲撃を開始。夜の闇をつんざいて、敵機来襲である。この辺りから『ハナ子さん』の時間経過が怪しくなってくる。昭和14年に結婚して、昭和16年に出産。だけど、本土空襲とは、こはいかに。ここは「隣組」の日頃の成果を実践するデモンストレーションの意味で描いているのだろう。しかし円谷英二課長率いる「東宝特殊技術課」による「本土空襲」のシーンはなかなか迫力がある。闇を照らすサーチライトが、雲間を裂いて、次々と飛来する敵機を浮かび上がらせる。ロングショットでは、アニメのサーチライトが、空をゆく敵機の腹を光らせ、実写の高射砲がそれを迎え撃つ。ミニチュアの爆撃機からは、次々と爆弾が投下される。閃光により、ミニチュアのビルが一瞬浮かび上がる。のちに円谷特撮で描かれる空襲シーンの、おそらくこれが最初かもしれない。

 ハナ子さんの家では、家族たちがまんじりともせずにじっとしている。女性たちはハナ子さんの布団を囲み、男性たちは隣の応接で緊張の夜を過ごしている。国民服を着た五郎さんが部屋の中をウロウロ歩き、やはり国民服を着たお父さんが「なんです。男のくせに。落ち着いて」と椅子に座ってグラフ誌を開いている。

 チヨ子さんも「兄さん、みっともないわよ。男のくせに。なにさ、みっともない」といつもデコちゃん節、投げやりな感じで呆れている。チヨ子、襷をかけようとするもめちゃくちゃ。やはり落ち着かないのである。お父さんに「チヨ子ちゃん、落ち着いて。なんです、その襷は!」。あやまるチヨ子さん。しかし、肝心のお父さん、手にしたグラフ誌が逆さま、というこれまた「サザエさん」的な笑いとなる。

 このシーン。空襲への恐怖による緊張感ではなく、あくまでも「ハナ子さんの出産」を心配しての緊張感というのがすごい。あくまでも敵機は、我が日本軍の高射砲で撃退するから大丈夫。という感じなのである。これまた建前を正当化するためのミスリードである。

 やがて、空襲警報解除。ハナ子さんは無事、男の子を出産する。ハナ子さんは国の宝を産んだのである。

M 18 おもちゃの兵隊 東宝舞踊隊 振付・益田隆

 ハナ子さん、五郎さんの間に産まれた赤ちゃんのためのオモチャ。メイドイン・オキュパイド・ジャパンのブリキ玩具が多い。戦前、外貨獲得のために、日本の玩具商はアメリカの発注で玩具を製造、次々と輸出していた。『新婚うらおもて』(1936年・山本嘉次郎)では、そんな玩具商の若旦那を岸井明が演じていた。画面には勇ましいタンクのブリキ玩具や、ハリウッドのコメディアン「かぼちゃ大王」ことW Cフィールズを模した太鼓叩き人形、ドラムを叩くキューピー顔のおもちゃの兵隊などなどがアップになる。

 ここからプロダクション・ナンバーとなる。大きなドラムの上に、おもちゃの兵隊のいでたちをした東宝舞踊隊の女の子たちが、飛び跳ね、リズムを刻む。ハリウッド・ミュージカル、ローレル・ハーディ主演『玩具の国』(1934年・ガス・マインズ)のようなセットだが、宝塚歌劇団では定番だった「おもちゃの兵隊」ダンスが繰り広げられる。結構長いシークエンスだが、終わり方が不自然である。これも前述のように検閲で一部カットされた。

・第八巻 
オモチャの楽隊(東宝舞踊隊)の舞台画面は、楽隊の更新箇所残存の上、切除71メートル(約2分35秒)理由・風俗。

 確かに今の目で見ても「米英的」つまりハリウッド・ミュージカル的で楽しいシーンである。ここでも益田隆の振り付けは、マスゲーム中心で、ピカピカのリノリウムのセットの床にダンサーたちが反射したり、夢のようなひとときである。

 赤ちゃんが産まれ、めでたいこと続きの五郎さんが、いよいよ応召されることに。丸の内のオフィスでは、社内アナウンスで「皆さんにお知らせがあります。櫻井五郎さんに軍務公用です」。社長以下、重役たちが五郎さんとともに社長室(多分)から出てきて、吹き抜けのセットの階段を上り、2階のバルコニーへ。このシーンのためのセット設計だったのだろう。モダンなデザインのオフィスは、戦後のクレージー映画で植木等さんが歌って踊る会社のセットのような感じである。これも東宝映画の伝統だろう。

 社長「この度、我が社の櫻井五郎くんに名誉のお召しがありました。我々で盛大に送りましょう」、五郎「ではみなさん行ってまいります」、社長「櫻井五郎くんばんざーい」。これが当時の「日常」であり、「建前」でもあった。でも、実際に、突然、激戦の最前線へ、となると家族のことも心配だし、何よりも「突然の別れ」は、建前では「名誉なこと」であったとしても本音は「悲しい」ものである。

M 19 丘の青い鳥 轟夕起子・灰田勝彦

 「主婦之友」昭和16(1941)年9月号掲載の杉浦幸雄の原作では、ちゃんとここで、ハナ子さんの「本音」が描かれていた。それが、マキノ正博監督のモチベーションだったが、その別れのシーンで、ハナ子さんがそっと涙を吹くショットを中心としたクライマックスは「公安」を害するとの理由で6分18秒もカットされてしまった。ハナ子さんと五郎さんの独身時代の思い出の馬事公苑、すすき原で、可愛い坊やと三人で過ごす最後の時間。五郎さんが、戦地でハナ子さんを思い出すために買ってきた「おかめのお面」を頭の後ろ着けて、ひょうきんに踊り出すハナ子さん。ニッコリ笑っていたハナ子さんが、突然パタンと倒れて、姿が見えなくなる。「ハナ子!」と五郎さんが叫ぶ。そこでハナ子さんの涙が映るはずだったが、音も絵も不自然な切れ方をして、唐突に主題歌「丘の青い鳥」の後半が流れて、エンドマークとなる。

 この時の検閲について、マキノ雅弘監督は、岩本賢児と佐伯知紀のインタビューにこう答えている。

マキノ あの芒っ原で轟が喜んで笑ってパッとひっくり返るでしょう。あの後、泣いてくんですよ。歌の中で泣いていくんです。明るい生活をしなきゃならん、けど、自分の亭主を喜んで戦場に送る馬鹿はいませんよねぇ。だから泣かしたんですよ。でも泣いちゃ悪いというので、後ろにつけていたお面をクリッと前にまわすんです。で、「ハイ」と言って轟が立つ、灰田がそばへ寄っていく、と、そのお面がピリッと震えるんです。これが狙いだったんです。

―いかにも監督らしい、いい場面ですね。

マキノ 面がピリピリっと震えてると泣いたように見えるんです。べつに役者が泣いてるわけじゃなくて、こっちは「面、震わせろ」と言ってるだけですけど。それで、灰田が来て「泣くな、泣いちゃいけないだろう」と言うんですよ。それで轟が面をとって、涙がピカリと光って、振りかえってニコッと笑った時に「海ゆかば……」と音楽が出たんですよ。どうせ兵隊に行くんだから「海ゆかば」流さんと兵隊に行けんでしょう。女の笑った顔からそれをいれて、二人がズーッと芒っ原を消えていくという風にやったんです。
「聞き書き キネマの青春」(岩本賢児・佐伯知紀 リプロポート1988年)


 マキノ監督は、このカットを命じた内務省情報局の事務官について「この時の相手は検閲官よりもずっと偉い事務官・・・そいつが絶対のボスで・・・熊埜御堂(定)、これはちょっと忘れられん名前ですね」(前掲書)と話している。

 戦時下に作られた国策映画で、検閲で19分もカットされたとはいえ、この『ハナ子さん』は、P .C. L.映画製作所の『音楽喜劇 ほろよひ人生』(1933年・木村荘十二)の時代から連綿と作られてきた「音楽喜劇」の一つの到達点でもある。日本の娯楽映画がハリウッド・ミュージカルを意識して、ここまでのレベルまで昇華していたことがよくわかる。鈴木静一の音楽、東宝管弦楽団の演奏のクオリティ。東宝舞踊隊のアンサンブル。バズビー・バークレイの「バークレイショット」を意識していたのは、マキノ正博監督ではなく、振付の益田隆だったのかもしれない。というのも、この『ハナ子さん』のすぐ後、エノケンと高峰秀子の『兵六夢物語』(1943年4月1日・青柳信雄)のクライマックス、東宝舞踊隊のダンスナンバーで、再び、バークレイショットの群舞のシーンがあるからだ。検閲官は「米英的」と感じずに、ハリウッド・ミュージカル風のショットを容認したのだろう。俯瞰撮影なのでダンサーの大腿部まで写ってないので。


参考文献
平成24年度、岐阜大学公開講座 明るい銃後のミュージカル映画―マキノ正博『ハナ子さん』について 内田勝 




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