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ゼロファイター世界を翔ける男 あとがき

「飛行機貸して下さい」。
アメリカで飛行免許をとった私は、富山空港ビルの一角にある北陸航空のドアを開けて、そう言った。
私は、郷里である富山の実家の空を自分で飛んでみたかったからだ。
飛行機はレンタカーのように、看板を上げて“飛行機貸します“と宣伝はしていないが、実際には貸してくれる。私はそれを知っていた。

私は戦後の昭和24年の生まれだが、小さい頃「ゼロ戦に乗って空を飛ぶ」夢をみた。
夢を見た子供の頃はまだ、実際に飛行機を見たことも乗ったこともなかった。漫画でゼロ戦の存在を知った。

戦争は怖くて嫌いだが、なぜか夢に出てくるのはゼロ戦。夢に出てくるシーンは決まって、近所の神社裏手の場所にゼロ戦が風上に向かって今まさに飛び立とうとしているものだった。

私の生まれた大沢野町は風の強いところだ。その南から吹く風にむかって、パイロットは操縦席に座り白いマフラーをなびかせ、キリリと前方を見ている。そのとき私は、なぜかバケツを手に持ち、右手30メートルのところで憧れの眼差しでみている。洗車ならぬ飛行機を洗う手伝いでもしているのだろう。毎回同じシーンだ。ところがある日、後部座席に乗せてもらって胸が張り裂けそうにしている自分がいた。
「本当に飛び上がるんだ!うれしい!怖い!・・・・・・」
あとはもう覚えていない。

小さい頃から夢見た郷里での飛行。ゼロ戦という飛行機ではないが、それが今実現しようとしている。私の申し出に、北陸航空の小瀬所長が聞き返してきた。
「あ、そうですか。免許はお持ちだとおもいますが、飛行時間はどのくらいですか?」
「単発、多発、グライダーを合計して約120時間です。」。
「では、一緒に飛んでフライトチェックしましょう。ご存知とおもいますがそれがルールです。それでOKなら、単独でお貸ししましょう。では早速空へ上がりますか」。

 その時横にいた一人の小柄だが、エネルギーが全身から溢れるような男が私に声をかけてきた。
「あなた、アメリカのどこで免許を取った?」
「カルフォルニアのコロナ・エアーポートです。ロスから東へ車で1時間位のところです」。
「その近くに、チノ・エアーポートというのがあるのだが、そこに世界でただ一機飛べるオリジナルのゼロ戦がある。あなたご存知か?」
「はい、現地の人に聞いて見に行きました」。
「そうか。あれはサイパン島で捕獲した私の部隊のゼロ戦52型なんだよ。私もサイパン島で同型のゼロ戦で空戦をやっていたんだ。捕獲された機は、日本から送られてきたばかりで、まだ機銃などの儀装がすんでいなかった。だから軍の21空廠(くうしょう)の支廠が儀装している途中だった。そうこうしているときに米軍が上陸してきて20機ほど捕獲したうちの一機なんだ。軍人なら逃げる時爆破して逃げるだろうが、支廠の職工さんだったから、そのままにして逃げた。それであんな完全な状態で現存しているんだ」
「えっ、あなたはゼロ戦のパイロットだったんですか?」
「えぇ、そうですよ。最後は米軍の高角砲にやられて、火だるまになりながら垂直急降下して、サイパン島の飛行場に滑り込んだんですがね」

私は昭和24年、1949年生まれ、菅原氏は大正13年、1924年の生まれだから25歳違う。数字的にはゼロ戦のパイロットは現在も生きておられて当然とわかるが、戦後生まれの私には、戦争は遠い昔のことのようにしか思えない。そこに、憧れでもあったゼロ戦パイロットの人が、目の前に時空を越えて現れたように感じた。
これが、ゼロ戦パイロット、菅原靖弘氏との出会いだった。昭和57年、1982年6月30日のことであった。

以来親交は続いた。ある時当時氏がお住まいだった名古屋の息子さんのマンションに伺った。アフリカでの2年間の氏の話に聞入り、面白くてさらに、さらにと思っているうち、調子よく飲み過ぎて帰ることができなくなり、廊下でいいから泊めて欲しいと申し出た。
すると氏は「あぁ、分かった。じゃぁ茶木さんはワシの部屋のベッドで寝てくれ。ワシはトイレが近いのでベッド脇の床で寝るから」と言われた。

相当酔っぱらった私はベッドに寝て、夜中に目が覚めた。その時思った。何も苦労していない私が高い位置にある暖かなベッドで寝ていて、身体と命を張って生きて来られた菅原さんが床で寝ているとは・・・、バチが当たるのではないかと思った。

氏の特異な体験を本にならないかとの思いは前からあった。
だがそれを書くには、飛行機の世界が分かり、出来れば操縦経験のある人で、ものが書けて、さらには世界あちこちを歩いてきた人でなくては書けないだろうと思った。見渡してもそんな人はいなかった。
だが、ふと気が付いた。一人いた。私自身だ。拙くても私ならその要件を満たしている。よし! 書こうとその時決意した。

が、書くに当たっては難儀した。飛行機という共通項で繋がった菅原氏と私だが、私は戦争を経験していないので、軍隊の階級も分からなければ、陸上攻撃機と艦上爆撃機がどう違うのかも知らなかった。そんな私だから、その後名古屋から神奈川県の逗子に引っ越された氏の家へ何回も泊り込みで出掛けた。弁当を持参で行く時もあった。そのとき私はいつも世界史と日本史の本、そして地球儀を抱えて行った。

氏の経験からくる話は、歴史の中のある部分を言っているのであり、そのスケールは地球をベースにしているからである。家へ帰ってきてからも一日に3回、4回と電話する日も多くあった。

そのとき私は、氏がいろいろ話してくださることに対して、「聞ける喜び」を感じた。もし資料だけを元に歴史的考察を加えて書こうと思ったら、10倍の時間をかけても描けなかっただろうと思う。

戦闘機同士の空戦では10メートルまで接近して射撃するときのことや、ゼロ戦を急降下に入れる時は、くるりと回して背面飛行すると同時に急降下に入れた方が早いし、マイナスGが掛からないなどのことは、両手を使ってのジェスチャーがなかったら理解し得なかっただろう。

さらに幸いしたことは、氏は悠悠自適の生活を送られており、私の訪問や質問に多大な時間を割いて下さったことだ。
もう一つあえて言えば、私自身が世界をいろいろなことで旅した経験と、それに加えて自動車ラリー、ヨット、そして飛行機の操縦をする経験からナビゲーションが分かり、世界を地球儀としてみることがある程度できたことも寄与しているかもしれない。

いつかは書きたいと思い始めてから20年、それがようやく2002年12月に単行本として完成した。発売後は、菅原氏の講演会も2回開催し、現役の自衛官の方や、平和祈念展示資料館の方にも参加いただいた。
また平和祈念展示資料館が銀座の松屋デパートで主催された展示会に、菅原氏の大型パネルも展示して頂けた。


単行本を発売後開催した第1回の菅原靖弘氏の講演会。
東京都文京区にて。
左端が筆者茶木寿夫 右が菅原靖弘氏


第2回の菅原靖弘氏の講演会。
左列中央で両手のジェスチャーを交えて話されている人が菅原靖弘氏
現役自衛官の方や、平和祈念展示資料館の方にも出席頂いた。
東京、渋谷にて

菅原靖弘氏は、2012年1月22日に永眠された。享年88歳だった。
氏との交流を感謝するとともに、氏の特異な体験を少しでも多くの人に伝えたいとの思いから、2022年に文庫本としても出版していただき、そしてWeb版としても出せたことを、嬉しく心から思う。

この物語が、平和への希求、生きる指針の参考として、一人でも多くの人に読んでもらえたらと願っております。
宜しければ、どなたか一人にお勧め頂ければ、嬉しく思う次第です。

著者 茶木寿夫

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