ホノルル国際空港が、日本人の名前に改称
このホノルル国際空港の名前が、2017年4月27日から正式名称が『ダニエル・K・イノウエ国際空港』に改称された。今回はこれに関連する嬉しい話、悲しい話を記してみたい。
馴染み深い ホノルル国際空港
私は以前、ハワイのホノルル国際空港でフライトトレーニングを受けていた。
その隣にはアメリカ軍のヒッカム飛行場やフォード島があり、そのすぐ近くに真珠湾攻撃で沈んだ戦艦アリゾナがある。
飛行トレーニングでは、ホノルル国際空港を離陸すると、普通は入れない軍のフォード島の滑走路を使って、タッチ&ゴーを繰り返していた。これは着陸するとそのまま再度エンジンをふかして離陸するパイロット必須の訓練である。
この場所を1941年12月7日(現地時間)に、日本軍が真珠湾攻撃をした。まさにその場所を日本人の私が飛んでいると複雑な気持ちになった。
嬉しい話 真の英雄 ダニエル・イノウエ
さて、前述のとおり、このホノルル国際空港の名前が、2017年4月27日から正式名称が『ダニエル・K・イノウエ国際空港』に改称された。
ダニエル・イノウエ氏は私が敬愛する人物の一人である。だから嬉しく思った。
ダニエル・ケン・イノウエ(Daniel Ken Inouye、日本名:井上 建〈いのうえ けん〉はハワイ生まれの日系二世である。
彼は医師を目指していたので、太平洋戦争がはじまるとハワイでの医療支援活動に志願。その後アメリカ人としての忠誠心を示すためにアメリカ軍に志願し、アメリカ陸軍の日系人部隊である第442連隊戦闘団に配属され、ヨーロッパ前線(イタリア)で戦い、その時右腕を失った。
右腕をなくした彼は医師の道をあきらめ、戦後弁護士の道を歩む。
1959年には民主党からハワイ州選出の連邦下院議員に立候補し当選し、アメリカ初の日系人議員となり、そして1963年から50年近くにわたり上院議員として活躍した長老議員である。
上院で尤も古参議員となり上院仮議長になった。それは大統領に何かあった時の大統領継承権第3位である。
アメリカの歴史上、日系人でそこまでの地位になったのは氏が初である。
生前、氏は「ハワイと国家のために力の限り誠実に勤めた。まあまあ、できたと思う」と述べ、2012年12月最後の言葉「アロハ(さようなら)(また現地では"愛してる")」を残して88歳で天国へ旅立った。
死去に際して、バラク・オバマ大統領は「真の英雄を失った」と述べた。
軍人、政治家として大いに貢献した実績により、空港の名前がダニエル・K・イノウエ国際空港になった。
さらには2021年12月8日から高価なアメリカ海軍のミサイル駆逐艦のダニエル・イノウエ(英称: USS Daniel Inouye, DDG-118)(全長155m)も、就役した。
アメリカ社会で人種偏見とも戦いながら、立派に人生を歩まれた氏を、私は尊敬している。
そのダニエル・イノウエ氏のことを調べているとき、ビックリする記述に出会った。
悲しい話 岸信介との会話
そのダニエル・イノウエ氏がアメリカ連邦議員として、当時の日本の首相岸信介氏が1959年にアメリカを訪れた際、岸と会談している。その時の記述が次のとおりである。
イノウエは岸に「いつか日系人がアメリカ大使として赴任するかも」と話した際に、岸から「日本には、由緒ある武家の末裔、旧皇族や華族の関係者が多くいる。彼らが今、社会や経済のリーダーシップを担っている。あなた方日系人は、貧しい事などを理由に日本を棄てた“出来損ない”ではないか。そんな人を駐日大使として受け入れるわけにはいかない」とまで言われた。
(ニュースソース:ETV特集「日系アメリカ人の“日本”」2008年9月28日放送。 ETV特集は、日本のNHK教育テレビで放送されている教養情報番組)
「貧しい事などを理由に、日本を捨てた出来損ない」と言った岸首相の言葉にビックリすると同時に、移民の気持ちを思うと、とっても悲しい気持ちになった。
ただせめてもの救いは、ダニエル・イノウエ氏が亡くなった時、時の野田佳彦首相はイノウエの妻であるアイリーン・ヒラノ・イノウエに書簡を送り「在米日系人社会の結束を強化するなど、日系関係の発展に尽力され、その功績は言葉では言い尽くせない。ご遺族、米国政府、米国民の皆さまに心から哀悼の意を表したい」と弔意を表したことであった。
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