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英語を勉強する前に勉強するべきこと

*社会人1年目の時にひそひそと運営していたブログの記事です。サーバーの解約に伴い、もったいないので文章をnoteに移動しました。若干の加筆修正はありますが、当時のノリの文章をそのまま載せています。(2021/6)

こんにちは!最近ますます英語の大切さを実感している筆者です。

冷静に考えて、世界中どこに行っても必要とされるし、日本国内で職を探す際にすら必要になるし、英語って本当に大切だなあと最近よく思います。

英語が話せるって結構環境的な要因も大きくて、親が海外勤務だったり外国人だったり、または英語教育に熱心で小さい時から英会話教室に通わされていたり。ある程度大きくなってからも、そもそもローカルな環境に慣れ親しんできた家庭には海外留学あんて選択肢ありませんし、あっても金銭的に可能かどうか怪しいです。

ですので、英語が話せると言うと何だかそれだけで優越感があり、実家も太いのかなあなんて考えてしまうのも間違いではない様な気がします。

しかし一方で、話す聞くと読み書きは案外別物であって、前者は自然と身についても後者はしっかり勉強しないとある程度以上には到達しなかったりもします。

今回は、そんな英語学習に関するトピックです。とは言っても英語学習に直接関係する話題ではなく、

英語を勉強する前に勉強してほしいこと

についてです。言い換えるなら「急がば回れ」の勉強法と言うことになります。中途半端な英語力にならないためにも、英語学習を本格的に始める前にぜひご考慮いただけたらなと思います。


先ずは日本語力をしっかり身につけること


当たり前ですが、日本人として日本で生まれ育ったあなたが日本語で表現できない内容を、英語で表現できるはずがありません。

そもそも99%の人は英語を勉強する際に単語帳等を使って単語力をつけていくと思いますが、英単語の意味がわかるのは日本語で側に意味が書いてあるからです。つまり、当たり前ですが日本語が読めないと、一生英単語の意味にはたどりつかないことでしょう。

例えば distinguish はよく「識別する」と訳されますが、識別の意味を正しく理解しようとしたことのある方は殆どいないと思われます。私もあまり考えずに文章を打っているので説得力には欠けますが、識別の「識」はおそらく仏教用語の「唯識」「阿頼耶識」などの「識」からきているのではないかと考えます。

すると「意識」や「認識」と言う単語の中の「識」も恐らくそこから来ていると判断できるかと。つまり、この一点からは、日常で使う言葉には案外仏教の思想に由来する言葉が多いんだってことに気が付くはずです。ちなみに余談ですが「主人公」と言う言葉も実は仏教の中の禅語に該当したりします。

他には religion は「宗教」と訳されますが、これは典型的な訳語の一例であって昔から存在していた言葉ではありません。「社会」「経済」「自由」「権利」なんかも全てそうです。今の我々が普段から使う日本語の多くは、実は近代以降に成立した歴史の浅い言葉達によって支えられているのです。言い換えるなら、日本語の内部で相当に西洋化が進んだ結果であるとも言えるでしょう。

少し長くなりましたが、つまり日本語がしっかり読める、日本語の成り立ちをしっかり理解している人でないとただ馬鹿の一つ覚えの様に英単語を暗記するだけのマシーンになってしまうのです。覚えた英単語を生きた英語として使うには、そもそもその訳である日本語に対する理解がないと話になりません。

ですので、中途半端な英語力を身につけるくらいなら、先ずは日本語力をしっかり磨き上げてください。そして高度な日本語の文章でも難なく理解できる様になってから英語等の外国語の勉強に取り掛かるのが順序良い学習方法かと思われます。


言葉に対する見方をしっかり身につけること


日本語についての見方の次は、そもそも言葉って何なんだろうと言うことです。

ここまで深入りするとだんだん本題から逸れてしまうので、少しで構いませんが、その少しを是非勉強していただきたいと言うのが筆者の願いです。

言葉とはある対象物だったり考え方等を表すものですが、先に言葉があってその言葉の中に対象が現れるのか、先に対象があって言葉がそれを表すのかは実はかなり難しい問題だったりします。

例えば、昔の人は今の我々が知るりんごと言う物体を見て「りんご」と言ったのだと私は思います。それが英語を話す地域ではappleと呼ばれ、両者が同じ意味で結ばれているのが現代の社会です。

例えば、麺は我々日本人からすると全て「麺」でも、中国人にとっては無数に言葉があったりします。正直私にはその違いがよくわかりませんが。

この様に、文化圏によっては、同一の対象物も違った言葉のイメージで捉えられたり、ある文化圏では一つの単語で呼ばれているものが他の文化圏では見た目や用途に従って無数の言葉に分節されていたりする事は良くある事です。この点に関して、井筒俊彦の『意識と本質』はかなり参考になると思います。ぜひご一読ください。

つまり何が言いたいかと言うと、訳語(先の「宗教」や「経済」)を除いて、英語の単語の意味と日本語の単語の意味は完全には一致しないと言う事です。そして、それは言語というものの成り立ちを考えれば実に単純なことでもあるのです。

この点から私は常々思うのですが、基本的に学校等でさせられる英文の日本語への直訳作業は無駄な要素が多いです。直訳をすると英語の中にある生きたニュアンスを消してしまうことになりますし、そもそも日本人は日本の文化的背景の下で日本語を話し、イギリス人はイギリスの文化的背景を下に英語を話すので、両者の意味が一対になるわけがないのです。

こうした見方をしっかり身につけれると、いわゆる教科書的でシステマティックな英語から抜け出すことができるかと思います。言語や文化の話は本当に奥が深いのでこの辺りでやめておきますが、詳しく知りたい方は是非上記の『意識と本質』を読んでみてください。

英語の効率な勉強法を勉強しよう


これもやりすぎると良くないのですが、考えてみれば当たり前なことです。

英語と言ってもスピーキングなのかリスニングなのか、それともただ読める様になればOKなのか。先ずはこの点をしっかりと把握する必要があります。何故なら、身につけたい英語の領域によっては勉強方法も大いに変わってくるからです。

ただ何となく単語帳を眺めているだけでは話せる様にはなりませんし、海外ドラマを字幕付きでみているだけでは英語の学術書が読める様にはならないかと思います。ターゲットがあるのならそれを明確に、その上でどんなアクションを取るのかをしっかりと見定めていく必要があります。

ですので、英語学習を効率的に進めていくためにはやはり、勉強のための勉強が必要なのも事実です。


(余談)当時を振り返る


「何言ってるかわからない人」は確かに存在するが、そう言って突き放すのではなく、「理解しようとする心」を持つことが大切だと思う。人間には言葉に先行する何かがあって、それを一生懸命伝えるために言葉が生み出されたのだと思う。言葉に乗せられた思いは、必ずしも内なる思いと一対とは言えなくても、言葉という共通認識を媒介することで、ぼんやりとおぼろげながら、相手の心の中に到達する

言葉は所詮ツールでしかない。坂本九の曲に『心の瞳』という曲がある。「心の瞳で君を見つめれば…」という歌いだしで始まるこの曲の言わんとしていること、それこそが言葉以前のあるべきコミュニケーションの姿だと、聴くたびに思う。

人間は便利なツールである言葉を生み出し、文明をここまで前進させてきた。しかし、徐々にその言葉が人間の感情に先行するようになり、人々は言葉という枠組みの中でしか己を表現できなくなってしまったのかもしれない。言葉で規定された感情を持ち、言葉で説明のできる行動をし、言葉で理解できない事象は野蛮なものとして排除される。言葉=理性の裏付けがあることこそが、文化的な人間の証である。

言語はその土地・民族の歴史や文化そのものであり、思考様式でもある。英語も日本語も、みなそうである。とはいえ、何を言っているかわからない人にも、そうでない人にも、心の中の動きは等しく存在する。言葉にするのがうまい人、下手な人。その土地の言葉でうまく表現できる人、できない人。言葉という表層部分に対し徒に拒否反応を示すのではなく、心の動きそのものに全身を傾けれる人になれたらいいな。


何を言いたかったか、思ったかというと、言語よりももっと大切な「何か」があるということです。


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