見出し画像

自動車メーカーの不正から見えてくる「『経営者の役割』放棄」

ダイハツだけかと思っていたら、日産を除く主要なメーカー5社、トヨタ、マツダ、ヤマハ、ホンダ、スズキでも、車の性能試験で不正が行われていた。


一部のメーカーでは国の基準よりも厳しい条件の検査を行っていたとのことだが、それでも不正は不正である。


日本のほとんどすべてのメーカーが不正を行っているとなると、皆が守れないような試験を課していた管轄官庁である国土交通省も大問題である。


一方、日産は日産で、下請けいじめが問題となっている。




日本の経済をけん引してきた自動車産業で、かくも多くの問題が発生ているのに驚かされると同時に、日本の他産業においても似たような問題が生まれてしているのではないかと訝ってしまう。


経営者は盛んにコンプライアンス経営を喧伝してきた。


しかし、本当のところは、経営者は自分の財布だけに興味があり、真剣にコンプライアンス経営など考えていないのではないかと邪推してしまう。


自動車メーカーの不正は、トップが不正を黙認していない限り、不正発生の原因はトップと現場のコミュニケーションの断絶にある。

自動車メーカーはもとより、最近の日本の大企業ではトップと現場のコミュニケーションが断絶している。

トップと現場のコミュニケーションの断絶は、経営者サイドに原因がある。


ドラッカーは、著書「チェンジリーダーの条件の中」で、マネジメント、すなわち、経営者の三つの役割について述べている。



ひとつは、企業の存在理由である、「経済的な成果をあげること」である。


企業の目的は経済的成果をあげることであるが 、彼は経済的成果について、「消費者が欲する財とサービスを、彼らが進んで払う価格で供給できなければ失敗である」としている。


そして、経済的成果をあげるためには、「自らに託された経営資源の生産力を、少なくとも維持、または、向上させなければならない」と説いている。



二つ目は、「働く人を生かすこと」である。


「真の経営資源は一つである。人である」とし、経営者には「働く人を生かす役割がある」とする。


そして、「人を生かすには、一人ひとりの人間を、生理的にも心理的にも、独自の特性、能力、限界を持ち、独自の行動様式を持つ生きた存在としとらえなければならない」と続ける。


ドラッカーの言葉を補足すれば、経営者は、一人ひとりが内発的動機づけに基づいて、自律的、かつ、自発的に働けるような、環境をつくり出さなければならないということである。



三つめは、「社会的責任を果たすこと」である。


すなわち、経営者には、「自らの組織が社会に及ぼす影響を処理するとともに、社会の抱える問題の解決に貢献するという役割がある。」


そのため、経営者は、「現代人と現代社会の物理的、人間的、社会的環境にますます関心を寄せる必要がある」のである。




バブル崩壊以降、日本企業の経営者では、経理部の出身者、また、経理系のバックグラウンドを持つ経営企画室の出身者が、幅を利かせるようになった。


事業部出身者はバブル戦犯であり、排除された。


バブル崩壊の後始末は、ダウンサイジングによる余剰の「ヒト」と「モノ」の経営資源の、整理と削減である。


この手の仕事には、事業に愛着を持たない、数字に強い経理出身者が向いていた。


「集中と選択」をキャッチフレーズに、数字だけ見てバサッと切るだけだから、すこぶる簡単な仕事である。




マギル大学のミンツツバーグは、彼の著書「MBAが会社を滅ぼす」で、経営者のマネジメントスタイルを、分析偏重の官僚的な「計算型」、アーティスト気取りの「ヒーロー型」、バランス感覚のある「献身型」の三つに分類している。


日本の経理上がりの経営者は、分析偏重型かどうかははともかく、間違いなく計算はできる、ミンツバーグの言う官僚的な「計算型」である。


日本の官僚的な「計算型」の経営者は、ダウンサイジングを通して、従来は最重要の経営資源と考えられていた「ヒト」を、単なる管理可能なコストとしか認識しなくなった。


なぜなら、人々のモチベーションや集団のモラールは、会計数字には直接現れてこないからである。




これによって、日本の官僚的な「計算型」の経営者は、ドラッカーの説く二つ目の「経営者の役割」、「働く人を生かすこと」を放棄してしまった。


官僚的な「計算型」の経営者は、後継者に自分と同じ官僚的な「計算型」の人間を指名した。


そして、失われた30年間、日本の大企業では、官僚的な「計算型」サラリーマン経営者がトップに君臨し続けてきた。


彼らの本当の興味は目に見える数字だけであって、彼らが自分のカネにこだわるのも、目に見えるカネという数字が、成功の証と考えるからだからである。


経営を英語では、Business Administration(日本語では事業&管理)という。


官僚的な「計算型」経営者にはBusiness(事業)従事の直接的な経験はなく、Businessの現場感覚は分からない。




ミンツバーグは、経営者としての責任ある地位には、「単に会社の株価を引き上げるのではなく、組織を強くすることを自分の役割と考えている」、『関与型』の人財が必要であると述べる。


ミンツバーグは、経営者の仕事は、「おおざっぱに言えば人の背中を押す仕事である」と言う。


そして、「リーダーシップとは、組織の構成員に活力を与え、優れた決定をさせて業績を高めること。言い換えれば、人々がもともと持っているポジティブなエネルギーを引き出すことだ。優れたリーダーは権限を委譲するのではなく、部下のモチベーションを高める。コントロールするのではなく、理解する。決定を下すのではなく、手本を示す。これをすべて、まず自分自身が組織に本腰を入れ、ほかの構成員の参加を促すことによっておこなう。」と述べている。


ミンツバーグは、さらに続けて、第16代大統領エイブルハム・リンカーンの言葉、「本人の同意なく他人を統治できるほど優れた人間などいない」を引く。


そして、経営者にはリーダーシップの正統性が不可欠であることを説明する。


「リーダーに従う人たちに唯受け入れられるだけではなく、敬われなくてはならない。マネジメントの意思以上に重要なのは、マネジメントの資格なのだ。」


Business(事業)従事の直接的な経験がなく、Businessの現場感覚は分からないような、日本の大企業の官僚的な「計算型」サラリーマン経営者に、リーダーシップの正統性があるのか疑わしい。


「やっておけ」というだけでできるほど、現場の仕事は易しくない。


経営者が現場に深く関与しなければ、今の現場の課題は解決しない。


経営者が現場に深く関与することによって、現場の人々の背中が押され、「人を生かすこと」ができるのである。




自動車メーカーの不正は、官僚的な「計算型」サラリーマン経営者の限界が浮き彫りにされた事例である。


なお、オーナー系の会社の場合には、ミンツバーグの「ヒーロー型」マネジメントとなるのであろう。


働き手不足が深刻化する中、現場と対話が出来、かつ、バランス感覚のある献身的な経営者が、日本に必要になっている。


ドラッカーもミンツバーグも、日本の高度成長の秘密が、優れた人材資源の活用にあることを学んでいる。


日本は製造業が衰退したアメリカの真似をし、人材資源の活用を忘れてしまったが、日本から学んだドラッカーやミンツバーグから教えを受けるとは、皮肉である。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?