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物事

きっかけはなんであれ、物事を始めたての頃はその物事を知らないので意図すること無く習ったことや知ったことをやるしかないしそれしか出来ない。

そのうち、物事への理解が進み習ったことや知ったことによってなんとなく、これってこう言うことだよな、こう言う物だよなって分かってくる。分かってくるとそれなりにスムーズに出来るようになる。その物事としての迷いは少なくなっていく。

だけどその物事に自身が大衆化させられてどんどん、その物事に取り組む多勢の1人に着地する。

習うこと、知ることで得れる伸び代が次第に少なくなり何でこれをやり始めたのか?自分はなんなのか?考えるようになる。

習えること、知っていくことは確かに無限にある。習って知っていくなどの過程を通して自身が物事に対しての理解を深めて成熟していくと言うのはあるのだけれど徐々にベクトルがずれていく。

結局、そう言うことではその物事に取り組んでる多勢と言う所から出られない。(別にそれで良いと思ってる人もいるだろうしそれはそれで良いと思う)

物事で自身を染めてしまえばそれは自身の始まりを消していく。

物事に染まってない(最初)→物事に染まる(理解や慣れ)→物事に染まった部分の色を抜いていく(最初を取り戻しつつも理解や慣れも組み合わせる)→???

先にも書いたけど最初は意図しない勢いや自分らしさが出ることもある。それが自分以外に伝わることで想定してない結果を得られることもある。しかしそれが許されるのは「最初だもんね」と思われる、思える時期のみである。その先は物事の理解が進んで苦しくなる時期もあると思う。色々と分かってきたハズなのに何故か自分的に上手くいかない。成長は感じるけれどそれと同時に停滞感も感じる。進んでるハズなのに…余裕が出来れば自分の立ち位置、周りの立ち位置、その差が良く分かるようになる。周りと比べないとか、自分との勝負なんて言うこともあるけれどやっぱり周りと比較して自分以外と勝負してしまう、それで色々と感じたり悩んだり考えたりするのが人間でそれで生きている、生かされてる部分もあると思う。自分は自分、そうやって思える人間はそんなに多くないと自分は思う。だから自分に集中するとかそんなことを自分にインストールするよりもその比較の中で自分がどうしていくかを自分が決めた方が自然な気がする。その比較に、勝負に晒されながら生きる。そこから降りるように綺麗事、耳障りの良い言葉や物を使って自分を腐らせるのは御免だ。

そこからもし降りれる人がいるのならそれは徹底的に比較し勝負してきた人だけなのではないかと自分は思う。

そこまで到達出来る、出来てる人は多くないと思う。

自分は正直、ありのままの自分で良いとは全く思わない。頑張らなくて良い、今の自分を受け入れる、今に満足する、あるものに感謝する…甘い言葉なんか糞だなって思う。

そんな言葉が安易に蔓延るから大して努力もしたこともない、頑張ったこともない、自分を変えようとも思ったことないやつが増えてカモになって安易な言葉を放つやつのお金になる。

安易な言葉で他人の人生の邪魔をするな、足を引っ張るなと思ってしまう。

悩み、考え、苦しみ、逃げて、右往左往して、ぶつかり、虚しくなり、落胆し、絶望し、叫び、泣き、砕けて、傷つき、疑い、戦い、開き直り、悔しがり、我慢し、耐えて、根性で乗り越えて…非効率的、時代錯誤からちゃんと必要な物を得てからだ。甘い言葉に触れるのは。

完璧なんてのは人生が終わるまでに現れることは無い。だとしたら完璧じゃない自分を感じながら自分が生きていくしかない。あれ?これがありのままの自分で良いってことじゃん笑

まぁこれが簡単ではないんですけど。

ハイ。根性根性。気合い気合い。精神論バンザイ。


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