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【僧侶的よろずレビュー】「Fight Club」(映画)

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僧侶の視点から世の中の色々なものをレビューする【僧侶的よろずレビュー】。
今回は1999年の映画「Fight Club」をレビューします。
ネタバレが含まれますのでご注意ください。

あらすじ

物語は主人公の「僕」の視点で進められます。
エドワード・ノートン演じる「僕」は、自動車会社に勤務しながらリコールの調査のために全米を飛び回るサラリーマン。
気弱ではあるものの、高級なコンドミニアムに住みながらお洒落な家具やこだわりの食器、ブランドのスーツなどを揃える、端から見れば恵まれた生活を送ります。

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ところが彼はそんな生活の中で虚無感や満たされない気持ちに苛まれ、不眠症を抱えていました。
生きている実感の無さを抱える彼はある日、出張の帰りの飛行機でタイラー・ダーデン(ブラット・ピット)と隣の席になり、意気投合します。

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派手なスーツに、明るくてワイルドで奔放な、自分とは真逆の性格のタイラーに、僕は憧れのような感情を抱きながら、連絡先を交換し別れます。

ところがその後二人は再会し、酒を酌み交わしたあと、タイラーは「僕」に対して自分を殴るように言います。
酔っていたとはいえそこで初めて人を殴り、殴られることで「痛み」と共に生の実感がこみ上げていきます。
そしてそれを目撃していた人々と共に、二人は会員制の喧嘩場所「Fight Club」を立ち上げます。
そこには僕と同じく社会で何かしらの虚無感や孤独感を抱えた人々が集まり、いつしかタイラーはカリスマ性を発揮。
ついには彼の命令通りに動く兵隊のような存在になっていきテロを企ててしまう、というストーリーです。

満たされない「僕」と現代人

あらすじにも書いた通り、主人公の「僕」は仕事もそれなりで、自慢のマンションも持っている、端から見れば成功している人物です。
いや、むしろ彼はその「成功している」と思われるようなことを進んで達成したからこそ、虚無感に襲われたのかもしれません。
この映画が制作された当時はまだSNSもない時代でした。
しかし、社会には「成功」や「幸せ」のステータスというものが存在し、そのステータスを身に付けようと頑張った末に、その先に満足感はなかったというのが「僕」なのです。

SNSによって、他人との比べっこが日常茶飯事となった今、現代にはたくさん「僕」がいるのかもしれません。

自分にとってのタイラー・ダーデン

そんな「僕」にとって、タイラー・ダーデンは、自由奔放で野蛮で、男前。
自分が持っていないものを全て持ち合わせた人物でした。
そんなタイラーと交流するうちに自分自身が変わっていく気がして、「僕」は高揚感を覚えます。
しかし同時に、如何ともしがたい「人間としての差」のようなものが、「僕」のコンプレックスを刺激し、悩みの種ともなっていくのです。

タイラー・ダーデンのような人物ではないにしろ、人にはそれぞれ「自分が持っていない物を全部持った人」がいるのではないでしょうか。

まさかの結末

ここからは大きなネタバレが含まれますので、ご注意ください。
物語の後半、「僕」はタイラーへの不満を募らせるようになります。
それは、自分にはないカリスマ性を持ち合わせた彼の元に人が集まり、一緒に始めたはずのFight Clubも彼を中心に回りはじめ、ついには彼の命令の下で人々はテロ行為に手を染めはじめます。

そしてついに「僕」はタイラーと、それに従う人々を問い詰めます。
しかし、その声は届くことなく、なぜ誰もが全てをわかっているかのように薄ら笑いを浮かべるのです。

そしてたどり着いた衝撃の事実。

なんとタイラー・ダーデンは「僕」が頭の中で作りだした人物だったのです。
タイラーと二人でした行動も、タイラーの言動も、全て「僕」自身が行っていたという衝撃の事実がそこにはあったのでした。

つまり「僕」は、自分の持っていないものを全て兼ね備えたタイラー・ダーデンという自分ではない誰を作り出し、なり切ることで自分の願望を叶え、気づけばその人格のコントロールができなくなってしまったというのが、この物語だったのです。

最終的に、その事実に気づいた「僕」はタイラーと決別することに成功しますが、時すでに遅し。
タイラー(僕)の指示によって、アメリカ経済の中心を担うビル群は爆破され、崩れ去っていくのでした。

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仏様は僧侶のタイラー・ダーデン?

自分という人間に足りなさを感じ、その足りない部分を持ち合わせている人を見ては憧れるという経験は、人生の中で多かれ少なかれ経験することでしょう。
幼い頃に見た戦隊ヒーローの強さ、アイドルの華やかさ、友人の優秀さ、色々な憧れがあるはずです。

実は僧侶というのは、それが非常に強い生き方と言えます。
出家・修行をして人生の苦しみから解放されたお釈迦様を慕い、憧れることが、仏教の僧侶の出発点でした。
では、僧侶は「僕」のように自分とは別の「お釈迦様」という名のタイラーを生み出せばいいのかというと、それは違います。

昔の中国の禅僧の問答に「磨磚作鏡(ませんさきょう)」というものがあります。

あるところに、非常に熱心に坐禅をしている修行僧がいました。

するとそこにお師匠様がやってきて

「そんなに熱心に坐禅をして何になろうとしているんだい?」と尋ねます。

修行僧は答えます。

「仏になろうとしています。」

それを聞いたお師匠様は「そうかいそうかい」と言いながらどこかへ去って行き、しばらくすると瓦を手に持って帰ってきました。
修行僧はその様子を見ていると、お師匠様はその瓦をゴシゴシと磨き始めたのです。
驚いた修行僧は「お師匠様、何をなさっているんですか?」と尋ねました。
するとお師匠様は「ん?瓦を磨いて鏡にしようとしているんだよ。」と答えます。
修行僧は思わず「瓦を磨いたって鏡にはなりませんよ!瓦は瓦です!」と指摘をしました。

そこでお師匠様が一言。

「そう、どれだけ磨こうが瓦は瓦。鏡にはならん。どれだけ坐禅をしようがお前はお前じゃ。」

この一言が、修行僧の坐禅に対する向き合い方を大きく変え、後に彼は馬祖道一として歴史に名を残す名僧となっていくのでした。

私は私と言う仏になる

「Fight Club」での「僕」の失敗は、自分の抱える不満や虚無感というものを、タイラーという別人格によって払拭しようとしたことだと、私は思います。
自分の人生を自分で背負い、その時にできるベストな選択をしようとしていく。
たとえそれが思うようにいかなくても、「それでも正しくあろう」と願い、「私が」歩を進めることが仏道です。
決して今ある自分の人生を放り出して、別人格として歩むものではないのです。
私も時々、自分の弱さ・無力さに打ちひしがれて、現実の自分はさておいてタイラーを生み出してしまいそうになることがあります。

「Fight Club」は、理想と現実の間で揺れながら歩む仏道に通ずる作品であったように、私は感じました。

まとめ

描写の過激さや暴力性から、万人にオススメができる作品とは言い切れませんが、人の「理想と現実」というテーマを非常におもしろい角度から描いた作品でした。
現代になって観ると、この作品が制作された当時よりも、このメッセージが響く人は増えているのかもしれません。
私は過激な描写の「磨磚作鏡」として、興味深く拝見しました。

☆こんな人にオススメ☆

・大どんでん返しが好きな方(ここでネタバレしてますが)
・ハラハラする過激な描写が好きな方
・メッセージ性が強い作品が好きな方

アマゾンプライムビデオでご覧いただけます。https://www.amazon.co.jp/Fight-Club-%E5%AD%97%E5%B9%95%E7%89%88-%E3%83%87%E3%82%A4%E3%83%93%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC/dp/B07GQ6RBP2/ref=sr_1_4?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&crid=3UHH813YDZVHF&dchild=1&keywords=fight+club&qid=1597929747&s=instant-video&sprefix=fight%2Cinstant-video%2C728&sr=1-4

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