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『セッション』の配置演出

ちょっと前の映画、と思ったらもうだいぶ前(2015年)なんですね……

アマプラにあったので見たんですが、
シンプルでいい、無駄に複雑にする必要は無い
と思えた配置演出でした。

向かい合って座ってるだけだが映画全体を通して見ると、二人にとっては特別な意味を持つ。

映画は鬼教師フレッチャーと生徒ニーマンのほぼ1対1のドラマで、フレッチャーはニーマンにビンタするわ椅子投げるわで、尋常でない圧力をかけてニーマンを追い詰めていく。
その間、フレッチャーがニーマンを見下ろす配置・構図がずっと続きます。

8割がた、上から目線状態。



そんなフレッチャーの高圧的ハラスメントの中、何度かフレッチャーがニーマンより低い or 同じ高さになる時があります。


教え子の死の報せを受けたフレッチャー。冷徹なフレッチャーが人間的な動揺を垣間見せる。このシーンの前後でもフレッチャーが腰を下ろしてるシーンがあります。一つは油断させておいてニーマンに当て馬としてコノリーをぶつけるところ。もう一つは教え子ショーンの死を生徒たちの前で悼むシーン。フレッチャーの厳しさは愛情の裏返しなのかもしれない、この異常な教育方法にも一理あるのかもしれない、と思わせられてしまう。

音楽院をクビになったフレッチャーが、ジャズバーでゲスト演奏しているシーン。ステージ上だけどフレッチャーが座ってることで、ニーマンと同じぐらいの目線の高さになっている。これまでの高圧的な印象は無く、角が取れて温和な印象すら受けます。そう演出する為に腰を下ろして弾くピアノを楽器として選んだのかもしれないですね。ニーマンをアオリで撮ってることで、その対比でフレッチャーがパワーダウンして見えている、というのもありそうです。立ち去ろうとするニーマンを引き留める一瞬だけフレッチャーのアオリのショットが入って、トラウマを思い出すようにドキッとします。

映画中唯一?腰を下ろして同じ目線の高さで話す場面。フレッチャーが師弟の関係ではなく、対等の関係でニーマンに腹を割ってるように感じられます。この演出によってフレッチャーも大変だったんだね、と共感を覚えるのだが……
場面を切り取った俯瞰図だけでは、たいして工夫が無いように見えます。
が、映画全体通しての上下の関係で見ると、これはちゃんと計算してるよなー、と思います。

高低差を平たくすることで主人公(と視聴者)を束の間油断させ、ニーマンとフレッチャーが和解しコンサートを成功させて終わるかもしれない(フレッチャーの言うgood job、な終わり方)という安易な想像をバーン!とひっくり返し、あのラストへと……

もしこの二人の会話シーンが、いつも通りの上下関係だったとしたら。
もしフレッチャーが映画前半、冷徹なだけで人間味を(本心でなくとも)垣間見せていなかったら。

最後の裏切りはこれほどうまく機能しなかったんじゃないかと思います。
周到に計算されたと思われる配置演出に、自分は気持ちよーく転がされてしまいました。

シンプルでいいんだよ(自戒)。

あ、それと記事書くのに見返してたら、ニーマンのTシャツの色が白から黒(フレッチャーの色)に徐々に変化しているのに気づきました。ニーマンはフレッチャーの側にいったってことを暗示してるんでしょうね。
視覚的なサブテキストとしてこれも絶対計算されてるはず。

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