海と写真と物語
僕は海が好きだ。
なぜだろう?
海あり県、高知の出身なので記憶の奥底に刻まれた何かが存在するのだろうか。
最も古い幼少期の頃の海に関する記憶。とある海水浴場。
自分のわがままで堤防から浜まで降りて砂遊びしていたものの、すぐに飽きて「帰りたい!」と砂に埋れながら親に駄々をこねたこと。
呆れ顔の母の顔、5メートルほど離れた距離から「自分で歩いて帰ってき」と厳しく叱るものの、決しておいて行ったりはしない優しさ。
そういった景色を覚えている。
最終的には10分ほど粘っておんぶしてもらったっけか。
齢四十を越え、浜辺でおんぶなんてしてもらうようなことは当たり前の様になくなったけど、いつだって海という場所で見かけるのは水遊びや砂遊びに興じる親子、カップルの楽しそうな姿だ。
子供を肩車して海の広さを自分の目線から見せてあげている父親の、どこか誇らしい後ろ姿。
子供から少し離れた場所で水遊びをしている姿を優しい目で見つめている母親。
波打ち際を一緒に歩きながら、彼女が砂や波に足をとられて躓いてしまわないようにそっと手を繋いであげる彼。
そう。海にいると、物理的にせよそうでないにせよ、色んな「繋がり」を目にすることができるのが個人的な楽しみなのだ。
僕は写真を撮る。
十数年前ならまだしも、今では海、特に夏の浜辺でなんてカメラを向けていたら白い目でみられることも多い。
それでも僕は、ついつい海で起こる物語にレンズを向けてしまう。
いつだって同じ景色というものはない。
「青い空、白い雲」なんて昔から使われているありきたりな表現にしたって、実は無数のバリエーションがある。
季節によって光の強さも違えば湿度も違う。
というか天気によっても見え方は千差万別だ。
波の強さも、大きさも違う。
当然、そこにいる人も起こる物語も違うのだ。
景色だけ撮っていても十分に僕の心を満たしてくれる「海」という被写体ではあるけれど、その中でも特に際立った「物語」がどこかに転がっていないか?といつも心を踊らせながら波音と海風に身を委ねている。
海に行きたくなったら最近だと鎌倉だ。
電車で1時間の距離。
「ガタンゴトン」と電車の音と揺れに身を委ね、これから出会う物語についつい期待してしまう。
「自然を観ていると、人間の小ささを意識してしまう」
とは誰の、何の言葉だったか。
流石に月や宇宙船から地球を眺めるような壮大なシーンは自身には摂取不可だけど、そう、例えば飛行機なんかで離陸する時に窓から小さくなっていく景色を観ながら「うわあ」ってなる気持ち、あれを海の波打ち際で水平線を見渡しながら感じるのも好きだ。
そんな景色、ついつい撮ってしまうので海に行くと似たような写真が多くなりがちなのは写真を撮られる皆さんのことなら「うんうん」と頷いてくれることだろう。
さて、今年もいよいよ熱くなってきた。今日は真夏日だ。
井の頭線沿いの紫陽花たちは、梅雨を前にして暑さでもう色を失いつつある。
今年も「物語」を求めて海へ行こう。
青い海はあまり見かけないし、白い目で見られがちな昨今のフォトグラファーだけど、気にしないのだ。
サーフィンなんてしないクセに、ついつい「波が待ってるんだ」なんて呟いてしまいそうな程にアツい季節がそこまできているのだから。