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音楽家と歴史・社会 -22: フランツ・リストの偉大な音楽人生

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回から、何回かに分けて、超絶技巧のピアニストで、かつ、ロマン派音楽の作曲家のフランツ・リストの音楽と生涯をたどりつつ、リストを得意とするピアニストを紹介していきます。おまけとして、私の10代の頃のことも書く予定です。

9月の連休に、東京芸術会館コンサートホールにおいて、金子三勇士のピアノ・ソロによるリスト作曲ピアノ協奏曲第1番を聴いた。私が三勇士のファンになったのは、昨年、彼の御父君と仕事で親しくなってからだ。三勇士は、実母がハンガリー人で幼少期からハンガリーに渡り、11歳の時に飛び級でリスト音楽院大学に入り、全過程を習得し、高校生になるときに日本に戻ってきた。当然の成り行きかもしれないが、金子三勇士のリサイタルは、フランツ・リスト(以下「リスト」という)の曲が中心のようだ。

リストが生誕した1811年の頃、ハンガリー王国はオーストリア帝国の支配下にあった。リストはハンガリー人であるという意識はあったが、ハンガリー語を話すことはなかった。すなわち、ドイツ民族の東方植民の子孫であり、幼少期からドイツ語だけを離し、ドイツ音楽・文化に馴染んでいた。10歳になる前に公開演奏会を行っていたリストは、1822年にウィーンに移住し、ウィーン音楽院でカール・チェルニー及びアントニオ・サリエリに師事した。翌年4月13日の演奏会において、老境のベートーヴェンに会い「聖別のキス」をもらえた(真偽は不明)。

ピアニストとしてのヴィルトゥオーゾとなったリストは、フレデリク・ショパン、ロベルト・シューマンらとも親交を結んだ。リストの演奏会には、多くの女性ファンがつめかけ、失神が続出したとの逸話も残る。現代の芸能界のスターのような位置づけであったのだろう。
女性関係も多彩であり、有名なマリー・ダグー伯爵夫人との同棲生活で一男二女を儲けた。次女のコジマは、後にリヒャルト・ワーグナーの妻となった。
派手な私生活ではあったが、音楽にかける情熱は素晴らしく、後進の指導の際には謝礼を取らず、多くの優秀な弟子を育て、人格者として知られた。

作曲家としてのリストは、ピアニスト時代のオリジナル曲に加えて、他者の管弦楽や歌曲等の多数のピアノ版編曲、ヴァイマール宮廷楽長になってからの交響詩、1861年にローマに移住(1865年にフランシスコ会修道士になった)してから取り組んだ宗教的な曲など、長期間に亘って膨大な作品群を残した。
このうち、最も有名な作品の一つとして、ピアノソナタ ロ短調(S.178)を挙げたい。普通のソナタは3つの楽章から構成されているが、本曲は全体が切れ目なく演奏される斬新なものだ。神秘的な序奏から始まり、粗暴さと美しさを兼ね備えた名曲である。ただ、発表当時には批判も多く、クララ・シューマンの日記では、酷評されている。本当に有名になったのは、リストの弟子達がコンサートで弾き続け、20世紀になってからのようだ。
現在、私は、金子三勇士のCD「リスト・リサイタル」で本曲を堪能している♬

さて、リストの音楽は、晩年になるにつれて、さらに深淵なものとなっていく。次回以降、当時の時代背景も含めて、次回分析してみたい。

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