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「清和源氏」の歴史⑪

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。

1180年8月、石橋山合戦で敗れ安房国に逃れた源頼朝は、房総半島の豪族達をわずか2か月足らずで結集し、同年10月に鎌倉に入る。実父の源義朝が住んでいた地である。そして、Part 3のコメント欄に書いた通り、「河内源氏」2代目の源頼義が鶴岡若宮を勧請し、3代目源八幡太郎義家がその修繕をした場所である。

源頼朝は、鎌倉を「河内源氏」の再興の地にすることで、坂東武士達の棟梁となる宣言をしたつもりだったのだろう。その棟梁の名称は、ずばり「鎌倉殿」だ。

源頼朝とほぼ同じ時期に、「甲斐源氏」の武田信義も挙兵する。八幡太郎義家の弟の新羅三郎義光の子孫だ。

これら東国の反乱を鎮圧するため、平家は平維盛率いる追討使を送ったが、武田信義と源頼朝の軍は合流し、富士川の戦いでこれを撃退する。

また、源義朝の弟の源義賢の嫡男の木曾義仲も挙兵した。暫くの間、京から見た東国には、源頼朝、武田信義、木曾義仲の3つの源氏勢力が存在した。

ただ、源頼朝は、平家が支配する京にはすぐには攻め込まず、東国の支配に専念する。これは、坂東武士達からの信頼を得ることを政治的な目標にしたからであろう。まずは常陸国の佐竹氏(これも源義光の子孫)を追討するが、その頃に、末弟の源義経と会ったらしい。

源義経は、奥州藤原氏の当主・藤原秀衡の庇護を受けていたが、源頼朝の軍門下で打倒平家の尖兵となっていく。  

ただ、最初に源義経が対峙したのは、先に京に攻め上り、平家を西方に駆逐した従兄弟の木曾義仲であった。歴史の皮肉というよりは、「清和源氏」の宿命だったのだろう。

(つづく)


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