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「清和源氏」の歴史⑭

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。今回は、源義経の同母兄の非業の死についてです。

常盤御前を母とする源義経(幼名: 牛若)には、2人の同母兄がいた。阿野全成(幼名: 今若)と義円(幼名: 乙若)だ。

先に亡くなったのは、義円だった。

1160年の平治の乱で、父親の源義朝が尾張国で殺された後、園城寺(滋賀県大津市)で出家して、父の一字をとって義円と名乗った。1180年の源頼朝の挙兵に馳せ参じ、1181年3月、源行家の京への進軍に付き従う。源頼朝は、叔父の源行家に全ての手柄を取られないよう、異母弟の義円を派遣した可能性がある。

平重衡が率いる平家軍は、杭瀬川(岐阜県大垣市)を渡り右岸の墨俣側に陣した。

義円は、源行家に先陣されては、兄の頼朝に合わす顔がないと考え、唯一敵陣側の岸に潜んで、夜明けを待っていたところ、見廻り夜警兵に見とがめられ討たれた。

弟の義経と比べて、あまりにもあっけない死に方。源頼朝がそこまで想定していのかは不明だ。

源平墨俣川古戦場に義円公園があり、義円が供養されている。

義円の同母兄の今若も、醍醐寺にて出家させられ、全成と名乗る。多難な青春時代に荒くれ者となり、悪禅師との異名をとる。

1190年8月の石橋の戦いの後、兄弟として最初に頼朝に対面した。同年11月に、北条時政の娘(後の阿波局)と結ばれるが、還俗しないまま御家人となり、源頼朝を支えたと考えられる。全成が、駿河国阿野荘(静岡県沼津市)を領有したことは確かだ。

ただし「吾妻鏡」における源頼朝の支配期での全成に関する記録が極めて少ないのが気になる。

1199年、源頼朝の急死後、全成は、北条時政らと組み、二代目鎌倉殿の源頼家と対立したらしい。全成は、先手を取った頼家一派から謀反人として捕らえられ、常陸国に送られた後、八田知家らに処刑された。また、全成の三男の頼全が、京の東山延年寺で源仲章・佐々木定綱らが遣わした在京御家人によって誅殺された。

義円は、源頼朝の代理で源平合戦の緒戦で戦死。全成は、源頼家と北条氏との対立の中で捨て石とされた。

全成の死において、江間(北条)義時が暗躍した可能性は高い。

結局、源頼朝と常盤御前の3人の息子達すべてが、非業の死を遂げた。呪われた「清和源氏」。

(つづく)


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