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「清和源氏」の歴史②

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について、書いています。

清和天皇の孫に当たる経基王が臣籍降下して、「源」姓を賜ったのが、武家源氏の最も有名な「清和源氏」とされてきた。

しかし、1900年、東京帝国大学教授の星野恒が、経基王は清和天皇の長子の陽成天皇の孫であるとの新説を唱え、昭和になってからはそれが定説となった。
陽明天皇の皇親が臣籍降下したのであれば、「陽成源氏」となり、後世での呼び名が嘘となる。また、陽成天皇は、摂政の藤原基経との確執に加え、宮中で乳兄弟を殺害した疑惑など、極めて評判が悪かった。子孫の源頼朝が鎌倉殿になるには都合が悪かっただろう。
2015年、早稲田大学大学院の藤田佳希が「源経基の出自と『源頼信告文』」という論文を発表し、やはり陽成天皇の系統ではないと結論づけたが、真偽は不明である。
938年、源経基は、武蔵介を任じられて武蔵国に赴任して、平将門と一悶着を起こした。その後の平将門の乱、藤原純友の乱を通じて名声が高まる。嫡子の源満仲、その長男の源頼光は、藤原摂関家に忠勤を示し、まるで警護隊のような働きぶりを示したらしい。
特に源頼光は、大江山の酒呑童子の退治で有名。勿論、後代の創作だが、嵯峨源氏の渡辺綱を筆頭にした頼光四天王を従えていたのは、事実かもしれない。
源頼光は、摂津国多田の地を相続し、その子孫は「清和源氏」の一系統である「摂津源氏」と呼ばれた。
他方、源頼光の異母弟の源頼信の子孫も、別系統の「河内源氏」と呼ばれ、平安末期に源平合戦を繰り広げた武家源氏の主流となる。
源頼信の長男頼義の頃から、「河内源氏」は、主に東国で活躍することとなり、「坂東平氏」との間で数奇な関係を持つこととなる。
それは、摂関政治から院政への転換期と重なる。
(つづく)

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