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「清和源氏」の歴史⑦

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」について書いています。ようやく、源頼朝の親の世代まで来ました。

1086年から白河上皇が始めた院政は、その孫の鳥羽法皇において頂点を極める。ただ、この2人の「治天の君」の間には、ある女性を巡る因縁があった。藤原璋子(待賢門院)が産んだ崇徳天皇を巡るゴシップである。

7歳の時に実父藤原公実を失った藤原璋子は、白河法皇に育てられた。摂政・関白を歴任した藤原忠実の嫡子忠通との縁談が持ちあがったが、璋子の側に何らかの問題があり破談。これが伏線!

1118年1月、璋子は、白河法皇の孫の鳥羽天皇に入内し中宮となり、1119年7月、第一皇子・顕仁親王を産む。後の崇徳天皇である。後に、鳥羽天皇の息子ではなく、祖父の白河法皇の胤だとの黒い噂が囁かれる。

1124年、璋子は、院号を宣下されて待賢門院と称した後、1127年、雅仁親王を産んだ。後の後白河天皇である。

崇徳天皇の在位は、1123年2月〜1142年1月であり、子供だった。鳥羽上皇が(本当に?)愛した側妃の藤原得子(美福門院)の息子(近衛天皇)に無理矢理譲位されられた。崇徳上皇にはなったものの、政治の実権は父の鳥羽法皇に握られ、自分の息子も天皇になれず、近衛天皇の後には後白河天皇が即位する。(出自の疑惑からか?)不遇を囲う。

1156年(保元元年)、鳥羽法皇が崩御し、約70年続いた院政が激動期を迎える。朝廷と藤原摂関家が、後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれて激突したのだ。

この保元の乱では、「清和源氏」、「伊勢平氏」も、それぞれ見事に分裂した。 

源為義と嫡男義朝は、実の父子であるにもかかわらず、対立した。義朝は、鳥羽法皇に接近し過ぎて、藤原摂関家と結ぶ為義と競合していた。

このため、源為義と弟の為朝は崇徳上皇側、源義朝は後白河天皇側についた。平忠正とその甥の平清盛も、それぞれ崇徳上皇側と、後白河天皇側に分裂した。

戦いはあっけなく、後白河天皇側の圧勝に終わった。崇徳上皇は、讃岐国に流された。天皇又は上皇の配流は、400年ぶりの出来事だった。恨み悶え死んだ崇徳上皇は、日本三大怨霊の一つとなった。

捕らえられた源為義の命乞いをする義朝に対して、後白河天皇側の黒幕であった信西の命令は残酷だった。義朝自らが、実父為義の首を切れと。

(つづく)

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