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音楽家と歴史・社会 -3: ラフマニノフの生涯

主にクラシック音楽に係る歴史、社会等について、書いています。今回は、セルゲイ・ラフマニノフ(1873年4月1日 - 1943年3月28日)についてです。

ラフマニノフは、私に音楽(特にピアノ)の素晴らしさを教えてくれた。小学生6年頃に、ピアノ協奏曲第2番ハ短調を、テレビで放映されたハリウッド映画「永遠に君を愛す」で聴いた。今思うに、陳腐なメロドラマであったが、ヒロインの女性ピアニストが時を隔てて弾く第1楽章と第3楽章のシーンが劇的だった。

ラフマニノフの人生は、ロシア革命を挟んだ激動期における音楽史を華麗に刻んだが、その道のりは波乱に富んだものだった。

【音楽家と歴史・社会 -1】で取り上げたアレクサンドル・スクリャービンが、1898年、モスクワ音楽院のピアノ科教授に就任した時、それがラフマニノフではなかったことに、驚きの声が上がったらしい。

ラフマニノフは、1891年にモスクワ音楽院を首席で卒業。次席のスクリャービンとのライバル関係が有名であったと書いた。

1892年、モスクワ電気博覧会で前奏曲嬰ハ短調を初演し、好評を博した。(本曲は、フィギュアスケーターの浅田真央が、2010年のバンクーバー冬季五輪等のフリープログラムで使った)

しかし、1897年のペテルブルクでの交響曲第1番の初演が失敗し、神経衰弱に陥ってしまう。背景には、モスクワ楽派とペテルブルクの国民楽派の対立があったらしい。

モスクワとペテルブルクの微妙な関係は、東京と大阪のそれ以上に、(今も)難しいのだろう。

1901年のピアノ協奏曲第2番ハ短調の初演の大成功を機に、ラフマニノフは作曲家として復活する。そして、1904年から1906年まで、ボリショイ劇場の指揮者を務めた。1909年には、ピアノ協奏曲第3番ニ短調をニューヨークで初演した。

1917年のロシア革命でボリシェヴィキが政権を掌握した後、家族とともに、北欧等を経由して、アメリカに移住した。

そして、世界的なコンサート・ピアニストとして名声を博すのだが、かわりに作曲活動が低調となる。

この頃の彼の悩みを描いた映画「ラフマニノフ ある愛の調べ」では、気難しいラフマニノフに献身的に尽くす妻の姿が描かれている。

故郷ロシアのライラックの花を愛したラフマニノフは、作曲不振に陥った理由を、「もう何年もライ麦のささやきも白樺のざわめきも聞いてない」と自己解説した。

1942年に、ロサンゼルスのビバリーヒルズに引っ越し、翌年、悪性黒色腫で死去。

今年は、ラフマニノフ生誕150年、死後80年の節目だ。

冒頭に記した映画「永遠に君を愛す I've Always Loved You 」が公開された1946年は、ラフマニノフが亡くなった4年後となる。

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