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「清和源氏」の歴史⑮

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。

源義朝の六男、源範頼の母は、池田宿(静岡県磐田市)の遊女とされる。遠江国蒲御厨(静岡県浜松市)で生まれ育ったため、蒲冠者や蒲殿と呼ばれる。

1160年の平治の乱に際して、範頼の存在は知られることなく、養父の藤原範季の保護を受けた。

源範頼が頼朝の挙兵にいつ参加したかは不明である。吾妻鏡でも1183年の記録で初めて名前が出てくる。1184年、頼朝の代官として源義仲追討の大将軍となり、1185年の平家追討に際して、弟の源義経と連携して、活躍する。

しかし、壇ノ浦の戦い以降、源頼朝が義経の独断専行への不信感を高める中、範頼は頼朝の顔を立て、鎌倉政権における立場を確保する。

源範頼は、自分が生き残るため、義経の不義を目立たせるように振る舞ったのかもしれない。

武蔵国横見郡吉見郷(埼玉県比企郡吉見町)を領し、安達盛長の娘を娶る。

しかし、1189年7月、頼朝自ら出陣し、奥州藤原氏を滅ぼした奥州合戦以降、源範頼の活躍の場はなくなる。

皮肉なことに、数多い合戦での実績で声望が高まった範頼は、京の公家達の勢力争いに利用されてしまう。

政治の季節の到来に際して、源頼朝は、範頼の存在をリスクとして認識したのは間違いない。

1193年の富士の巻狩りにおいて発生した曾我兄弟の仇討ち事件で、源頼朝が討たれたとの誤報が鎌倉にもたらされる。

範頼は、(次の鎌倉殿候補として)自分が控えていると発言し、頼朝から謀反を疑われたとされているが、これは吾妻鏡では記録されておらず、信憑性が少ない。

源範頼は、頼朝への忠誠を誓う起請文を送るが、「源範頼」と源姓で署名したことで、更なる疑いをかけられ、伊豆国修禅寺の信功院に幽閉された。全て、源範頼を排除するための言い掛かりと解釈するのが妥当だろう。

吾妻鏡では、範頼が誅殺されたとの記述はない。修禅寺では死なず、越前国や武蔵国に隠れ住んだとの伝説もある。

なお、範頼の次男の範円及び三男の源昭は、外曾祖母である比企尼の嘆願により助命された。範円の子孫は、御家人の吉見氏として存続した。

(つづく)


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