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「清和源氏」の歴史⑫

「鎌倉殿の13人」で脚光を浴びている「清和源氏」の歴史について書いています。今回は、源頼朝と木曾義仲を比較します。

もし、木曾義仲が京に政府を作って数十年でも権力を維持できていたら、源頼朝と立場が逆転していただろう。

すなわち、歴史の教科書において、源義仲と伊豆頼朝として紹介されていたはずだ。

Part 11で書いた通り、東国には木曾の義仲、甲斐源氏及び伊豆の流人頼朝の3勢力が存在していた。

頼朝は、富士川の合戦後、東国の支配を固めながら、平家追討後の日本の政治体制を考えていたと思われる。

そもそも、平清盛率いる平家の天下は、長続きするものではなかった。平家は、地方の政治を動かしていた武士達の利益を守る側に立たず、藤原摂関家の代わりになろうとしていたからだ。

藤原氏が荘園を増やし、律令制が崩れる中で、地方での土地や治水を巡る紛争を仕切っていたのは、土着の武士であった。彼らは、地場の暴力団みたいなもので、縄張り争いが絶えない。そこで、揉め事を仕切り、みんなの権益を守ってくれる棟梁(親分)を求めていた。

伊豆で約20年間雌伏していた頼朝は、坂東武士の生態を観察しつつ、ある種の革命を夢想していたと思われる。舅の北条時政は、京の情報を収集しつつ、高貴な婿の技量を見定めた上で、一か八かの賭けに出た。

他方、木曾義仲は、倶利伽羅峠の戦いに勝ち、途中で多くの豪族の合流を得て、京に攻め登ったが、打倒目標の平家逃亡後のも抜けの空で自ら転んでしまう。

養和の飢饉により、兵糧が底をつき、飢えた兵が民家等から掠奪した。京都盆地は、穀倉地帯ではないので、琵琶湖の海運などが停まるとつらい。平家は、ナポレオンに攻められる前にモスクワを脱出したロシア王家みたいなものか。

後白河法皇は、京で評判を落とした義仲を見限った。義仲は、源範頼・義経率いる鎌倉軍に宇治川の戦いで敗れ、近江国粟津で討ち死にした。

義仲は気の毒ではあったが、時勢の先を見る力がなかったと言えるだろう。

他方、源頼朝は、自ら出陣せず、異母弟の範頼・義経を木曾義仲討伐に当てた。この時点で、「清和源氏」の中のライバル排除を企んでいた可能性もある。Part 5〜7で記載した、血みどろの内ゲバを前例にして。

(つづく)

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