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何故つくるのか

僕は公的には(一応)美術家なんだそうです。一応、というのはそれを名乗るのは確定申告のときだけだから。僕はなんと呼ばれようとあからさまに間違って(弁護士とか漁師とか)いなければなんでも構わない。

レタッチャー、フォトグラファー、DTPオペレーター、ディレクター… 案件と現場によっていろいろな呼び方をされる。それは“肩書”ではなく“役割”で呼ばれているからで、「あぁ、今日はDTPオペレーターの日だ」「今からお昼までディレクター」と、ともすれば混乱しがちな、その場での役割を確認するきっかけになっている。

こんな曖昧な状況になっているのは作品の売上だけでは、制作費等々を賄えないのでカメラとパソコンを使ってできる雑多な仕事をしているというありがちな現実があるからですが、美術家だのフォトグラファーに関してはそれを支える根拠もなく名乗ってしまってOKみたいな空気を感じて必要に迫られない限り口にしないことにしています。

肩書なんて名乗るモノじゃなくて、周りや世間にどう呼ばれているがを伝える名札みたいな物だと思うのです。個展をやったり、取材を受けたり、ないと相手に面倒をかけてしまいそうなときは(恥ずかしいから)控え目に言いますけど。だから外したっていい。


僕は「頼まれもしない写真を撮って出来の良いものに値段をつけて売る」という、言葉にするとなんだか怪しくもアコギな気配のすることをしているから、税務署の人も職業欄のカテゴリに困った末「美術家」というたいそうな響きの仕切りに押し込んだのだと思う。

*とはいえこのカテゴリの人と認定されるには、多少のハードルがあるようで僕の場合には、紙媒体や広告に名前がクレジットされたり、百貨店での展示が重なった年があって無事にお役所認定となり今日に至る訳ですが… やっぱりああいうところは旧来の権威的な媒体が効くんだなぁと(笑)

ところで何故、制作を続けるのかといえば、
儲かるとか、承認欲求ではありません。
儲かってないし、認められてもいないというのは今は置いといてください。


思いついたことを後悔するような手間のかかる作品をつくったり、承認どころか酷評と自己嫌悪、反省と後悔が絶え間なく続く稼業ですから。

「世の為、人の為、誰かの幸せを願って」
なんてことはまったくありません。

結果としてそうなったらいいな、くらいの良心はちょびっとありますけど目指してません。
親孝行なパンクスみたいでなんか嫌だ。

制作の動機は衝動と欲望、それに対する執着を抑えられないが為にただ思案を巡らせ手を動かしています。
個人的な動機を普遍的な表現として、いかに実現するか腐心するのが主たる業務です。

思いついてしまったことを実現せずにいられないという堪え性のない性格故、ということなのでしょう。

そして制作した作品を公開することには、まったく異なる考え方を用いています。関わってくださった方々、気に留めてくださった方々のことをたくさん考えます。それはつくる時の身勝手さの代償行為かも知れません。

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