見出し画像

0921_0927

画像1

朝から霧雨が降る憂鬱な土曜日。昨日は朝の10時から打合せ続きで気づいたら8時間ぐらい喋りっぱなしで、その間もずっと雨は我慢強く降り続いていて、帰る頃には耳鳴りがしていた。今日はとりあえず夕方実家に顔を出すぐらいの用事しかないので気は楽だが、それでも雨の日の外出は遠い親戚の葬式のように気が滅入る。

川崎の実家へはJRと私鉄を乗り継いで小一時間の道のりで、コロナの影響もあってだいぶご無沙汰だし来月から年末にかけてはまた怒涛のスケジュールになりそうなので、久しぶりに焼き肉でも食べるかということになったのだ。しかも今日はぼくの誕生日でもあって、もう嬉しいことはひとつもないが、集まりの理由としてはなかなか断りにくい。電車の中で57歳になった自分にあとどのくらいの時間が残されているか、ふと気になって計算してみた。自分がいつ死ぬかはわからないから、とりあえず不慮の事故などがないと仮定して、自分の責任で動けるであろう年齢を仮に75歳に設定すると18年、日数にすると6,575日になるようだ。その期間を長いと取るか短いと取るかはちょっとわからない。そんなものか、としか具体的な実感がわかない中途半端な数字だがこれが一日づつ減っていくのもまた揺るがない事実だ。

なぜこんな黄昏れた気分になったかといえば、たぶんNETFLIXの『もう終わりにしよう。原題:I'm Thinking of Ending Things』チャーリー・カウフマン監督(『マルコヴィッチの穴』の脚本家)作品をに観たせいだ。今この映画にちょっと立ち直れないくらい打ちのめされてしまって、普段以上に朦朧としているのだ。僕の知り合い、特に年長者には全員観て欲しい、今年イチオシ★5つぐらいの映画なのでここではあまり解説はしたくないが、少なくとも一部の事務的なカテゴリーにあるホラーとかスリラーでは決してない。ひとことで言えば「無名の人間の人生の黄昏れ」の話。なので、年長者に観て欲しいのだが、年長者ほど身に沁みてダメージが大きいかもしれない。そういう意味では危険な映画とも言える。監督のチャーリー・カウフマンの常識や一般論への頑なな抵抗と反発、報われない人々への共振性が静かに重く響く作品だ。

そんなわけで鬱々と実家へ向かい、ささやかな焼肉誕生会をしたわけだが、そこでちょっとしたオチがある。今年で57歳とずっと信じて疑わず今日まで56歳と公言し、公的文章にもそう記載してきたのだが、なんと1歳逆にサバを読んでいたことが母親との会話で判明したのだ。今日で57歳と思っていたが実際にはまだ56歳だった。なにを今更1歳ぐらいで大騒ぎをと思われるかもしれないが、たかが1歳されど1歳。一年分の時間の余裕が空から突然降ってきたような感覚で、これは自分でも驚くほどうれしい誤算だった。少なくともこの一年、下手したら二年越しの勘違いで喜びもひとしお、流行りのタイムリープを思わず実感する嬉しい誕生プレゼントになった。

我々は多かれ少なかれ豚舎の豚のようなものだけれども、その一頭一頭にも歴史があり物語がある。『もう終わりにしよう。』未見の方は是非!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?