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カマキリ

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花火の連射に叩き起こされた月曜日。花火の主は近所の大國魂神社。この神社は何かにつけて花火を上げる、しかも事前告知なしで。以前に全国でコロナ払いのサプライズ花火が打ち上がったことがあったが、その発案者が最初に相談に行ったのが大國魂神社だったそうだ。周辺住民に事前告知が必須の花火イベントだが、神社側は二つ返事でOK。理由は「うちはしょっちゅう花火上げてるから住民も免疫あるんで問題なし、やりましょー」とのことだったらしい。
そんなこんなで今日はなんのイベントだったっけ?と寝ぼけたアタマで考えて『すもも祭』にたどり着く。疫病退散のからす団扇を配布する夏休み初めのお祭り。例年なら参道にすももの露店が並んで賑やかだけど今年は露店は中止で参拝のみに限られている。それでも疫病退散を祈祷する来訪者で結構な人出。チャリで乗りつけ去年の団扇をお焚き上げして新しい団扇を入手。新しい団扇をビンビン煽っているとウィルスも吹き飛ばしている、ような気がする。ふと思い立ってその足で床屋に行きのび気味の髪を丸刈りにしてもらうとちょっときれいになった、気がする。

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GO TOキャンペーン関連のニュース報道によると、活用しないと損だとか、東京除外は不公平だとか、ずっと家の中に籠もっていてストレスも溜まっているからとか、見当違いの利己的な人は少なからずいる。その反面、連休を使って帰省を考える子供に「今は帰ってくるな、万が一陽性者を出したら家族だけの問題では収まらない」と、帰省を拒む故郷の親も少なからずいる。そのような状況下で「国も補助してくれるしストレス発散もしたいし観光地へ出かける」というのはやはりお気楽無責任と言わざるを得ない。宿泊先の「十分気をつけてお越しください」という言葉を鵜呑みに除菌スプレー大量持参で連休観光を準備する彼らに悪気はないのだろうが、十分に気をつけて〜の真意を想像できない/しないというのは相当お目出度いのではないか。

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梅雨の晴れ間という感じでもないがとりあえず雨は止んだ。今日は朝から植木の剪定の日。植木屋とかいわゆる現場関係の職人は雨が降ったら仕事は休み。単純明快わかりやすい。個人的には長年雨を忌み嫌っていて、高校生の頃も雨が降った日は休みがちだった。今でも打合せ等で雨の中出かけなきゃいけないときは憂鬱でならない。職種に現場関係を選んでいれば良かったのかもしれない。なんとか作業中は雨も我慢してくれて無事完了。予算の関係で高木のみ剪定してもらったので今度は中低木のとっ散らかり加減が目立ってきた(給付金はほぼこれで消えてしまった)。梅雨が開けたらこちらも手を入れなくてはならない。ハァ……。

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老舗ブランドのブランディング、企業理念を咀嚼しスローガンを紡ぎ出す。老舗であればあるほどこの「紡ぎ出す」という言葉が相応しい。なぜなら現在にたどり着くまでに膨大な時間と紆余曲折があり、それを第三者がいくら因数分解しても一朝一夕に理解できるものではない。ということを依頼側が最も強く思っているからだ。ブランドの将来のために整理し再スタートを準備しなくてはならないことを理解はするがどう実行に移すかというところでたちまち靄がかかってきてしまう。それだけ歴史の堆積は根深く強固なのだ。それは理屈ではなく、これまでこうしてきたという日常の事実。それを一部でも修正した方が良いからといってすぐに変えられるものではない。それは絵画修復に似て根気と集中力を要する作業だ。絵に負担をかけずに少しづつ丁寧に汚れを落とし、元の美しさを復元する。新しい絵を描いてしまったら元も子もない。

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「経済を回すために連休を利用して全国の観光地に「GO TO」出かけてください、費用の一部を国が還付します」そして「新型コロナウィルスの新規感染者数が爆発的に増えています。これを警告として不要不急の外出は気を引き締めて自粛してください」この二つの相反する命題を同時に咀嚼できるのは日本人だけかもしれない。今なにが最優先事項なのか優先順位をつける能力が行政にないから結局最後は個人の自助努力に頼る。これまでもこれからも、ずっと続くこの国の作法。

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ロッククライミングの基礎として重要なのは3点支持だという。両手足のうち3点を使って身体を保持して残りの1点で次の支点を探す、その繰り返しが基本。当然、4点支持が最も安全なのだがそこには致命的欠点がある。そう、4点支持だといつまでたってもどこにも動けない。つまり、安全を確保すれば前には進めずそこでゆっくり干乾びていくのを待つしかない、それが嫌なら前に進むためにある程度のリスクを覚悟して次の支点を探すしかない。これは日常生活にも言えること。そんなことを今日庭のカマキリを見つけてふと思った。ちなみにカマキリは4点支持でもあと2本余っている。

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誰かが言った。絶望がすべての始まり。そうだと思う。絶望はタブー視されて表にはなかなか出てこない。出てこないからといって存在しないのかといえばそんなことは当然なくそこら中に存在している。ただそれを直視する勇気がないだけの話。どんなに無視しても先送りにしても絶望は明白にそこにあって、その明白な絶望をそのまま受け入れることからしかその先の道はない。なのにひとはその隣に座る絶望を意識しつつも無いものとして共生を選択する。その間に絶望は肥大化し、ひとは自分が飲み込まれるまでその存在を認めようとしない。

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